人の名前や顔を一切覚えない。予定や約束も覚えない。
そんな志喜屋氏は、如何にして
この荒々しい社会を生き抜いていっているのだろうか。
数々のお咎めの声を華麗に遮断する、その極意を訊く。
「働く」ということに関して、僕は一切希望がないんですね。僕は一応、農業をやっているということになっているんですが、これで食っていこうとは思っていないし、食っていけるとも思わない。農場にいても、猫と戯れるか、ゴルフスイングの練習くらいしかやらないので。そういう風では、これでお金を得るなんて到底無理な話じゃないですか。だから、そもそも食っていけるなんて次元の話じゃないんです。農場の猫は僕が餌をやることを当てにしてるけど、僕自身も親の財産とか、結構当てにしてて。実家暮らしなので、何もしなくても御飯は出てきますからね。困ったら、小遣いだってもらえるし。でも、たまにはちゃんとしなきゃいけないとも思うので、そういうときは台所に立つようにはしています。そういう『親への感謝』は行動で示すべきだと思うんです。
農業とは別で、僕は劇団の代表もやっているんですが、そこでも、基本的には他の団員に寄生していますね。全部やってくれますから、彼らは。公演のテーマ決めから客集めまで、僕が一切取り組まなくても、なんだかんだ許してくれるんですよ。はじめから期待されてないので。思うんですけど、その「期待されない」というのが重要なんじゃないかと。期待されなければ、仕事をフラれることもないわけだし、面倒なことをしなくても済む。だから、如何に「期待されない人間」になるか。結局、「人間性」なんですよね。ただ、矛盾するようですけど、「人間性」を認めてもらうには「実績」を作る必要があるんです。「あ、こいつ本当に何もやらないんだな」って思わせることができてはじめて、諦めて僕抜きでなんとかしようとしますから。
最近飲み会に行く度に、なぜか所持金が増えていくという。
代金を払わないことが普通になり、
そのうえお釣りまで貰うことも多くなってきた。
彼が今の立ち位置を得るまでに辿って来た道程とは。
最近思うんですけど、生きるって容易いんですよね。だって、ずっと横になってればいいんだから。それを許してくれるんだから、社会は暖かいんです。でも皆、社会はドライなものだと思い込んでいる。ちゃんと働かないといけないとか、自立しなきゃとか、家族を養わなきゃとか・・・。もったいないですよね。
社会の風潮として、頑張っている人や成功している人がフィーチャーされがちですけど、何かに真剣に取り組んだとして、得るモノは多いとは思いますけど、それと同じ分だけ失うモノもあるんですよ。皆、それを見ないようにしている。1を失うことの悲しみは、1を得る喜びより数十倍も大きいんです。そう考えると、ノーリスク・ノーリターンがベスト。一切責任を取りたくないなら、何にもやらないというのが一番なんです。自らリスクを取るような活動的な人を見ると、何が楽しくて・・・って思いますね。
やっぱり、人は自分一人では生きていけない。誰かが支えてくれるから、生きていくことができるんです。だから、その支えてくれる「誰か」を見つけることが、人生において一番重要なことなんじゃないかな。そうすれば、一生ラクして生活できるようになりますから。