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いま「シンデレラ」からなにを読み取るべきか。(ペーパー・ソーシャルワーカーの御粗末論考)

公演も終わり少し落ち着いたので、ここ最近観た映画や舞台や本の話などを、ぼちぼち書いていこうと思う。

沖縄では毎年夏休み期間になると、『りっかりっかフェスタ』という舞台芸術祭が開催される。これは主に児童・青少年向けの作品が上演されるのだが、もちろん、大人が観ても楽しめるラインナップになっている。むしろ、近年は大人の観客の数のほうが多いんじゃないかと思うくらいで、あまりその傾向が強すぎるとフェスタ自体のコンセプトが揺らいでしまうので、運営側は大変だろうとは思うが。

約1週間の期間開催される『りっかりっかフェスタ』だが、今年度わたしは6作品7公演の舞台を鑑賞した。こんなにまとまって舞台を見ると、脳がショートしてしまいそうでした。ほんと。

鑑賞した作品のうちの一つが人形劇「シンデレラ」(ショーナ・レップ)だ。ストーリーは、そのまんまシンデレラ。たぶん多くのひとが共有している通りに物語は進行する。でもユニークなのは、その人形劇がいわゆるプロセニアム(額縁状の舞台)で行われるのではなく、すべて「テーブルの上」での上演だった。
シンデレラの人形と手袋型のイジワル姉妹。これらの“登場人物”が、たくさんの仕掛け(引き出しや穴など)が施されたテーブルの上で躍動していた。その躍動を司っていたのが、テーブルの外にいる一人のパフォーマーと通訳、それから音楽。
人形が動くテーブルの「面」という2Dと、パフォーマーが動く3Dの空間。これらをうまく併用して物語が進行していくさまは、とても新鮮な感覚だった。たとえば、玄関や部屋の扉は、テーブル上に建てつけるのではなく、テーブル面に「掘られて」いる。つまり、人形の足裏が着地する平面と、通過していく平面とが、同一なのだ。このような仕掛けが、テーブル(ひいては物語)のあらゆるとことに施されていて、そのたびに、これまでの自分の空間認識の方法が揺らぐのがわかる。それがとても面白かった。

ただ、今回書きたいことのメインは他にある。
シンデレラのストーリーから、わたしたちはなにを読み取るべきなのか、ということだ。

シンデレラは、家の中では奴隷のような扱いで、義理の姉たちに虐げられている。
ある日、お城の舞踏会に姉たちは着飾って出かけていくのだが、シンデレラはそこに行くことは叶わない。
と思っていたら、ある魔法使いの計らいによってドレスや馬車をあてがわれ、舞踏会へと出かけていく。そこで王子に見初められるが、魔法の効力が切れてしまう前に家に戻らねばならず、城を後にする。
シンデレラは誤ってガラスの靴を落としてしまうのでが、王子はその靴を手掛かりにシンデレラを探し出す。
晴れてシンデレラは妃として城に迎えられることになった。

というようなあらすじ。みんな知ってるやつ。
このあらすじを、わたしは、「ソーシャルワーク論」あるいは「エンパワメント論」として読み取いていきたいと思っている。
いちおう、わたくし兼島、これでも「社会福祉士」という国家資格をもっておりまして。。まあ、ペーパーですけど、、、

貧困や障がいや出自などにより排斥されてしまった人たち、社会の側から「見えないこと」にされた人たち。そのような存在のシンボルとしてシンデレラがいる。そして、イジワルな姉たちは、彼らを排除しようとする「社会」のメタファーである。
魔法使いという存在は、シンデレラをエンパワーするべくやってくる。さながらソーシャルワーカーのようなポジションだろうか。
王子という「セーフティネット」に見つけられ、繋がるために、魔法使いはシンデレラにドレスや馬車やガラスの靴を、“魔法”によって提供する。
重要なのは、これが“魔法”であり、だからそれは解けてしまうもの、つまり効力は「有限」であるということだ。
「有限」というベクトルのひとつは、万能ではない、ということだ。なんでもできるわけではない。すべてを魔法で賄えるわけではない。王子の前に直接シンデレラを連れていくわけではなく、衣服と移動手段を提供するのみだ。あとは舞踏会でのシンデレラ次第である。
支援者は、当事者のすべての問題を背負うことはできない。すべての問題を解決することはできない。シンデレラ自身が自らの人生を前に進めていくために、環境を整えたり、サポートをする、それしかできない。だれも彼女の問題を代わりに抱えたり解決したりはできないし、それは結局彼女自身のもつ能力を奪ってしまうことになる。だからこそ支援者は、自らの「有限性」を自覚し、そこを起点に支援を行っていかなければならないのだ。

魔法によって、ドレスや馬車やガラスの靴を授けられ、シンデレラは舞踏会に出ることができた。ドレスや馬車やガラスの靴は、直接的なケアかもしれないし、教育かもしれないし、あるいはソーシャル・アクションかもしれないが、それらによってシンデレラへのエンパワメントがなされ、シンデレラは舞踏会へと自らの足で赴くことができた。
國分功一郎の『中動態の世界』第8章「中動態と自由の哲学ーースピノザ」での議論が、「エンパワメント」という概念をわかりやすく説明している(といっても、本書のなかでその単語が出てくることはないのだが)。
國分は、17世紀オランダの哲学者・スピノザの「自由」の概念を手引きとして論を展開していくのだが、簡単に要約すると、「自由」=「能動」と「強制」=「受動」というのは、二項対立ではなく、「度合い」の違いなのだ、ということだ。人は完全なる自由意志をもつことはできない。常になんらかの外部刺激に晒されており、人はその刺激によって「変状」してしまうものなのだ。その変状の際に自らの「本質」がつよく表現されていると「自由」=「能動」、外部刺激に飲まれて「本質」が表現しにくい状況を「強制」=「不自由」とよんだ。

もうすこし砕けた説明をしたい。
人はその人の周囲をとりまく状況を無視して「純粋な行為」をすることはできない。必ずなんらかの影響を受ける。たとえばそれを数値的に表して、AさんとBさんそれぞれに、「10」の力で外圧が与えられているとする。Aさんはその外圧を「8」の力で押し返す(行為する)ことができる。一方Bさんは、「2」の力でしか押し返すことができない。このとき、相対的に、Aさんは「自由」=「能動」であり、Bさんは「強制」=「受動」の状態にあるということができる。

(「自由」=「能動」)
*Aさん →→→→→→→→←← 外部刺激

(「強制」=「受動」)
*Bさん →→←←←←←←←← 外部刺激

その「強制」=「受動」の状態にあるBさんに対して、ケアや教育を施したり、制度やサービスにつなげたりして、「2」を、「6」とか「7」とかにもっていく。これがエンパワメントということだ。

【エンパワメント】

(「強制」=「受動」)
*Bさん →→←←←←←←←← 外部刺激

(「自由」=「能動」)
*Bさん →→→→→→←←←← 外部刺激
↑↑↑↑↑↑
ケア、教育、制度・サービスなど

もうひとつの「有限性」のベクトルは、「時間」だ。かけられていた魔法は、いつか解けてしまう。ずっと魔法使いがお世話をしてくれるわけではない。つまり、いつまでもずっと支援者が伴走するわけではない。もちろん、病気や障害によって常にケアが必要な人もいる。でもそれでも、同じ介護者が常にいる保証はない。特定の人物だけがその負担を抱え込んでいて、その人がダウンしてしまい誰も介護する人がいない、というような二次的な問題が発生してしまうこともあり、その場合は、公的サービスなどにつなげる必要性もでてくる。そういった意味で時間的な「有限性」は常につきまとう。
有限な時間のなかで、いかに当事者のエンパワメントを高めるか。知識や経験を得て、人間関係を自ら構築し、「自由」=「能動」な状態をデフォルトにしておくことができるように、支援者がその環境を当事者と一緒につくっていく。そしてどこかの段階で、少しずつ離れていく。もちろん定期的なコミットメントは必要だけど、「いなくても大丈夫」な状態にもっていく。これは、ひとつの理想的な状態といえると思う。このような仕事が、大枠でのソーシャルワークというものだと思う(もちろん細かい理論はいっぱいあるけど)。

シンデレラで描かれるのは、彼女が妃として王室に嫁いでいくまでだ。「その後」は描かれない。その後の生活というのは、セーフティネットにつながれ、社会の中で居場所をもつことができたシンデレラが、自らつくっていくものである。そのとき、ときどき魔法使いは召使いなどに化けてお世話をしているかもしれない。わからないけど。
でも、いつかどこかのタイミングで、魔法使いはしれっと遠くにいってしまう。そのことに、シンデレラは遅れて気づくだろう。「あれ、おばあさんは?」みたいな。
でも、彼女はそこで寂しさは覚えても、生活上の困難は発生しないだろう。そうならないように、魔法使いは支援してきたのだから。お城のなかで自分の暮らしを送るシンデレラを、遠くから見守っているのだと思う。

玉どろぼう公演 vol.1『全体的に明るい』、終演しました。

兼島です。

玉どろぼう公演 vol.1『全体的に明るい』、無事に(?)、終演しましたー。

いやー、びっくり! ほんとびっくり!
なにがびっくりって、めっちゃウケた!! やった!!!

予想外でして。ほんと。だってわたし、お客様を不快な、胸クソわるーい感じにしたまま外に放り出したくて今回の劇を作ったにもかかわらず、アンケート見たらほとんど高評価なんですもの。。
この逆説的現象をどう受け止めればいいのでせふ。
もちろん評価されない方もいらっしゃるとは思いますが、今回ばかりは知らないふりをします。


【普段はバーとして営業しているParaiso。ベンチを持ち込み、観客席を設営しました。】

なんてったって、今回の作品、卑猥・不謹慎発言のオンパレード。
「よくもまあ、あんな台詞を両親の前で言えるよな」とスタッフ。
そう、うちの両親も見にきていたのです(というか、ほぼ毎回来ている)。
そして何を隠そう、いちばん前の席でいちばんゲラゲラしていたのがウチの両親です。どうかしてます。この親にしてこの子ありです。ええ。


【ぷらぷら台詞を話す兼島。いったいどーゆー育て方をしたのでしょうか】

でも高評価のいちばんの要因は、やはり玉城匠せんせい。彼の存在感。惹きつける演技力、太くてよく通る声、あと濃い顔!顔顔顔!
彼はもう「現代劇はやらない」なんて嘯いておりますが、たぶん、皆様からの後押しがあればたぶんやっちゃうと思われます。満更でもない感じで引き受けると思われます。
みなさま、厚いエールを彼にお送りくださいませい。


【さすがの玉城せんせい。打ち上げではベロンベロンで、楽しそうでした】

それから、今回音楽を担当した稲嶺女史。才色兼備のスーパーエリートである彼女ですが、口を開けばウルトラネガティブ。打ち上げの席ではそのネガティブ性が暴発し、独壇場と化しておりました。
そんな彼女のしかけた音楽が、たくさんのお客さんの心を抉り、根深い傷を残したようで、お客様から「ラストシーンのあの合唱曲はトラウマになった」という極上のお言葉をいただきました。

当日は県外からお越しになるというちょっとアレなお客様もいらっしゃり、会場が妙にグルーヴィーな空気に包まれておりました。
ご来場いただいた皆さま、ほんとうにありがとうございました。


【公演中の一コマ。画像は荒いですが、こういうのしかないのです】

みなさまからいただいたアンケート、終演後にもらったメッセージ、SNSなどへの投稿、そのどれもが励みになり、われわれを有頂天にさせました。
でも、いいんです。このようなお言葉をいただき、有頂天になるなというほうがおかしい。
いいんです、調子に乗って、いいんです。
というわけで、今後とも調子に乗った玉どろぼうをよろしくお願いします。

【当日販売した「上演台本&解説」。最終的に完売しました!ざっす!】

といっても、今後の活動の予定なんて何も決まってはいないのですが。
経済的な余裕があれば、vol.2もあるやもしれぬです。
そのときまで御機嫌よう〜。


【終演後のあいさつ。ぜんぶ終わって腑抜けたツラになっております】

玉どろぼうよりおしらせ

みなさま、こんにちは。

チョコ泥棒こと玉どろぼうです。

玉どろぼう公演vol.1『全体的に明るい』についておしらせです。
明日8月11日(土)は、台風の接近が予想されますが、公演は予定通り行います。
(18時開場 / 18時30分開演)

なお、当日借用予定であった駐車場が、諸事情(近隣の建設工事等)のため利用できなくなりました。
そのため、公共の交通機関を利用いただくか、近隣のパーキングをご利用くださるようお願いいたします。

それでは、明日のご来場お待ち致しております。

「蓬莱2」に関する(またもや)いくつかの仮説(その3)

さて、いよいよ、仮説3である。お待たせしました。
はて、誰がこれを、お待ちしていたのだろうか。
うるさい。そんなことは関係ない。誰が読むとかは関係ねー。俺が書きてーんだ!それが一番大事なんだ!それ以外なんにもいらねーんだよ!
てな感じでかっこいい啖呵を切ってみたいではありますが、でも結局読まれたいよねー。
1日のPV数5000万とかなってアフィリエイトとかで生活とかしたいよねー、あとはしれっと一時期流行ったステマブログ的な感じでちゃちゃっと稼ぎたいよねー。
まあ別に手段とかは問わないというかなんでもいいからさ、お金欲しいよねー、というかもうちっと詳しくいうと、働きたくないよねー、働かないままに生きていきたいよねー、蛇口ひねればジュースとか出てきてー、頭とかガリガリ掻いたときに出てくるフケが実は美味でしかも栄養価もバリ高いみたいな奇跡が起こればいいのに。ほんと。

さて、本線に乗る前に脱線してしまいました。それははたして脱線と呼びうるのかという問題はそのままにしていきたいと思います。

仮説3_琉球舞踊とは、濃縮還元である。

仮説1_琉舞とはプログラミングである(真っ白な腕と片足立ち)
仮説2_舞台上の時空は歪んでいる(特殊相対性理論的な)

わたしって、ファミレスが好きじゃないですか。で、ドリンクバーとかよく注文するじゃないですか。注文するんですよ。
で、やっぱり元を取りたいっていう心理がはたらくもんだから、お腹タプタプになるくらい、誰かに腹部を圧迫されたらプシューって口から水分吹きますみたいな、「オス!オラ、マーライオン!」みたいな感じになること瞭然なくらいに飲んじゃうのです、ジュースを。

居酒屋より、ファミレス行きたいよねほんとは。
今度から、カクテルをカラコロ作るバーよりも、機械でドワーッってやるドリンクバーにしません?
ってこれは誰に向けた言葉なのかな?
まあいいや。ちなみに、この文章もドリンクバーのあるファミレスで書き書きしているわけで、って考えたら、お金もらうどころか減ってるじゃん!なんなんだよ!領収書切るよ?いいの?アテナどうしたらいい?

はぁ、本線に乗るのはなかなか難しいのですね。
濃縮還元ってあるじゃないですか。
100%オレンジジュースとかで、「濃縮還元」って書かれてるやつは、オレンジを絞ったやつそのまんま(ストレート)というわけではなくて、一度水分を飛ばして粉状にするなりペースト状にするなりして濃度を高めた上で、後で水分を加えて濃度を戻すってことをやってるわけですね。
ファミレスのドリンクバーのジュースたちは、濃度の高い液体を、注ぐ時に水と混ぜて濃度を戻すってなことをやってる、この濃縮還元のやつなわけですね。
グラスを置いて、ボタンをピッてしたら、ジャーってなって、濃度高めの汁と水とが両方ドボドボ出てきて、グラスの中で混ざってちょうどよくなる、みたいな。
でもたまに、おいおい、これ色がついたただの水じゃん、みたいな。

さて、この濃縮還元が、琉球舞踊とどのような関係があるのでしょうか。
言い方を変えます。
ここからどうやってこじつけるのでしょうか。
つまり、これからわたしはどうすればいいのでしょうか。困ってます。

今回の『蓬莱2』と、前回公演『蓬莱』(便宜上、この後は『蓬莱1』と記します)のちがいは、もちろん演目もちがうんですけど、前回は一番はじめ(第一部)にあった素踊りが、今回は一番最後(第三部)になっていたんですね。
そのちがいのせいか、前回は気づかなかったのだけど、今回はっきりとわかったことがありました。
それは、踊り手が「汗をかいている」ということです。

やっと本線入ったと思ったらソッコーで結論めいたことを書いてしまうという。
それならスッと書けや!という文句を垂れる人がもしいたとしたら、その人はわたしにドリンクバーの料金くらい立て替えてから言ってください。
まあ、どうせいないでしょうけど。
そもそも読者もあまりいないのだし。

「汗」について、じゃあ、書いていきます。
「素踊り」ってのは、琉舞の踊り手たちが、化粧をせずに素顔のままで披露する踊りです。基本琉舞は真っ白に化粧を施して踊るわけですが、スッピンを晒しちゃうわけですね。もしかしたらちょっとはメイクしているのかもしれませんが、インスタとかでよくやられてる「すっぴんメイク」的な。

『蓬莱1』についての記事のなかで、(コチラ)

琉舞における化粧や衣装というのは、着飾ったり綺麗に見せたりというよりも、むしろ踊り手たちが持っているそれぞれの個人的特性を隠蔽し、同質化・均質化を図るための装置である。
(『蓬莱1』:仮説4_「蓬莱」における「素踊り」は、「革命」を志向する行為である)

と書きました。
加えて、『蓬莱2』の仮説1では、「完璧に設計された(プログラミングされた)動きが、琉舞の理想である」ということも書きました。

個人を隠蔽し、同質化し、機械化する、このようなラディカルな指向性を琉舞はもっていたと考えることができます。
そのようなベクトルに対する、ある種の「抵抗」あるいは「革命」として、「素踊り」があるのではないか、というのが、『蓬莱1』における仮説4(「蓬莱」における「素踊り」は、「革命」を志向する行為である)の論旨でした。

素踊りによって、王府の目指そうとする、踊り手たちの「没個性化」「同質化」「機械化」というものから逃れる、あるいは立ち向かう。
それってつまり、「人間性」の確保や回復を願っての行為だといえると思う。

その「人間性」っていうものを、前回(蓬莱1)の記事においては、「化粧をしないこと」によって回復しようとしているとした。
でもそれだと、ネガティブな形式での存在証明にしかなり得ない。
つまり、自分が「没個性的・同質的・機械的では“ない”」ことの告白によってしか人間であることを立証できないということである。
「わたしは機械ではない、だから、人間である」というふうにしか、これでは語ることができない。

踊り手たちは、「ない」ことではなく、「ある」ことによって自らの「人間性」を担保したい。
そこで、「汗」である。言い換えると「水分」である。
プログラミングで設計された機械にはなくて、人間にはあるもの。
アンドロイドにはできなくて、人間にはできること。
それは、「汗をかくこと」である。

第三部の素踊りの際、踊り手たちの額や首筋には、うっすらと、でもはっきりと、汗が滲んでいた。
光を反射し、煌めいていた。
水分を含むか含まないか。
そこに、人間と機械との境界線が引かれるんじゃないか、そんなことを思わされた。

琉球舞踊は、オレンジを絞った果汁から水分を抜き取って粉末にするみたいに、美学や芸術性をその形式性に濃縮して保存期間を延長してきた。
「伝統」として、保存され、代々受け継がれてきた。
琉舞を琉舞たらしめる、真っ白な化粧、華美な衣装、完全なる「型」(プログラム)、それらはすべて、その「伝統」をできるだけクラシカルな形で再現するために必要な装置である。
つまり、抽出して濃度を高めた「伝統」に、踊り手=水を加えることで「搾りたて」の状態に戻すというわけだ。

そのためには水の量や質が、とても重要になってくる。
量を間違えれば味が濃くなったり薄くなったりするし、蒸留水か自然水か、あるいは硬水か軟水か、によっても味わいは変わってくる。
どんなに「伝統」の抽出度を高めても、それを戻す(演じる)踊り手によって味は揺らいでしまう。

だからこそ、水の質や量を一定に保つ必要がある。
その品質管理を徹底するために、踊り手の「没個性化」「同質化」「機械化」を目指そうとするわけだ。

でも、踊り手たちをいかに機械に近づけたとしても、拭っても拭っても拭いきれないのが、「汗」。
このことを、第三部の素踊りで化粧を落とすことによって、踊り手たちは暴露した。
「汗」こそが、踊り手を人間たらしめる、機械化への抗いのための唯一の装置なのである。
この「汗」によって、踊り手は、否定による存在立証から脱却することができる。
「わたしは機械ではない、だから、人間である」ではなく、「わたしは汗をかく、だから、人間である」という語りを獲得することができる。

人間と機械の境目、それは、汗をかくかどうか。
汗をかくということは、人間であることの証明である。

であるなら、隣の奴が汗臭くても、それに嫌な顔なんてしないで、ああこの人はちゃんと人間らしくいるのだなあと思ってほしい。
思わなくてもいいけど、嫌な顔はしないでほしい。
もし嫌なら、しれっと遠ざかってほしい。
お願いだから、そうしてほしい。

だって、気にしちゃうのです、わたし。

アイウォンチュー、シーブリーズ。

「蓬莱2」に関する(またもや)いくつかの仮説(その2)

さて、仮説2つめです。
絶対的にややこしくなることは目に見えているのでやめようかなーなんて思いながらここまできましたが、まあでもややこしいことってのは大事です。っていう趣旨のことをだれかがいうたびにそうなんですよ!って我が意を得たり的なそんな感じで、いや違うなわかりやすくできないことの罪が軽減されるような気になるんです。
、、、なんの話だ?

仮説2_舞台上の時空は歪んでいる(特殊相対性理論的な)

仮説1_琉舞とはプログラミングである(真っ白な腕と片足立ち)
仮説3_琉球舞踊とは、濃縮還元である

琉球舞踊公演『蓬莱2』の第2部は、6名のうち3名が、ひとりずつ古典女踊を披露し、他の3名が一緒に雑踊を踊る、という構成。
普段琉球舞踊を見慣れない私のような人間(あえて一般化してみる)にとっては、「女踊」が一番の鬼門なのである。

どういうことか。
……眠くなるのである。
なぜか。
……動かないからである。

誤解があってはいけないから言うが、つまらないのではない。
踊り手の纏う衣装は色彩鮮やかで美しく、それとは逆向きのベクトルというか、俯き気味の顔から醸し出されるアンニュイというか陰というか、そういうのが「色気」たっぷりである。
それと、動かないといっても、突っ立っているわけではない。ちゃんと動いている。むしろ、動き続けている。

でも、なんで「動かない」なんて書いたかと言うと、極限までスローかつミニマルな動きを突き詰めた、過剰なまでの抑制こそが女踊の本質(だと思っているんだがいい?)だからである。
以前の記事に書いた(コチラ)ように、女踊の形式には、琉球舞踊が発展した時代の女性観が反映されているのではないかと思っている。
その女性観というのが、つまり求められているのは「淑女性」なのではないか。

と、いくらここで長々と何かを語ったとしても、ウトウトしてしまう罪が軽減されるものではない。
「でもだって、音楽とかも心地良いんだもーん」と、いっそのこと開き直ってしまった方がむしろ清々しいんじゃなかろうか。
でも、それだと、ところどころ意識は飛んでいるけども精一杯瞼を押し広げていた自分の努力が誰にも伝わらない可能性が高い。
だから、という接続詞がふさわしいのかは疑問だが、だからわたしはこうしてテキストを書いているのである。(つまり罪滅ぼし?!)
でも、でもちゃんと言っときますけど、寝てません!
ウトウトしたのは、意識が度々飛んだのは認めますが、断じて寝てません!

さて、わたしは誰に向かって許しを請うているのでしょうか。

女踊の動きが遅いのは、先述したように「淑女性」を求められているから、というのが前記事での仮説であった。
今回は、そこから発展して、劇場に流れる時間について考えていくことになる。「淑女」から出発してアインシュタインの特殊相対性理論に行き着くことになる。

でははじめます。

えっと。

舞台上の「女性」(踊り手)は、淑女なわけであります。上品で、落ち着いていて、慎ましい。
艶やかな着物に身を包みながらも、表情や仕草、あらゆる所作は控えめで奥ゆかしい。
そんなレディな彼女は、でも、心の中に、秘めたる想いがあるわけです。
それはたとえば、淑女であるがゆえに自ら言い出すことのできない悲しき恋心。
あるいは、結婚の契りを交わしながら、遠く離れていってしまったあの殿方への燻った感情。
古典女踊の歴史性とか、型や振りの意味などはとんとわからぬのですが、女性(踊り手)の動きはそういったことを表現しているのではないかと思うのです。

これについては完全なる私観であり、そこを仮説の出発点にするというのはどうでしょう?なんてモヤモヤもないことはないですが、どうせこれは研究論文でもなんでもないのです。
どーせ無責任な論だからいいのです。

そう、だから、舞台で踊っている女性(踊り手)は、恋しい相手への果たせぬ想いを静かに、でもはっきりと表現しているわけであります。
淑女は、その想いがいつか実ることを祈りながら、ただひたすら待ち続けているわけです。
淑女は、自らアクションを起こすことはせず、殿方の到来を待ち焦がれているのです。

でも、もうすでに、彼女の心は張り裂けんばかりに想いが膨らんでしまっています。
彼女は淑女だからそれを表には出しませんが、でも、彼女の魂はそうではありません。
そしてついに、彼女の内なる叫びが、音のない咆哮が、世界に向かって炸裂したのです。殿方の元へ向かって、「光」の速さで飛び出したのです。

さて、「光」が、やっと出てまいりました。
正直これまで書いていたのは、「光」を引っ張り出すためのこじつけのようなものであります。
光の速さで発射された彼女の魂は、実は、彼女が立つその地ごと運んでいたわけであります。
つまり、舞台上は光速で移動していたというわけです。

ここで、「特殊相対性理論」が登場します。
その理論によれば、高速で動くものの内部は時間がゆっくりと進行します(◆1)
何年も宇宙旅行に行って地球に帰ってきたら時代が変わっていた、みたいなSFの話とかをイメージしたらいいですかね。
え、じゃあ、浦島太郎の話とか、ドラゴンボールの精神と時の部屋とかもそういう原理なんですかね。
ということは、亀は太郎を拉致した工作員で竜宮城は超高速で動く宇宙船だったのですかね。
ということは、精神と時の部屋も、異常な速さで部屋自体が運動していたというわけですね。

そんな話はいいので、舞台上の時間の話でした。
舞台上は、彼女の、彼のもとへと向かって疾走する魂に引きずられて、光速に近い速度で移動しているのでした。
彼女の果たされぬ想いがその地にこびりついて、やがてそれは地面ごと引きずりながら加速し、光に近づいた。その結果、彼女の魂が、時代を超えて今観客の前に現れてきている。
そういうふうにこの古典舞踊を見ることはできないだろうか。

だとすると、舞台の上で展開されているのは、古の女性の姿の「再現」ではない。その時代の淑女の魂を、踊り手という肉体に投影しているのである。
淑女のその魂は、今この時代にまで流入し、わたしたちの目に映っている。

彼女にとって、そして彼女が立つ場(=舞台上)においては、時間はとどまることなく、何の違和感を感じることもなく流れている。
でもその場自体は、乗り物として、光速に限りなく近い速さで動いているので、アインシュタインの理論を信じるなら、舞台上と客席との間で、時間の歪みが発生している。
こちら側(客席)とくらべて、向こう側(舞台)に流れる時間は、相当に遅れてしまっている。
だからこそ、彼女の動き(踊り)は、ゆっくりとしているのである。

その歪みが、舞台に立つ踊り手のすべての所作を遅延させ、女踊の芸術性を際立たせている重要なファクターなのではないか。
そしてそれこそが、わたしを眠気に誘う犯人なのではないか。
だって、こっち(客席)の時間は早く進んでいるのだから、上演の途中で寝る時間になってしまうじゃん。

特殊相対性理論でおもしろいのは、動いている物体の時間は遅れている(ゆっくりに見える)のだが、動いている物体から止まっているものを見たときも、同じように感じるということだ。
たとえば、Aくんが歩道に立っていて、すると目の前を自動車が猛スピードで過ぎ去っていった。そのときは、当たり前だが車が動いている。
でも、その自動車の中から見たとき、動いているように見えるのはAくんの方である。

客席から舞台上(踊り手)を見たとき、向こう側の時間はゆっくり進行している。
翻って、舞台上から客席を見たとき、光の速さで動いている(ように見える)のはわたしたちがいる客席の方である。
ということは、向こう側からは、こちら側の時間の方が遅延して感じられているということである。眠っている観客を見て、「まだ寝てるよ」なんて思っているということである。

ここで、淑女の恋心の話に戻ります。
彼女は、焦がれるような想いを胸に秘め、誰かを待ち続けていたのでした。
でも、その待ち人はいつやって来るのかわからない。もしかしたら、やって来ないかもしれない。
でも彼女は淑女であるから、自らアクションを起こすことはできない。恋の成就に向けてスタートを切ることができない。
だから、彼女は、孤独に、佇んでいる。

それを見ている周りの人は、その姿を不憫に感じながらも、ムズムズしてたりする。なんなら、若干イラってしてたりもする。そんなに好きならそれを表現したらいいじゃないか、とか、あるいは、どうにもならないんなら切り替えるしかないじゃん、とかって思う。そんなんじゃ何にもはじまらないじゃないか、って。
つまり、彼女の時間は、人生は、停滞している、遅延している。
否応無しに進んでいく、流れていく周りの世界に、彼女は取り残されている。

でも、淑女から世界を見たとき、むしろ停滞(遅延)しているのは、世界の側である
なぜなら、待ち人がやってこないから。
彼女の気持ちのほうが先を行き過ぎてしまい、それに追いつこうとしない、つまり愛しい殿方を連れてくることのないこの世界は、動きを止めてしまったも同然なのである。

いつまでも待ち人を待ち続ける淑女を見つめる周囲の視線と、ゆっくりと動く女踊の踊り手を見つめる観客の視線は、相似を為している。
また、淑女から見た色の褪せた世界と、踊り手から見た客席の風景もまた、同様である。

客席から見た舞台上は遅延している。
舞台上から見た客席は遅延している。
世界から見た淑女は遅延している。
淑女から見た世界は遅延している。

このような仮説が、特殊相対性理論を用いることで浮かび上がってきた。
だからなんだ? って感じかもしれない。
それがなんになるんだ? って感じかもしれない。
でも、ここまで書いてきて、個人的に、なんかちょっとだけ救われたような気分になっている。
なぜか。

淑女のいる世界の住人たち、そして劇場内にいる人たちはみな、この仮説を了承しているからだ。
ムズムズしてたり、ウトウトしてたりするが、それでもまあわかったって、関係者がみんなこの状況を受け入れている。

すこしわかりづらいかもしれない。
こう書き換えたらどうだろうか?

世界から見た「私」は遅延している。
「私」から見た世界は遅延している。
その遅延を、世界も私も了承している。

これって、遅延や停滞を、非難や中傷の対象にすることがデフォルトになってしまったようなドライな現代社会を逆照射しているようにも受け取れるし、遅延や停滞を、肯定まではいかなくても受容してくれるような、そんな社会の姿を見せてくれているようにも感じた。

ということはつまり、公演中にウトウトしてしまうわたしを、みんなが了承してくれているのだと、そういうことなんだと思うわけです。ええ、たぶん、きっと、そうなのです。そういうことなのです。ええ。

(◆1)
まず、「光速度不変の原理」というのがあって、光の速さは、観測者の運動状態によって変化したりすることはありません。
止まっていようが動いていようが、どんな状態であろうが、光の速度は変わらないのです。

超高速で動く宇宙船の中で、天井と床にそれぞれ鏡を設置して、その間を光は1秒で動くということにします(これを「光時計」といいます)。
宇宙船の中でそれを観測している人から見ると、光は床や天井と垂直な方向で上下に行ったり来たりして、その時計は確実に1秒ずつ刻んでいます。

でも、それを、地上(宇宙船の外)から観察している人がいるとします。
するとその人から見える光の運動は、地面と垂直の方向からは、進行方向に向かってやや斜めに傾いているように見えます。
となると、光が運動した距離は、宇宙船内の床と天井の距離よりも長くなっていることになります。
(これは、物体を乗り物の中で落下させる運動を外から観察するのと同じようなことです)

そのとき、地上にも光時計を設置して、宇宙船のなかのそれと比べた場合、光の速さは変わらないので、地上の光の方がはやく1秒を刻むことになります。言い換えると、宇宙船内は時間がゆっくり進んでいることになるのです。

「蓬莱2」に関する(またもや)いくつかの仮説(その1)

去年、『「蓬莱」に関するいくつかの仮説』という記事を書いたんですけれども(こちら)、4月7日(土)に、2度目の公演があったのでした。
またしても悪友・玉城氏が出ているので、観に行ってきたのですが、いろいろと新たな仮説が浮かび上がってきたのでございました。
というわけで、今回もまた、無責任なことをダラダラと書いてみようと思うのであります。

仮説1_琉舞とはプログラミングである(真っ白な腕と片足立ち)

仮説2_舞台上の時空は歪んでいる(特殊相対性理論的な)
仮説3_琉球舞踊とは、濃縮還元である

第1部の創作舞踊「春曉」において、踊り手達は紫紺の着物をまとっていた。
それはとても美しくて、踊り手が動き、布が揺れ、その度シワの部分の色が濃くなったり淡くなったり移ろっていて、そのグラデーションにとてもうっとりとさせられた。
その綺麗な布のその袖から、真っ白な腕が生えている。紫と白のコントラストが、さらに美しさを助長していた。

なーんつって書いていますけども、実際のところわたしは、衣装の美しさよりも腕についた白粉のことがずっと気になっていたのでございます。
どういうことかっていうと、袖に、それから持っている扇子に、白い粉がついちゃうんじゃねーだろーか、ということです。汚れちゃうよーなんて、余計な老婆心を抱いてしまっていたのです。集中せい!というやつです。

でもね。やっぱ気になっちゃうものは気になっちゃうので、ずっと腕の白粉ばっか見てたんです。
すると、あることに気づいた。
顔や首元や手の甲はそうじゃないんだけど、手のひらに施した化粧だけは、踊り手によって濃さが違うんです。
なぜか。
まあ、特に理由はないんだろうと思います。踊りのなかで扇子や袖を持つことが多いから、踊り手個人の塩梅で調整しているのでしょう。
でも、無責任な観客であるわたしは、そこにいちいち意味を見出して偉そうにしたいのです。たとえそれが、悪ふざけな論であったとしても。

以前の記事で、こんなヘンチクリンなことを書きました。

つまりですね、琉舞において実現すべき(表現すべき)ものは、きっちりと静止した完全なる「型」であって、それぞれの型から型への移行のための身体運用、すなわち「過程」を、そこでは「ないもの」として考えてください、ということなんじゃないか。
イメージとしては、動画ではなく、連続写真のような感じ。
膨大な量の、極度に細分化された「型」に身体を当てはめ、それを見ているわれわれ観客には「動いているように見える」、というような見立てで持って琉舞を見ることが可能なんじゃないか、と思ったわけであります。

この仮説を延長させて考えていくと、「プログラム」の概念で琉舞を見ることも可能なんじゃないかと思ったのです。
つまり、完璧に設計された(プログラミングされた)動きが、琉舞の理想である、という見立てです。
もちろん人間が踊っている以上そんなことはできないわけですが、極度に細分化されたひとつひとつの所作(型)をデジタル信号として組み込んだアンドロイドがもし存在したとしたら、踊り手達と同じ動きを実現することが可能なんじゃないだろうかと思ったのです。

でも、誤解のないように書いておきますが、これは、踊り手は機械化できるとか、何も考えずに踊っているとか、そういうことを言いたいのではありません。
そうではなくて、舞踊家たちはそれほどまでの膨大で細やかな所作を要求されるストイシズムな存在だということです。

そのことが表されているように感じたのは、舞踊のなかで多発される「片足立ち」です。
これまで(少しだけですが)見てきた舞踊と比べて、この「春暁」のフリにはやけに片足立ちが多いような印象を持ちました。

片足立ちって、速いテンポの中では特に気になりませんが、スローな流れの中で課されると、バランスを保つのが難しいし、見る側もその「ゆらぎ」や「ふるえ」などから不安定な印象を抱いてしまいます。
でも、「春暁」のなかではこの「片足立ち」をなんども求められる。
化粧によって素顔が隠蔽されていたり、着物によってシルエットがぼかされている踊り手たちですが、実装されたプログラムの実行(片足立ち)とその反復によって、アスリートな身体性が浮かび上がってくるのです。

という論をここで大きく飛躍させて、踊り手たちは、機械の身体を実装しているという見立てを採用します。
ひらたくいうと、彼らはアンドロイドであるとします。
以前の記事にもかきましたけど、(コチラ)わたくし最近、『ブレードランナー』にかぶれておりまして、アンドロイドのことをよく考えるのです。
で、そのときに絶対に考えざるを得ない論点というのが、「機械と人間の境界」ってことなんです。
で、先ほど述べた、手のひらの白粉についてです。
踊り手たちは、顔や首元はもちろん、腕や手の甲にもしっかりと化粧を施していました。
でも、手のひらだけはその濃さがちがっていたのでした。
手のひらと手の甲の白さの「差」、そこに、機械と人間の境界があるのではないか、と思ったのです!
(何を言っているんだお前は!と思っている方へ。私もそう思います)

ここで無理やりメチャクチャなロジックを組み立てると、手のひらの化粧が濃いほど、言い換えると手のひらと甲の白さの差異が小さいほど、その人は自らのアンドロイド性を強く自覚しているということです。
逆に言えば、手のひらの化粧が薄い人は、アンドロイドと人間の狭間でアイデンティティの「ゆらぎ」を覚えているということです。

6名の中で、わたしから見て、もっとも手のひらの化粧が濃かったのは、阿嘉さんでした。つまり、阿嘉さんはアンドロイドなのでした。
さて、阿嘉さんがアンドロイドであるということが判明したところで(阿嘉様、まったく面識がないのに適当なことばっかり書いててすみません)、踊り手が「プログラミング」されていることを裏付ける(と勝手に捉えきれる)もうひとつの要素が、「太鼓の不在」です。
音楽の途中で、それまで鳴り響いていた太鼓が鳴り止む瞬間がありました。

もちろん、他の音楽の中にも太鼓の音がなくて三線や琴や胡弓の音のみで構成されたものもあったのですが、そうではなくて、急に太鼓の音が消失した瞬間があったのです(わたしにはそう感じました)。
これはどういうことかというと、「ビートが消えた」ということです。
普通、太鼓によって刻まれているビートを目安にして身体運用はなされるものだと思います。
ですが、その目安が突然失われたのです。舞台上にはメロディだけが残った。
つまり踊り手たちは、踊りの途中で、ビートに乗せた身体モードからメロディに乗せたそれに瞬時にスイッチしたわけです。こんなの、機械じゃないとできません(って言ってみたかった)。

と、長々と書いてきましたが、まだあといくつか思いついた(「見つけた」ではないことに注意)仮説がありますので、それは後々書く予定です。

とりあえずこのあたりで仮説1はヤメておきます。

踊り手がアンドロイドだどうだとかってフザけたことを書いてきたわけでありますが、つまりですね、みなさんの日々の鍛錬に畏敬の念を抱いているというわけであります。いつも稽古お疲れさまです。
(こうやって媚びておけばなにか良いことがあるんじゃないかとかは別に全然、思ったりとかはしてないです)

シーサーランナー2049

どうも、兼島です。
このたび、わたくし兼島の書いた脚本「私たちの空」が、第13回おきなわ文学賞《シナリオ・戯曲部門》を受賞(佳作)しましたー!
みなさま、めでたいことですので、ぜひお祝い金を握りしめてワタクシ兼島の家までお越しください。
おもてなしはできませんが、現金だけは確かに受け取らせていただきます。

「かりゆし・かりゆし 〜恋するシーサー〜」

と、いう沖縄芝居(ミュージカル?)を観てきました。

うん!面白い!これはいいね!
子ども達にもわかりやすいし、しまくとぅばやうちなーぐちがわからなくても全然楽しめる(現代日本語も多用される)。
しかも、ただわかりやすくしているだけじゃなく、ちゃんと批評的というか、「わかりやすさ」に対する自問自答も内包している。
会話やストーリーも、歌や踊りも、エンタメ的にとても優れているし、琉球芸能への入り口としてとても間口の広い、オープンでウェルカムな作品になっていると思った。

と、わかりやすい感想をここまで述べたので、ここから先はわかりにくい、粘っこくて回りくどい、複雑でややこしいことを書いていくことになると思われます。

この劇ってのは、もう人も住まなくなった島に残された1組のシーサー夫婦のお話です。彼らは300年にもわたり、民家の屋根の上で寄り添って暮らしてきました。
お互いにチクチク小言を言い合って、各々が、過去に恋い焦がれた相手(人間)のことを想像し、あの頃に戻れたらとかあのときもしも・・・とかって寂しさを感じつつも、最終的に夫婦の関係性を見つめ直しお互いに信頼を確かめ合う、みたいなストーリーです。
それを、歌やダンスや会話でやっていくってわけです。
そんなあらすじ。

登場するのは、シーサー夫婦と人間の男女。それを二人の役者、玉城匠さんと小嶺和佳子さんが演じておって(ちなみに匠くんはアタイの同級生かつ野球部の同士だよん)。
だからシーサーをやってたと思ったら、いつのまにか早着替えをして今度は人間の役をやっておる、みたいな感じね。忙しい!
んで、ここがポイントなんですが、シーサーの夫役は女性の役者(小嶺さん)が、妻役は男性の役者(匠くん)がそれぞれ演じていたわけです。
大事なことなのでもう一度書きます。
夫役を女性が、妻役を男性が演じていた。
なぜここがポイントなのかは後々回りくどく説明します。
ちなみに、人間の男女に関しては、それぞれ男役は匠くん、女役は小嶺さんでありました。

つまり、シーサーは、男女の性が反転されているわけであります。
これって、えっとどういうこと? なんて考えておりました。

劇中、シーサーの夫婦は基本軽めに口喧嘩をしているわけであります。
んで、「なんであんたとなんか一緒になんなきゃいけなかったのよ!しかも300年も!」的な言葉をお互いに投げ続けるわけですね。
そこでどっちか(たぶん夫)が、「俺に文句言うな、シーサー職人の気まぐれでこうなっちゃったんだから!」みたいな、ね、そんなことを言っちゃうわけです。
そこですかさず妻が、「あー、ダンディなあの殿方、いまごろ何をしてらっしゃるのかしら?」みたいなモードに突入。で、音楽ドーン!早着替えスーン!という展開がありました。

実は、いま書いたところがキーなんですね(どこだよ!)
「シーサー職人の気まぐれでこうなっちゃったんだから!」的な言葉ですね。
この言葉で示されているのは2点。
1つは、彼らシーサー夫婦が、人間の手による人工物であるということ。
もう1つは、彼らの意志とは関係のないところで、夫婦であることを強制的に決められたということ。
この「強制性」こそが、二人の諍いの根本にあるんですね。そこに、人工物であるのに「感情」を持ってしまったことで、いよいよ関係の悪化が表面化してきてしまった。「なんでお前なんだよ!」って。

突然ですが、『ブレードランナー(オリジナル)』および『ブレードランナー2049(続編)』っていう映画は、強制的な隷属状態に置かれたレプリカント(人造人間)が、人間と同じように感情を持っていて、自らを作り出した存在=人間に反旗を翻すっていう設定が物語を駆動するエンジンになっています。
んで、特に、『2049』のなかで「奇跡」って言葉が何度か出てくるんですね。
あるレプリカントが、自身を殺そうとする主人公(こいつもレプリカントなんだけど)に「お前は「奇跡」を見たことがないからだ」みたいな言葉を言って非難するわけなんですけれども、この「奇跡」ってのは、「出産」のことなんです。
被造物であるはずのレプリカントが、新しい命を生み出す。その「奇跡」を目の当たりにしたレプリカントたちが力を受けて、革命を志すわけです。
一人のレプリカント=人間の誕生が、活力を多くの人々に授ける。「新たな命を生み出す」というのは、それほどに大きな、潜在的な力を秘めている。

シーサー夫婦がレプリカントと違うのは、屋根の上に固定されて、自由に動くことができないということです。これって、ひどく残酷な設定なんですよね、シーサーにとっては。
しかも畳み掛けるように、メタレベルを一つ上げたところ、つまり役者レベルで見ると、男女性が反転して配置されることで、子どもを産むための男女双方の役割が不能化されて描かれてしまっているのです。
屋根の上以外からどこへも行けないという不自由さ。夫婦でありながら、子どもを持つ可能性を最初から排除された不自由さ。
このシーサー夫婦は、シーサー職人と演出家の手によって、強制的に「力」と「力が生まれる可能性」を奪われてしまっているわけです。

じゃあこのシーサー夫婦にとって、彼らの人生は悲劇なのか。というと、そうとも言えない。先述したように、彼らは最終的に、お互いの大切さを確かめ合い、共に生きていくことを誓い合います(300年も一緒にいるんだから、何百回もこんなことがあったのでしょうが)。
ここに「家族」という可能性が秘められているのです。

哲学者の東浩紀さんという方が書いた『ゲンロン0』というべらぼうに面白い本のなかで、「家族の哲学」という論考があります。
そのなかで、家族を「強制性・偶然性・拡張性」というポイントでもって論じます。

「家族」というコミュニティは、自由意志で出たり入ったりできるものではありません。とくに子どもにとっては、望む望まないに関わらず、その家族のあり方からは自由にはなれないのです。そういった意味で「強制」的である。

でもって、家族は「偶然」の産物でもあります。たとえば親と子の間には、偶然が大きく作用しています。「私」がこうして存在するのは、「私」の特徴を備えた精子と卵が結合したからであり、それはまったくもって「偶然」なわけです。親は子を「選ぶことができない」わけです。
親子だけでなくて、夫婦(男女)の出会いにおいてもそうで、ミクロな視点で見るとそりゃ「この人だ!」って決断して結婚したわけなので必然なのですが、でもマクロに見ると、そもそもの出会いの時点で、双方の地理的および時間的な条件などの偶然的要素に完全に左右されているわけです。

そしてもうひとつ、家族は「拡張性」をもちます。当たり前ですけど、夫婦と子ども(核家族)だけの形態が家族なのではありません。祖父母や伯父伯母叔父叔母などと共に暮らすこともあるだろうし、たとえば「里親」や「養子縁組」などの制度によって、あるいはなぜか父の友人が居座ったりして、血の繋がりのない存在が入ってくる可能性もあります。また、犬や猫などの動物や、アイボなどのロボットすら加入する余地があります。
こんなような「拡張性」によって血も種も超えてつながれる、それほど恣意的なものでもあるわけです、家族って。

またしても『2049』の話になるんですが、主人公”K”は、さっきもちょろっとだけ書きましたがレプリカントなんです。んで、その恋人”ジョイ”は、AI(人工知能)です。ジョイにいたっては、肉体を持たず、空間モニターに表示されているだけの、いわばイメージです。
その二人の人工物、プログラムされた存在同士の恋愛が、この映画の重要なテーマを描いているのです。
つまり、「愛とは何か?」ということです。プログラムされた「愛」は、本物の「愛」と呼びうるのか? みたいな。
Kとジョイの間に育まれた大切な「愛」は、データの破壊によっていとも簡単に消え去ってしまいます。そこに悲しさがあるのですが、これ以上語るとあれなのでもう映画を見てください。

また戻ってきて、シーサー夫婦は、強制的に夫婦として生み出された存在(人工物)です。それでもって、完全なる偶然(職人の気まぐれ)によって二人は出会ったわけです。そこに互いの意志が介入していないからこそ、彼らはいがみ合うわけです。俺だって、私だって、恋がしたいんだ!って。
彼らにはいまのところ破局の可能性はありません。ずっと屋根の上から動けないから。でも、二人は「愛」でつながっているわけでもありません。「偶然性」と「強制性」によって接続され、接続され続けているのです。

でもこの劇が描くのは、その先のことです。
つまり「偶然」と「強制」によってできあがったこの関係を超えて、見せかけのものでしかなかった「夫婦」という関係を超えて、ほんものの「家族」になる。そういうお話なのです。
ふたりの間に「愛(恋愛感情という意味での愛)」はプログラムされていなくても、また、子を生むという可能性を奪われていながらも、ずっと長い時間をともに過ごしてきたという「情け」や「慈しみ」によってそれを乗り越えて(拡張して)、「家族」を形成することができる。ここに大いなる希望が描かれています。

公演タイトルにもある「かりゆし」という言葉。作・演出の嘉数さんは創作ノートの中でこの言葉を、「めでたい」とも「HAPPY」とも違うニュアンスであり、訳することができないと述べている。
これまで書いてきた「家族」についてのことを振り返ってこの「かりゆし」という言葉を考えると、「めでたい」とか「しあわせ」とかという「実感」としての意味合いにプラスして、「慈しみ」や「情け」など他者へ宛てた「想い」も含まれた言葉なのかなーなんて。
このような「かりゆし」という言葉(概念)を背景にして、「ゆいまーる」などといった、たまたま同じ地域で過ごしている人たちの(偶然性)、血縁を超えたしなやかな関係性の構築(拡張性)が可能になるのかなーなんて。思ったり。

でも、そういう「慈しみ」や「情け」とかによる関係構築って、ある意味費用対効果が悪いんですよね。だって、わざわざコミュニケーションの負荷が増えるし、それをしたからって自分の利益には直接繋がらないことも多い。
でも、「でもやるんだよ!」ってことを叫びたい。叫びたいんだけど、でもそれを、わたしたちはいつまで叫ぶことができるでしょうか。「面倒だから、やーめた」って、「慈しみ」も「情け」も切り捨てた効率的な生き方を、いつ志向するかもわからない。そうなってしまうことへの恐れってのは、これからの時代、ずっと付きまとってくるものなんでしょう。

劇の最後、シーサーの妻が、現代日本語を話す理由を夫に問われ、「便利だから」と答えつつ「でも、便利だからってこのままでいいんですかねぇ。。。でも、仕方ないんだけどねえ。。。」みたいな自問自答を呟いて物語は終わります。このセリフは演じている役者自身を相対化したメタレベルでのものであると同時に、演劇や琉球芸能全体に向けたメタ・メタレベルでの問いかけでもあります。さらに、ますます加速していくグローバル資本主義にのまれた現代社会へのメタ・メタ・メタな自問でもある。

こんな時代の中で「恋」とか「愛」とか「慈しみ」とか「情け」とか、そういうのってなんか軽く扱われちゃってるような気がしてるんだが、「めでたい」とか「しあわせ」とかをも包み込んだ「かりゆし」を実現するためにも、そういう「”効率の悪い”感情」というものを愛でる姿勢を大切にしていかなきゃな。
それができるのって、もはや芸術と宗教くらいなんじゃないか。
というわけなので、これから、宗教団体をつくろうかと。。。ちがうか。


腐れ縁の匠くんとワタクシ。シーサーポーズがかわいいね。

「蓬莱」に関するいくつかの仮説

これから、「蓬莱 〜ほうらい〜」という琉球舞踊公演についてのいくつかの仮説を書きます。感想ではありません、仮説です。いや、正確には思いつきに近いものなので、どっちかっていうと「感想」といった方が近いアレではあるんですが、でも今回のテキストの体裁としては「仮説」を並べる、という構成を取っているということもあり、、、
えーい! ややこしい!! じれったい!!!

はい。この公演は、じつは2017年4月の上旬に行われたもので、それから約半年が経過しています。本来であればこのような感想って、できるだけ終演後間もない時期に書かれるべきだとは思うんですけど、

……。
……。
……。

しかたねーじゃん、書けなかったんだから!
それに、べつにいーじゃん、いまちゃんとこうやって書いたんだから!
てなわけで、いくらかの仮説です。

蓬莱 〜ほうらい〜
世界の海で活躍した琉球王国の気概を伝える「万国津梁の鐘」の銘文には「琉球国は南海の勝地にして〜蓬莱島なり」(書き下し)と記されています。
「男性舞踊家公演 蓬莱〜ほうらい〜」にはそれと同じく、琉球舞踊の魅力を広め、自らの芸道を探求する志を持つ6人が集まりました。まだまだ、未熟ではありますが、古典・二才踊を大事に勉強し、舞踊劇や琉舞ではあまり見られない「素踊り」にも挑戦いたしますので、ご指導ご鞭撻のほどよろしくお願い致します。
(当日パンフレットより)

仮説1_「ノる」=ダンス、「ノらない」=琉舞

ヒップホップダンスなどでは基本、身体でリズムをとります。「アップ」とか「ダウン」とかそういうので、膝と上体を連動させながら上下運動というか、まあ簡単に言うと「ノッている」感じの動き。
アップやダウンでリズムをとりながらそこにステップや振りを付けていきます(という認識でいいのかな? 傍で見てるだけだからわかんないけど)。
この「アップ」や「ダウン」は、車でいうとアイドリング状態というか、まあそんな感じでしょうか。

そこに、身体中の関節・筋肉を連動させてダンスとしての体裁が施されていく。そのとき、身体表面に産出されるすべての動きがダンス表現として立体化されることになる。
たとえば、まっすぐに立っている状態から、右腕を上にあげる、という動作をダンサーが行ったとき、まっすぐな状態から右腕が上がりきった状態までのすべての動作(連動)が表現である。なめらかにやったり、パッと上げたり、機械みたいに止まるときにアソビを効かせたり。つまり一連の「過程」すべてが表現として認定される。

でも、たとえば『蓬莱』の第二部での女踊を観たとき、これはダンスと全然ちがうなと思いました。
その女踊りって(僕は普段観ないので必ずしもそうではないと思いますが)、上半身の動きがほとんどないんです。
それから、ずっとすり足なんです。特に友人の玉城匠くんの踊りなどは、膝の屈伸とすり足での移動(方向転換)、これだけで成立していました。
言ってしまえばただうろついているだけとも取れる所作なのですが、でも完全に「舞踊」なのです。
これはたぶん、流れている音楽と深い関係があるのだと思います。そこにはなんだか、踊り手の意志はなくて、音楽の支配があるんじゃないか、って思ったんです。

琉舞では、踊り手達はリズムを取らない(とか言いつつ、リズムとってる踊りもありましたが。二才踊とか、、、これについては後述します)。
音楽と調和を図るようにして身体を上下させる、というようなふるまいはそこには見られず、逆に音楽に一方的に取り攫われるような形での身体運用がなされる。
「アップ」や「ダウン」などでリズムを取ることもないままに、急に身体が動かされる。そーゆーふーな感じがしました。

仮説2_琉舞は、「静止」の連続である

で、ふと、あることに気づいたんです。いや、気づいたというよりは、思いついた。
もしかして、琉舞には「静止」しかない(と考えた方がいい)んじゃないか。琉舞における身体運用の本質は、その動作の部分よりも静止している状態にあるのではないか。

つまりですね、琉舞において実現すべき(表現すべき)ものは、きっちりと静止した完全なる「型」であって、それぞれの型から型への移行のための身体運用、すなわち「過程」を、そこでは「ないもの」として考えてください、ということなんじゃないか。

イメージとしては、動画ではなく、連続写真のような感じ。
膨大な量の、極度に細分化された「型」に身体を当てはめ、それを見ているわれわれ観客には「動いているように見える」、というような見立てで持って琉舞を見ることが可能なんじゃないか、と思ったわけであります。
「音楽に一方的に取り攫(さら)われる」ようでいて、かつ、それに抗おうと「静止=型」を目指す。そのような身体運用が、琉舞の踊り手達には見られる。
音楽という外部的な力によって身体を取り攫われ、それに抵抗して「型」に踏みとどまろうと内在的な力を発揮する。この拮抗する内外の力の結節点として踊り手は存在し、その行為の連続として舞踊が成立する。そういうふうに見立てることができるのではないでしょうか。

仮説3_琉舞には、琉球王朝時代の権力のあり方が反映されている

琉球舞踊というのは、琉球王朝時代、中国からの冊封使(さっぽうし)を歓待するために創作されたものです〈こちら〉
つまり外交の手段として重用されていたわけだす。そのことについて、琉球舞踊を扱ったコメディ(パロディ)演劇についての感想を以前に書いたので、そちらも併せて読んで欲しい〈こちら〉

琉球“王国”ですから、中央政権的な政治体制がそこでは敷かれていたのであります。
その権力の集中する王府によって主導された琉舞ですので、となると、踊ることは自発的なものではなかった、というふうに考えることができます。別の言い方をすると「踊らされていた」というわけです。

第二部では、「女踊/二才踊」が披露されました。「女踊」については先述したように、身体所作が極端なまでに抑制された舞踊で、「二才踊」については、若さと勇ましさを表現するような、アクティブでリズミカルな舞踊になっていました(「二才」とは元服(成人みたいな意味)した青年のことらしい)。

これって、当時の「女性観/男性観」がそのまま踊りに反映されているといえないでしょうか。
つまり、女性には淑女性を求め、男性(若者)には溌剌さや勇敢さを求めた。その要請に対する忠実な応答が、舞踊のなかに痕跡として残っているように思えます。その舞自体への権力の介入を示しているのです。

現代のダンスなどを鑑みてみると、それらはどちらかというとダンサー自身のパッションやエモーションを表出する行為として、つまり自発的(内発的)な行為として捉えられると思います。
そんな自発的な表現ができる人ほどダンサーとしての志が高いとみなされる。ダンサーは自ら「踊る」存在であるわけです。

琉舞の舞踊家たちは「させられる=受動的」な存在で、現代のダンサーは「する=能動的」存在。そういうふうに、対比することができます。
が、しかし、ことはそんな単純ではない、というのは当然の話で。
さきほどのリンク先にこんな文章があります。

「この宴に出演するのは王府に仕える士族の子弟と決まっており,彼らはそのことを大変誇りにしました。琉球舞踊が宮廷舞踊とも呼ばれるのはそのことに由来します」(宜保榮治郎)

たしかに、琉舞は王府主導であり、その命に従う者として舞踊家はありました。そこに彼らの自発性はありません。
しかし、彼らは“踊らされる存在”であることを「大変誇りに」思っていたのです。王府からの一方的な働きかけがあったわけではなく、両者間で同意が結ばれていたということがわかります。

だとするなら、踊り手たちを単純に「受動的」な存在として考えることはできません。
なぜなら、彼らには踊る意義や意欲があるからです。踊り手は王府の命に従う形で踊ることになります(=受動)が、踊ることに誇りを持ち、そしておそらく自らそのパフォーマンスを高めようと努めたことでしょう(=能動)。

王府は、文化的成熟を示すという外交上の戦略に、良質な人的リソースを確保するため、参加資格を限定し(王府に仕える士族の子弟)、踊り手たちに優越感を喚起させることに成功した。
名誉的ポジションを獲得した踊り手たちは、自らの技能・技術を磨き、そして琉球舞踊というジャンルのポテンシャルを掘り起こし、その芸術性を高めることに尽力した。
このような良好な関係性を築くことができたからこそ、琉球舞踊は伝統として代々受け継がれていくことになったのではないでしょうか。

この王府/舞踊家との権力関係が、そのまま音楽/身体との関係性にも反映されていると捉えることができます。
先ほどの(仮説2)で述べたことをあわせて考えると、琉舞では「音楽」(=王府のメタファー)が強大な力によって「身体」(舞踊家自身のメタファー)に影響を及ぼすが、その音楽に向かって身体(舞踊家)が自ら「投企」(◆1)することで「型」が表現される。なんてふうに言えないだろうか。

◆1 投企
人間は、生まれた時からすでに、世界の中に投げ込まれています。その世界ってのは、自分で作ったり選んだりしたものではもちろんありません。わたしたちは、否応なしにその世界を生きていかなければならないのです。映画『桐島、部活やめるってよ』での屋上でのクライマックスシーンが終わった後にある、しっとりしたシーンでのセリフでこういうのがありましたね、余談ですが。
ドイツの哲学者、マルティン・ハイデガーは、人間にとって普遍的なこのような状態を「被投性」と名付けました。ふと「なぜ生きているのか?」「なぜこれを行うのか?」みたいな気分、とくに不安感情を抱いてしまうことで、ひとは「被投性」を自覚します。そしてそれを乗り越えようとすること、つまり強制的なこの世界の中で可能性や自分らしさを掴み取ろうとすること、そのようなことを望むようになります。そのために、再びこの世界の中に自分自身を投げ入れるのです。それをハイデガーは「投企」と呼びました。

仮説4_「蓬莱」における「素踊り」は、「革命」を志向する行為である

この「蓬莱」という公演の第一部は、琉舞の舞踊家たちによる素踊り(化粧をせずに素顔で、華美ではなく質素な衣装で演舞する)でした。
組踊とか琉舞とかって、肌が真っ白になるまで化粧をするし、衣装のジャンルやトーンなんかもある程度統一されているし、ということもあって、誰が踊っているかってパッと見わからないんですね。つまり、踊り手たちは匿名の存在だといえます。
先ほど、王府と舞踊家の権力関係ということを考えましたが、そのことを考慮すると、琉舞における化粧や衣装というのは、着飾ったり綺麗に見せたりというよりも、むしろ踊り手たちが持っているそれぞれの個人的特性を隠蔽し、同質化・均質化を図るための装置であるというふうに捉えることができます。

国家を運営していくときには、民衆たち個々人がもつポテンシャルを最大限に引き出しながら、かつ全体を効率的に管理し安定的な運営を目指すという、一見トレードオフ関係にあるような政治課題が常に付きまといます(◆2)
琉球王府にとってはそのひとつのソリューションとして、「化粧」や「衣装」があったのでした。

そんななかでの「素踊り」は、踊り手の素顔を晒すことであり、その個性を前面に表出することである。
それって、王府による没個性化の指導に反旗を翻す行為であり、その意味では「革命」なのである。

演舞だけではない。この公演のパンフレットには、ほとんど素顔を晒した踊り手たちの宣材写真が使用されていて、ここからはっきりと「革命」の意思が読み取れる。
また、第一部のみ、地謡(楽器の演奏家)が舞台に登場しない(第二部、第三部では舞台上手に地謡用のスペースが設けられていた)。これは、王府=音楽を舞台から退けるということであり、ここにも「革命」的要素がはっきりと示されている。

◆2 生権力
王府と踊り手との間にあるこのような権力関係は、フランスの哲学者、ミシェル・フーコーの用語でいえば「規律訓練」と「生権力」がうまく結合しながら働いていると捉えることができるでしょう。
「規律訓練」とはなにさ?「生権力」とはどやさ? みたいなアレなので簡単に説明します。
もともと昔は、王様に逆らった奴は殺す! 気に喰わない奴は殺す! みたいな、「お前は磔の刑!」とか「火炙りの刑!」とかいうような感じだったわけです、権力の行使の仕方が。まあ殺さないにしても拷問とか、鎖や枷を装着しての長時間の強制労働とか、つまり身体に直接的・物理的な苦痛を与える、というようなやり方で権力が行使されていた。このような形での権力のあり方は「殺す権力」とか「死を与える権力」とか呼ばれたりする。
でも、「殺す権力」ってのは、意外と結構「効率が悪い」。拷問や肉体的暴力によって支配するというのは、手間がかかるのである。面倒臭いのである。
なんでかって、暴力の目的は暴力そのものではなく、支配することだから。権力者は、直接手を下さなくとも皆が言うことを聞いてくれるなら、そのほうが楽だ。(それでも拷問したい暴力を振るいたいという人は、性的な倒錯者というか暴力の快楽に狂ってしまった人なので、そのような人たちとここで述べている権力者はちがった存在。まあ、重複する人もいるでしょうが)
ともかく、効率良く支配関係を行き渡らせるには、できるだけコストを抑えていきたいわけで、誰かが誰かを殴る、とかっていうのは、いちいち人も時間も労力もかかるわけだ。しかも、そのような支配関係は、反乱分子を少なからず生じさせる。
そんなこんなあり、権力はちがった形で行使されるようになる。フーコーは「規律訓練型権力」という、上が下に「規律」を与え、下の者自らに「訓練」をさせ「ノルマ」を達成させるかのような権力体制があることを見出す。その「規律」や権力者からの「視線」を下の者に内在化(意識)させることに成功したら、この権力関係は磐石なものになる。つまり、下の者は自ら進んで上の求めるふるまいを行うようになる、ということだ。この権力体制の象徴的なカタチが「パノプティコン」という監視システムなんですが、ここに立ち入ると長くなるので、いまはちょっとやめときます。
強大な権力を持ってたら、ムカついた奴はバンバン処刑することもできるのではありますが、でも殺し過ぎるのもちょっとアレなのです。人口が減っちゃうと税収が減るとか奴隷が減るとか戦争の時困るとか、そういう事情で殺し過ぎるわけにはいかないわけで。
安定的な国家運営をしていくために、できることなら人口を管理したいわけで。となると、国民には病気になって欲しくないし、元気でいてほしい。だからだんだん公衆衛生とかが整備されていって、で、それは国民にとってもちょー有難いわけで。こんなふうに、直接的に国民を縛らず、国民を「生かす」ことによって国益を高める。そんなふうにして行使される権力が「生権力」です。ただ、このときの「国民」は一人ひとりの人間というより、統計情報の一サンプルとしての存在へと、ひっそりと置き換えられているともいえます。
というように、「規律訓練」と「生権力」の有効的な併用、つまり規律で縛りながら能動性を確保する。これで王府にとっては安定的な支配体制を構築することができ、踊り手達はその秩序のなかで大いに自己実現を目指すことができる。この持ちつ持たれつの共犯(共依存)関係のなかにおいて、琉球舞踊という芸術活動・芸能活動の発展がなされてきたと考えられるわけです。


と、ここまで琉球舞踊公演「蓬莱」に関するいくつかの仮説を書き連ねてきました。
これはあくまでも仮説であり、いや、というよりもむしろ素人ファンによる二次創作的なものであり、記述に対する何かしらのエヴィデンスを示すなんてことは一切できません。
が、こんなふうに仮説を立てて面白がるっていうのは、観客として費用対効果を高めるナイスな方法だと自負しております。

うまくまとめきれなくてここには書きませんでしたが、琉舞における音楽/身体(舞踊家)/型の三者関係を、野球マンガを見立てに捉えようとした「キャプテン仮説/ROOKIES仮説」というのもあります。
これらの仮説を、踊り手たちに「どうなの?」と聞くほど野暮なことはありません。それは「素人ファン」の振る舞いではありません。勝手に想像して勝手に楽しむのが素人ファンであり、そのような作法のもとに「野球マンガに例える」などという無頼なことができるのです。
というかそもそも、琉舞の担い手たちのもつ専門知は私たちには想像できないほど膨大なはずで、もっともっとたくさんのことを考えながら踊り手たちは踊っているはずです。なのでなんども確認しますが、ここの記述は僕自身の個人的な楽しみであり、独断と偏見に満ち満ちたものであることをおしらせします。

『メアリと魔女の花』と、言語の私的所有の不可能性について

『メアリと魔女の花』

観てきました。
感想を言うと、うーん、、、って感じでした。
正直、あまり好きではないといいますか。
違うな。好きじゃないわけじゃない。でもなんだろう、、、「なんか違う」というか「え、そんな感じ?」みたいな、うまく言葉で表現するのは難しいんですが、ぼんやりとした違和感を抱きながら観ていました。
おそらくですが、セリフとか間合いとかそのあたりの細かいところが、僕の生理的な好き嫌いのようなものと合わなかったのかなと。オープニング終わってからメアリが出てくる最初のシーンですでに、「ん?」って感じちゃってましたので。その最初の部分の小さなズレみたいなものが、全体的に尾を引いちゃってたのでしょうか。
でも、中盤あたりのストーリーでグイグイ引張っていく感じは、さすがジブリ仕込み!みたいな感じはありましたが。
でもそのストーリー展開の「都合の良さ」みたいな部分も少なからずありましたけども。プロットを転がすためだけに仕掛けられた小道具や演出、みたいなのが散見されてて、そこも「うーん」なんですよね。

っていうふうにまくし立てられてもなんのこっちゃって感じだと思いますので、ここらであらすじの紹介を!
どういう話かっていうとですね、、、
(以下、公式ページより引用〈こちら〉

赤い館村に引っ越してきた主人公メアリは、森で7年に1度しか咲かない不思議な花《夜間飛行》を見つける。それはかつて、魔女の国から盗み出された禁断の“魔女の花”だった。
一夜限りの不思議な力を手にいれたメアリは、雲海にそびえ立つ魔法世界の最高学府“エンドア大学”への入学を許可されるが、メアリがついた、たった一つの嘘が、やがて大切な人を巻き込んだ大事件を引き起こしていく。

魔女の花を追い求める、校長マダム・マンブルチューク。
奇妙な実験を続ける、魔法学者ドクター・デイ。
謎多き赤毛の魔女と、少年ピーターとの出会い、そして…。

メアリは、魔女の国から逃れるため「呪文の神髄」を手に入れて、すべての魔法を終わらせようとする。しかしそのとき、メアリはすべての力を失ってしまうーー。
しだいに明らかになる“魔法の花”の正体。メアリに残されたのは一本のホウキと、小さな約束。
魔法渦巻く世界で、ひとりの無力な人間・メアリが、暗闇の先に見出した希望とは何だったのか。

メアリは出会う。驚きと歓び、過ちと運命、そして小さな勇気に。
あらゆる世代の心を揺さぶる、まったく新しい魔女映画が誕生する。

というような物語なわけなんですが、冒頭に書いた否定的な感想っていうのが僕の中には、まあ、あるんですが。
でも、それで終わりにしちゃもったいない! せっかく1700円払ったのだから、もっとなんらかのものを吸い取ってやりたい、という貧乏性的な部分が僕にはありまして。
(以前『沖縄を変えた男』という映画でもおなじようなことをしました

なので、いわば、まさしくですね、ちょっといろいろ勝手に好きなように解釈して満足してやろうと、まさに、このように、思っているわけで、あります。

この映画って、王道ファンタジーといいますか、いわゆる「行って戻ってくる」話なんですね。
メアリが魔女の花によって不思議な能力に目覚め、異世界に飛び立つ。帰ってきたと思ったら、自分のせいでピーターが攫われて、救い出すために何度も異世界に戻る。んで、そこで、大きな力と対峙せざるを得ず、それを乗り越える過程で人間的に成長していく。みたいな。

メアリは、自分に突然到来した不思議で強大な能力(魔法)に魅せられ、その万能感に酔ってしまいます。調子に乗ってしまいます。それがいろんなことのきっかけでもあるんですが。
はてさて、この「魔法」というのは、この映画においては何の比喩として描かれているのか、ということを考えた時に、いろいろな見方ができるとは思うんですが、僕はそこに「言語」を見ました。
つまり、結論から言うと、この映画は「〈魔法=言語〉の〈万能性/私的所有〉を諦める話」と読むことができるのです。言い換えると、赤ちゃんが言葉を覚える=「他者」に晒されるという話です。

映画の中で、魔女の国で使われる魔法は、文字によって記述されていました。何語かよくわかんない文字。だからもちろん、メアリははじめそれを読めません。でも、能力をもった彼女は、その文字を運用できるのです。記述された文字=魔術を読み取り、使用するのです。
赤ちゃんは、母語を話す前段階で、音韻の獲得をしていきます。母語の言語体系における子音/母音の区別、発音体系、それらが用意されます。
その音韻が整備される前はブヨブヨとしていて、どのような言語体系にも対応することができます。
日本語や英語やスペイン語などの言葉を覚える以前に、それらの言語の音韻体系を赤ちゃんは覚えるのですが、さらにその音韻体系を覚える前段階では、どの言語にも対応できるような性質を赤ちゃんはもっているのです。
つまり、なんにでも姿を変えることができる能力=魔法を、このときの赤ちゃんは有しているということです。

メアリは、大叔母の家に引っ越してきたばかりで、まわりにはまだ同年代の友達なども少なく、大人に囲まれています。その大人たちの役に立ちたいといろいろとお手伝いを買って出るのですが、ことごとく失敗し、大人たちと対等な関係になることを挫かれます。「手伝います!」と言っても「大丈夫よ」と暗に拒否されてしまいます。これは、社会の中に身を置くことを延期させられた状態です。
でも、逆説的ですが、この「なにもできない」状態にあるうちが、もっとも可能性が豊潤な時期でもあります。乳児がどのような音韻体系にも対応できるポテンシャルをもつように、メアリはなんにでもなれる潜在的な「可能性」をもっているのです。

その自らの「可能性」の豊潤さを自覚したとき、つまりメアリが“魔女の花”を見つけ魔法の力を手に入れたとき、彼女は魔法の国へと誘われます。魔法の国は、その「可能性」が充満した場所でした。「魔法」によってどんなことでもできる世界。そしてその世界を、その魔法を、裏側で司っているのが「言語(=呪文)」です。
校長のマダム・マンブルチュークと、教授のドクター・デイは、メアリが持っていた“魔女の花”を奪い取るや否や、「変身魔法」の実験に取り掛かります。なんにでも姿を変えることができる万能・全能な存在をつくりあげること。それがマダムとドクターの長年の夢だったのでした。
これは言い換えると、「全能な言語」を獲得するということです。これはある見方では世界中のあらゆる言語を習得するということであり、別の見方をするなら個人が言語を思いのままに駆使することができる(言語の道具性)、ということです。

メアリ自身も、当初は自身が偶発的に手に入れた「魔法」に魅せられてしまいます。が、次第に「魔法」の負の側面、「手に負えなさ」にだんだんと気付いていきます。だからこそ、マダムたちとの不利な対決にも挑んでいくのです。
そして、最終的に、マダムたちの「変身魔法」の実験は失敗に終わります。「魔法」によって変身させようとした個体が、コントロール不能の化け物となってマダムたちを飲み込んでいくのです。

言語の全能性を追求した結果ぶち当たったのは、言語の「手に負えなさ」でした。それはすべての言語を獲得することが不可能であるということ、言語の私的所有(道具的使用;コントロール)が不可能であるということ、その両面をあらわしています。
マダムたちが生み出した化け物は、あらゆるものを破壊し、飲み込もうとします。でもその化け物は結果的に、そのときに用いられる呪文、「呪文の神髄」によって無効化されてしまいます。
そう、「呪文の神髄」は、すべての「魔法」を「無効化」してしまう呪文なのでした。
これは象徴的で、言語=呪文の「神髄」としてあるのは、全能性の獲得ではなく、無効化だということです。言い換えると「魔法」の解除なのです。
魔法=呪文=言語の獲得においてもっとも根本的なのが、それら自身の『「可能性」の解除』、『「可能性」の喪失』、『「不可能性」の受容』だということです。
これらを認めるとき、そのときこそ、乳児が言葉を獲得する瞬間であり、人が社会のなかに自らの存在を据える瞬間であるのです。

映画のラスト、メアリは「魔法」を捨てる決断をします。最後に残っていた“魔女の花”を投げ捨ててしまうのです。「魔法」を捨てたメアリは、現実に戻り、すこしだけ大人に変身していることでしょう。大人にその存在を認められ、社会のなかで立ち位置を見いだすことになっていくでしょう。
ただ、ひとつ気になるのは、“魔女の花”を使わないのに、なぜホウキに乗って家(現実)まで帰れるのでしょうか? 魔法使わなきゃ、そもそも家に帰れないんじゃないの? 後ろに乗っていたピーターに魔法の力が残っていたから? でもそれなら、なぜメアリがホウキを操っているのでしょうか? うーん。よくわかりません。ここ、物語的に破綻してません?
が、この疑問は、ここではグッと飲み込んでおこうと思います。

言語についての講話(第1回)

わたくし兼島が、保育園の保護者向けに行った「言語」についての講話の内容(文字起こし)です。
当初は他のことを喋ろうと思ってある程度準備していたんですが、途中からタガが外れたかのように思いついたことをバーっと喋っちゃいました、、、笑
でも、大事なことなのでいいよね(ニコッ)

『言語についての講話(第1回)』
(2017年5月、@エンジェルズスクール)

こんばんは。今日は、忙しい中ご出席いただき、どうもありがとうございます。
えーっと、今日はですね、今日はというか年間を通してこの勉強会においては、H先生と僕とで半分半分ずつ時間を使って、H先生の方が、主に「おしごと」の、あるいは普段の保育や日常の中でモンテッソーリ的な見方をどのようにしていったらいいか、どのように子どもたちを観察していけばいいか、そういった観点からH先生に話してもらいます。

で、僕はですね、主に「言語」のことをやろうかと。
一応「言語」っていうのは、モンテッソーリ教育の中でも大事なことで、おしごとの中にもちゃんと言語の教具や教材があったりします。なので、一応H先生がやることの守備範囲に、その枠組みの中に言語は含まれてはいるんですね。
でも、なんで今回、今回だけじゃなくて今年度の勉強会では、僕が担当する部分は全部言語についてやろうと思うんですけど、なんで言語をわざわざやろうかってことなんですが、簡単にいうとですね、モンテッソーリ教育の枠組みの中では収まりきらないからなんですね。言語が。

ちょっと勉強すると、まったくもって意味がわからないというか、いろいろとややこしいことだらけなんですね、言語って。
あまりにもわからないことが多すぎる。
例えば、それこそ「言葉をどうやって獲得するか」とかって、ビシッと説明できるようなメカニズムが解明されてないんですね。はじまりからして全然わかんないっていう。

でももっと不思議なのは、ぜんぜんわかってないのに、フツーに使いこなしてるってことですね。
どこで手に入れたかわからないものを上手につかいこなす能力っていうのが、そこが人間のすごいとこだと思うんですけど、でも謎ですよね。

たぶん普通に生活してたら、あんまり言語のその不思議さみたいなのって、あんまり意識しないと思うんですけど、一回意識するともう全然わかんないんですよね。僕はもう毎日意味がわからないんですよ、だから。
なので、今日は、お母さんたちにも意味わからなくなってもらおうと思ってます。

ほんとはですね、今日は最初なので、言語っていうのがモンテッソーリ教育の中でどう捉えられてて、教育のなかにどう位置付けられてるのか、みたいなことを話そうと思ってて、一応それで資料というか、ほぼ論文みたいなものも途中までですけど書いてたんですよ、概要みたいな。

でも、一回みなさんに意味わからんくなってもらって、そのあとで一個ずつ中身に入るっていうか、言語のことを一個ずつ考えていくっていう感じにしたいんですね、1年通して。
で、今年度の勉強会が終わったときに、言語についてちょっとでも新しい考え方とか、発見とか、役に立ったとか、そういった感じになってればいいなと思います。それを一応この勉強会での、僕の担当する「言語」のパートでの目標にしたいなと思います。
なので、今日は最初なので、意味わからんやつをやります。

***

まず、言語についてっていっても、言語とはなにか?みたいな話をやらないといけないんじゃないかなと思ってます。
「言語」っていうより「言葉」って言った方がいいですかね? 言葉って、たぶんいろいろとあると思うんですけど、コミュニケーションの手段っていうふうな捉え方がいちばんメジャーなのかなって思うんですね。伝える道具っていう。思ったこととか考えてることとかを、お互いに表現し合う、伝え合う、っていう、そういうものだと考えられると思うんですね。

でも、じゃあここでちょっと考えてみてほしいんですけど、お互いの感情とか考えを伝える手段ってことは、まず自分の考えてることがちゃんと言葉にできて、それが相手に伝わって、言ってることをわかってもらう、っていう流れで言葉は使われるわけですよね。
つまり、言いたいことの方が本質で、言葉っていうのはその表現手段ってことになりますよね。

言葉が伝達の道具だとすると、たとえば普通話す時って、わざわざ回りくどい言い方とかやるじゃないですか。婉曲表現とかっていうんですけど。
もし伝達手段なら、ストレートに言った方がいいんじゃないかって思いません?

たとえば「今度ご飯でも行きましょう?」って言われて、「いまちょっと忙しくて、、、」とかって断るのとか、よくありがちな返答だと思うんですよ。
でもこれ考えたら、「行けません」っていう答えの方が、道具の使い方としては正しいですよね。よりストレートに過不足なく伝えてるじゃないですか。
でも、ほとんどの場合こんな使い方しなくて、「忙しくて、、、」とか「いまちょっと金欠で、、、」とか極端なのだと「あぁ、、、」みたいな。わざわざそういう曖昧な使い方をみんなするんですよね。察して!みたいな。
道具としてはちょっと不便じゃないかなっても思うんですよね、そうなってくると。
洗濯機があるのに川に洗濯に行くみたいな感じじゃないですか。一応こういう比喩表現とかも道具としてみると無駄ですよね。

あと、「負けは負けだ!」みたいな言い方あるじゃないですか。
これって、よく考えたら当たり前のことしか言ってないんですよね。情報としては〈1=1〉ってただ同じこと繰り返してるだけなんですよ。
でもこの表現って、有無を言わさぬっていうか、強い圧力ありますよね。
「負けは負け」とか「私は私」とか「ヨソはヨソ、ウチはウチ」とか、道具としては何もしてないんですよ。

いま言ったようなこととかって、結局、相手を信用してないとできない表現なんですよね。
相手がこの意味をわかってくれるだろう、って思ってないとできない言い方なんですよ。
曖昧な言い方で伝えるって、道具としては中途半端な使い方だし。
直接相手の家まで行けばいいのに近くのコンビニで待っとく、みたいなことを、普段言葉を使うときにやってるんですよね。

とかってやってたらいつまでも終わらないので、ここらへんで一応ストップします。
要は、言語というのは、道具は道具でも、あまり直接的で合理的な道具ではないってことですね。だいぶ無駄を孕んだものなんです。その部分は、まあ当然みなさん思うことだと思います。

言葉は無駄を孕んだ道具って考えるとして、じゃあなんでいちいち無駄が入り込むのか?っていうのが今度は問題になってきますよね? きません? きますよね!

なんでわざわざ無駄なことをするのかって考えたら、無駄なことをすることで何らかの効果が得られるからだと思うんですね。
さっき婉曲表現って、デート断るのも直接言わずに「ちょっと忙しくて、、、」みたいな曖昧な言い方をするって話がありましたけど、あれもし直接断ると棘がありますよね。グサッときますよね。
そのグサって相手を刺さないために、やんわりと相手の傷を最小限にとどめる気遣いみたいなのが、「ちょっと忙しくて、、、」っていうフレーズには含まれてるんですね。
つまり言葉だけ、言葉だけっていうか音としてただ聞くと、「忙しい」ってただ言ってるだけの表現なんですけど、でもそこの裏側に「ごめんなさい、あなたとはデートに行けません」っていう丁重なお断りの意味が含まれてるわけです。
文脈とか状況とか関係性とかで、そういうふうな含みを言葉に付け加えて届けてるんですね。
こういう文脈とかから言葉を見ていくのを「語用論」っていうんですけど、そういうふうにして人は言葉を使ってるんですね。こういうのができるように道具としての無駄がたぶんいっぱいあると思うんですよ。

「忙しい」って単語を辞書で調べても、「ごめんなさい、あなたとはデートに行けません」って説明は絶対に書かれてないんですけど、でもそういう意味なんですよね、ここでは。って考えると、ここでもまた新たな問題が出てくるんですよ。

ふつうに考えたら、辞書を引いた時にそこに書いてある説明が、その単語の意味ってことになるじゃないですか。
でも、人が話している時に使っている言葉は、その辞書に書いてある意味からズレちゃったりすることがよくある。
そしたら、「意味」って何? ってことになっちゃうんですよ。

辞書を読んでたら、単語には固定された、その単語本来の意味があるっていうふうに思っちゃうんですけど、でもあれは、固定された正しい意味じゃなくて、あくまでも代表的な意味だと考えるべきなんですね。
「だいたい皆この言葉はこういう意味で使ってるよね」っていうなんとなくの了解がその単語の意味ってことで辞書に書かれてる。だから、ある語句とその意味とがきっちりセットってわけじゃ必ずしもないんです。

本来、辞書って、あるいは文法書とかもそうなんですけど、そういうのって、その言語を使う人が普段喋っている言葉を集成して編まれていると思うんですね。つまり、発話の集積が規則を作り出すんです。
ウィトゲンシュタインっていう哲学者がいるんですけど、この人が、「語の意味とはその使用である」って言ってるんですね。さっきいった語用論っていうのもこの人の影響をだいぶ受けてると思うんですけど。
ともかく、その言葉に意味があるんじゃなくて、どう使われてるかっていうのを追っていく必要があると。それが意味だと。
辞書とか文法書は、言葉がどう使われてきたかっていうのが表現されてる書物なんですね。
ウィトゲンシュタインについてはまた後ほど触れることになるかと思います。

そうやって、言葉の決まり、規則が出来上がっていくんですけど、でも一旦規則ができると、今度はその規則が発話を規定するようになってくるんですね。
「正しい日本語」とか「言葉遣いが乱れている」っていうのは、そういう認識のもとにしか生まれないと思います。
実際の発話行為を、規則を参照して成否の判定をする。
そういうプロセスを経るから「正しい」とか「乱れている」とかが言えるんですね。
そしてこの言語の規則が権威化してしまって、辞書とか、文法書とか、そういうのに書かれているのが正しい言葉だと考えるようになります。

この言語の規則に発話行為が規定されるっていうのが、また次の重要な問題になります。
さっきから問題が出てきすぎな感じがありますが。
規則とか言語体系とかっていうのは、人に、言葉の使い方を規定するようになります。
ただ使い方だけじゃなくて、物の見方とか、考え方とか、そういったことも、言語は規定してくるようになるんです。

たとえばオオカミと犬の違いってなんなのかって考えるとき、まあいろいろ生物学的な違いがあると思うんですけど、言語学的に見ると、「名前(呼び方が)違う」、っていうのが一番の大きな違いってことになるんですね。
どういうことかっていうと、名前によって、両者の間に線を引いたって考えるわけです。
姿形からしたらオオカミのことを犬って呼んだっていいはずなんですけど、本当は。でも大昔の人たちは、犬とオオカミの間に何らかの違いを見出して、片っぽを犬、片っぽをオオカミって呼んだ。その分類がいまもずっと使われている。そういうふうに考えるんですね。
だから名前をつけた、言葉を与えたことによって、オオカミっていう存在が誕生した。まあ実際にはもう絶滅しちゃいましたけど。
犬も同じで、もともと犬として存在していたわけじゃなくて。ほかのいろんな動物たちとの間で違う部分を見出されて、だからわざわざ他と別の名前で呼ばれるようになった。そのあとで「犬」として存在するようになった。
なので、名前や概念を与えられてはじめて、存在することができるわけです。つまり人は、言葉によって世界を切り分けて、分節化して見ているんですね。

もともと全体としての世界があって、それを切り分けて一つひとつの言葉と概念(物)が同時に誕生した。
だからその言語体系全体のなかにその言葉がどう位置付けられているか。あるいは他の言葉とどのような関係にあるのか。
言葉の意味っていうのは、その関係性があってはじめて成り立つものなんですね。

その関係性のあらゆるパターンというか、世界の切り分け方というか、そのような物の見方が、言語の規則としてまとめられていくんですね。
そうすると今度は、その規則を参照する人は、次第にそこに規定された物の見方をするようになる。オオカミと犬は別のものだという考え方がデフォルトになる。
というふうにして、言語の規則が、物の見方や考え方を規定するようになるってことが言えるんですね。

こういうような言語観を「言語相対論」っていうふうにいいます。
「言語が思考に影響を与える」っていう考え方ですね。これをもっと極端にして、「言語が思考を決める」って考えるのが「言語決定論」って言います。
でもさすがに「決定論」までいくと言い過ぎだろっても思うんですよね。なのでバランス良く「言語相対論」でもって僕は言語を捉えるようにしてるんですけど。

もうひとつ例を出すと、さんぴん茶ってあるじゃないですか。あれって、ジャスミン茶のことですよね。でも沖縄の人はさんぴん茶っても呼ぶ。両方使えるんですね、沖縄の人は、さんぴん茶もジャスミン茶も。
でも、たぶん沖縄の人ならなんとなくわかると思うんですけど、なんか違いますよね。
なんか、さんぴん茶の方は土着感ありますよね。ジャスミン茶の方が小洒落た感じありますよね。オシャレなカフェならジャスミン茶で、沖縄っぽさ全開の古民家カフェならさんぴん茶ですよね。
このなんとなくの秩序は、「ジャスミン茶」だけしか使わない人にはわからないんですよ。
こういうふうに日常的な言語に物の見方は規定されてるんですね。大げさにいうと、イデオロギーがあらかじめ組み込まれてしまうってことです。
そのようなものの見方をするように仕向けられているってことですね。

***

ここまでが、言語、言葉について、言葉とは何か、ってことを考えてきたんですけど、ここからが本論です。前置きが長い!っていう、、、すみません。

ここから、発達と言語のことを考えていきたいと思うんですけど。まずですね、発達心理学の有名な学者さんに、ピアジェって人がいるんですね。この人の話からはじめたいと思うんですけど。

このピアジェさんはですね、いまもたぶん心理学科では普通にこの人の理論習いますし、教育学部とか保育士の養成課程とか、僕自身も社会福祉士を取得する際にこの人の発達段階説っていうのを勉強しました。
さらにいえば、ピアジェの理論モデルって、モンテッソーリの理論と類似しているんですね。
どちらも子どもを観察することによってそれぞれの発達段階理論、発達モデルを形成していったので、共通することも多いです。今日はモンテッソーリ勉強会なので、ピアジェの理論を参照しながらモンテッソーリについて話すってことかと思いきや、ここではモンテッソーリはスルーします。さっき言ったように、言語についてはモンテッソーリ教育の枠組みでは捉えきれないことが多いので。

なので、ピアジェの理論もここで詳しくは述べませんが、ごく簡単に言うとピアジェの理論というのは、未熟で自己中心的な幼児が、だんだんと他者の視点・マクロな視点を獲得していき、それに伴走するように具体的思考から抽象的思考へと進んでいく、っていうような考え方です。

で、このピアジェさん、論敵がいてですね、二人いるんですけど、一人目がワロンっていう人です。
このワロンさんは、ピアジェの子どもの発達モデルは「個人主義的」なんじゃないか、ってことを言ったんですね。
ピアジェの考え方では、いちばんはじめからあらかじめ「私」が確立されていて、最初はひとりの狭い空間の中だけで活動したり考えたりすると。そして次第に周りの人たちや離れたところにも意識が向いていく。
ワロンはその理論の出発点に疑問を投げかけてます。「はじめから「私」と「他者」が分離してるけど、それ本当?」ってことですね。

ワロンは、まず全体があって、「私」と「他者」の区別っていうのはあらかじめ存在しない、っていうことを言いました。
はじめは、私=世界なんですけど、それがいつからか世界が分節されて、「私」とそれ以外=「他者」っていうふうになると。
その分節化がどんどんどんどん進んでいくのが発達なんじゃないか。ごく簡単にですがまとめると、こんなことを言ってます。

このワロンの理論って、さっき出てきた、言葉が世界を切り分けている、っていう捉え方とリンクしてるっていうのがわかるかと思います。
ただ、この論争のどちらが正しいとか、そういうのはよくわかりません。当時はワロンの方が優勢だったということですが、でもワロンは授業で習いませんでした。このへんのところは僕もよくわかんないです。

で、さっきピアジェに論敵が二人いたって話だったんですが、もう一人がヴィゴツキーという人です。この二人が争ったのは「内言・外言」という概念についてです。

内言っていうのは、「音声を伴わない言葉」のことですね。頭の中で考えたり整理したりするときも、言葉って使いますよね。そういう頭の中だけで使うのを「内言」っていいます。
で、「外言」は逆で、音声を伴う言葉のことですね。伝達の道具として捉えられるものです。この「内言」と「外言」では、どっちが先に発達するかっていうのが、二人の論点だったんですね。

ピアジェは、彼の理論を考えると予想できると思いますが、内言→外言っていう順番なんですね。
自分の中で考えるようになって、それが徐々に周囲に向けて発せられるようになる。これがピアジェが言ったことですね。
逆にヴィゴツキーは、いやいや、言語っていうのは他者によってもたらされるんだから外言→内言でしょ、というふうに言った。
言葉がどう使われているのかを把握した後でしか、頭の中での言葉は使えないということですね。この論争も、ヴィゴツキーの方に軍配が上がりました。ピアジェ2連敗です。

ワロンとヴィゴツキーはどちらも、全体との関係性あるいは他者との関係性を各々の発達理論に持ち込みました。
ワロンは発達を私=世界が切り分けられると見立て、ヴィゴツキーは他者の言葉やその働きかけが私の思考を形作るとしました。
この「切り分け」や「他者」というキーワードから派生して、もう一人取り上げたいのが、ラカンという人です。

ラカンは、精神分析の人です。フロイトってご存知ですかね? フロイトは精神分析のパイオニアなんですが、その人の正統的な後継者だとラカンは自分で称しています。

ここで精神分析について説明すると大変なので今日はやりませんが、いろんな文学や映画などの解釈などにも使われたりしています。で、ラカンなんですが、この人の言ってることがまぁ難しいんですね。やたらと変な概念をいじり回して語るので、絶望的なくらい意味がわからないってことがよくあります。

ラカンは、「私」という存在の認識と、言葉とが、とても大きな関係を持っているってことを言いました。
もともと乳児っていうのは、母親と同一化しているっていうふうに考えたんですね。母親とずっとくっついて、食事のときも排泄のときも。
そのときの赤ちゃんというのは、とても安心感に満たされていて、私=母親なんですが、さらに母親=世界でもあるんですね。母親だけで世界が成立している。それでいて私は母親と同一化している。つまり私=母親=世界なんですね。

ところがあるとき、母親から引き剥がされてしまうことが発生する。母親が不在になってしまうことがある。
そのときっていうのはまさしく世界の危機ですよね、この子にとっては。
ここらへんの細々したところはややこしいので触れませんが、母親と引き剥がされた子どもが、母親を呼び止めるために必要となるのが、言語です。
「ママ」っていう言葉です。
それによって、母親が取り戻せるかもしれない。

ただ、ここで言語が介入することで、この子にとっては大きな出来事が起きるんですね。「ママ」と呼びかける対象ができたってことは、同一化していた母親との間に線が引かれたってことですね。
さらに、「ママ」という呼び名が発生した瞬間に、母親は母親そのものではなく、「ママ」という言葉を通した存在っていうふうに姿を変えてしまうんですね。

さらにラカンの重要な概念に「鏡像段階」っていうのがあるんですが、赤ん坊が鏡の中に映っている自己像を自分の姿であると認識することをいいます。この鏡像段階で「私」というものに出会ってしまった子どもは強い衝撃を受けるわけです。

母親と自分が違った存在である。
世界の中に「私」が存在してしまっている。
言語の介入によって「ママ」という言葉(見方)を通してしか母親に触れることができない。
このようなことを起点にして発達がはじまります。

ヴィゴツキーが言ったように、言語は他者の言葉=外から内にやってきます。たくさんの人の思考によって織り上げられた言語規則が、子どもの思考や物事の見方を規定するようになります。
ラカンは、介入してきた言語によって織り上げられた世界のことを「象徴界」と呼び、また「大文字の他者」とも呼びました。つまり絶対的な他者ということです。

わたしたちは、目の前の世界をそのまま現実だと思って過ごしてますけど、実はちがうんですね。
言葉によって、つまり象徴界によって切り分けられて、秩序づけられた後の現実っていうのを見てるんです。
それをラカンは「想像界」っていいました。いま話題の仮想現実的なイメージですかね。
映画のマトリックスで、キアヌ・リーブスたちが闘ってた世界が想像界で、緑色のプログラムコードがワーッて降ってくるみたいなシーン、あれが象徴界です。
象徴界によってコーディングされた想像界っていうのを人は生きてる、ってラカンは考えたんですね。
もうひとつ現実界ってのもあるんですけど、それは言葉を持ってしまった人には触れられない領域であるっていうふうにしました。

これ以上ラカンについて触れるといよいよ迷子になってしまうので、そろそろ終わりにしますが。
言いたかったのは、子どもが言葉を獲得するそのはじまりのときに、言語によって規定された現実っていう中にいつのまにか投げ出されてしまってるんですね。
目に見えている世界の裏側に、それをプログラムしているコードがある。
さっきも話した、規則によって見方や思考が規定されるっていうのが、またここでも出てきました。

ただ、面白いのは、そういう規則、つまり言葉のルールとかって、とくに母国語の場合は、頑張って勉強して覚えたってわけではないですよね?
なんとなく、この言葉はこんな意味だなって、使えるようになっていきましたよね。

ここでさっき言ったウィトゲンシュタインって人がまた出てくるんですけど、この人が「言語ゲーム」っていう概念を考えたんですね。
「語の意味とはその使用である」っていう言葉は、この言語ゲームについての考察から出てきたんです。
たとえばゲームって、サッカーでも将棋でも花いちもんめでも、それぞれにルールがありますよね。で、プレイヤーはそのゲームのルールに従って動くわけです。

たとえばサッカーをしている少年たちを遠くから見てるっていう状況を思い浮かべてください。
しばらく見てたら、急に誰かが、ボールを手でつかんで走り始めたら、「え、ラグビー?」ってなりますよね。でも、子どもたちは楽しそうに続けている。
って思ったら、今度はそのボールを人に当てて周りは逃げるみたいな「ボール当て鬼ごっこ」になってたと。
それも横から見てる人は困惑しますよね。なんのゲームをやってるのと。
でも子どもたちは、戸惑いもなく遊びまわってる。
プレイヤーの子どもたちは、他のプレイヤーの振る舞いとかを見て、なんとなくルールを掴めているんですね。
外から見て客観的に勉強しようとしたら、実はそっちの方が難しかったと。
この事例をそのまま言語に応用すると、言語ゲームの考え方になります。

ある集団があって、そこではある種のルールによって語の使い方が決まっていると。
「りんご」っていう言葉が何度も出てきて、遅れてきたプレイヤー(幼児)は、その「りんご」の使われ方を見て、自分も使ってみる。
周りが特に変な反応を示さないなら、その使い方はオッケーってことですね。
そうやって語を獲得していくと。

で、それぞれの集団によっては全部ルールが違う、つまり使い方が違ったりする。
ゲームとゲームの間には「家族的類似性」っていうのがあって、「どこがとかじゃないけど皆なんとなく似てるよね」、っていう家族の顔が似てるよねっていうのが家族的類似性ですけど、そんなふうな仕方で言語ゲーム間、集団間でルールに類似性があると。
だから、他の集団で使用した「りんご」をここでも使うことができる。
それで周りの反応が大丈夫であればオッケー、っていうことですね。

だから全部言語ゲームなんだ、っていうふうにウィトゲンシュタインは言ってるわけですね。
りんごに意味があるんじゃなくて、どう使われてるかを体得するのが、言葉の意味を知るってことだよと。

成長して、言語をうまく話せるようになってきてはじめて、「これは〇〇って意味だよ」っていう教え方でも理解できるようになるんですね。
だから、例えば英語と日本語とか、子どもが2つの言語を一気に覚えるのと、母語を習得した後に第2言語を習得しようとするのは、まったく別のプログラムなんですね。
これに関してはみなさんなんとなく解ってらっしゃるとは思うんですが。

園でも、僕が担当して「こくご」の時間っていうのをやってるんですけど、上のクラスは劇をよくやってます。
即興だったり台本使ったりもしますけど、即興の場合は日常的なシーンで、例えば親子で買い物とか、食事とか、子どもにとっては、お父さんお母さんとか他者が使う言葉を喋れるような言語ゲームの場にしたいと思っています。
BCグループは、まだ劇とかには入れないんですけど、最近は大きい小さいっていう言葉を使ってレッスンをしました。
特に面白かったのは、Lちゃんは純粋なアメリカ人なんですが日本語ちょっとずつ上手になってきてるんですね。
ただ、大きいと小さいについてはわかんなかった。でも実物やカードを2つ使って「大きいのはどれ?」とか「小さいのどれ?」とかを、他の子も一緒にやってたら、後半はLちゃん個人的に質問しても、ちゃんと応えられるようになってました。
こういうのを見ると、「なるほど、意味とはその使用だな」っていうのがなんとなくわかるような気がします。

NEW ARRIVAL

稽古の合間の悪ふざけ
(むしろこっちがメイン)

稽古とは名ばかりに、いい大人が集まって記念碑的な愚の骨頂を生みだしています。こんなことしてると、社会は甘っちょろいと実感しますね。

チョコ泥棒、
動画配信はじめました。

あの劇団チョコ泥棒が、過去の公演動画をアップしております。低画質、固定アングル、観客とカブって見えにくい、などの障壁を乗り越えてご覧下さい。

「ハゲの歌を聴け」
チョコ泥棒コーラス部

2014年。今年もチョコ泥棒コーラス部が始動。稽古時間を削り、レコーディングに1時間近くを要し、このクオリティ。逆に拍手を贈りたくなります。

堕落論。

あなたがもし落ち込んで自分を責めてしまうとき、ぜひ読んでみてください。こんなヤツでも生きているんだから、と自分を許してあげることができます。

チョコ泥棒プロデュース
『エンジェルのとしょかん。』

沖縄市の保育園、『エンジェルズ スクール』の一室を図書室にしてしまおうという秘密の計画を、準備段階ですが世界中に公開致します。

シキヤの草花・オンライン
〜多肉と観葉、あと野菜〜

チョコ泥棒の代表、志喜屋孝将。普段は農家の彼が、手塩にかけて育てた草花を販売致します。最近巷でなにかと人気の多肉植物もございますよ。

しりとりで
人生が変わればいいのに

そう思ってはじめたこの暇つぶし企画。更新が滞っておりますが、別にハナから継続できるなんて思ってなかったから可です。

渾身の絵描き唄

拙い画力を携え、脚本・兼島が絵描き唄をはじめました。公演用の原稿の〆切は、とっくに過ぎていますが、その部分には誰も何も触れないでください。

第三回公演
開催“ほぼ”決定

劇団チョコ泥棒第三回公演の日程が決まった模様です。早めに決めてあげたので、観に来れるように日程を調整してください。

イカしたブログをつくったぜ。

劇団だと名乗っているにも拘らず、僕らにブログデザインを依頼してくる輩がいました。どうかしていますが、仕方ないのでつくってあげます(ありがとう)。

ライド・オン・ザ・レイディオ
(@ザハラジ)

チョコ泥棒、なんとラジオに出ました! 場を荒らしました。まだ誰からも怒られていないので、メンバー一同反省はしていません。

詩人・喜久山
駄作を更新

チョコ泥棒の詩人・喜久山が今日もせっせとくだらない詩を書きあげました。読んだところで損しかありません。自己責任でどうぞ。


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