公演も終わり少し落ち着いたので、ここ最近観た映画や舞台や本の話などを、ぼちぼち書いていこうと思う。
沖縄では毎年夏休み期間になると、『りっかりっかフェスタ』という舞台芸術祭が開催される。これは主に児童・青少年向けの作品が上演されるのだが、もちろん、大人が観ても楽しめるラインナップになっている。むしろ、近年は大人の観客の数のほうが多いんじゃないかと思うくらいで、あまりその傾向が強すぎるとフェスタ自体のコンセプトが揺らいでしまうので、運営側は大変だろうとは思うが。
約1週間の期間開催される『りっかりっかフェスタ』だが、今年度わたしは6作品7公演の舞台を鑑賞した。こんなにまとまって舞台を見ると、脳がショートしてしまいそうでした。ほんと。
鑑賞した作品のうちの一つが人形劇「シンデレラ」(ショーナ・レップ)だ。ストーリーは、そのまんまシンデレラ。たぶん多くのひとが共有している通りに物語は進行する。でもユニークなのは、その人形劇がいわゆるプロセニアム(額縁状の舞台)で行われるのではなく、すべて「テーブルの上」での上演だった。
シンデレラの人形と手袋型のイジワル姉妹。これらの“登場人物”が、たくさんの仕掛け(引き出しや穴など)が施されたテーブルの上で躍動していた。その躍動を司っていたのが、テーブルの外にいる一人のパフォーマーと通訳、それから音楽。
人形が動くテーブルの「面」という2Dと、パフォーマーが動く3Dの空間。これらをうまく併用して物語が進行していくさまは、とても新鮮な感覚だった。たとえば、玄関や部屋の扉は、テーブル上に建てつけるのではなく、テーブル面に「掘られて」いる。つまり、人形の足裏が着地する平面と、通過していく平面とが、同一なのだ。このような仕掛けが、テーブル(ひいては物語)のあらゆるとことに施されていて、そのたびに、これまでの自分の空間認識の方法が揺らぐのがわかる。それがとても面白かった。
ただ、今回書きたいことのメインは他にある。
シンデレラのストーリーから、わたしたちはなにを読み取るべきなのか、ということだ。
シンデレラは、家の中では奴隷のような扱いで、義理の姉たちに虐げられている。
ある日、お城の舞踏会に姉たちは着飾って出かけていくのだが、シンデレラはそこに行くことは叶わない。
と思っていたら、ある魔法使いの計らいによってドレスや馬車をあてがわれ、舞踏会へと出かけていく。そこで王子に見初められるが、魔法の効力が切れてしまう前に家に戻らねばならず、城を後にする。
シンデレラは誤ってガラスの靴を落としてしまうのでが、王子はその靴を手掛かりにシンデレラを探し出す。
晴れてシンデレラは妃として城に迎えられることになった。
というようなあらすじ。みんな知ってるやつ。
このあらすじを、わたしは、「ソーシャルワーク論」あるいは「エンパワメント論」として読み取いていきたいと思っている。
いちおう、わたくし兼島、これでも「社会福祉士」という国家資格をもっておりまして。。まあ、ペーパーですけど、、、
貧困や障がいや出自などにより排斥されてしまった人たち、社会の側から「見えないこと」にされた人たち。そのような存在のシンボルとしてシンデレラがいる。そして、イジワルな姉たちは、彼らを排除しようとする「社会」のメタファーである。
魔法使いという存在は、シンデレラをエンパワーするべくやってくる。さながらソーシャルワーカーのようなポジションだろうか。
王子という「セーフティネット」に見つけられ、繋がるために、魔法使いはシンデレラにドレスや馬車やガラスの靴を、“魔法”によって提供する。
重要なのは、これが“魔法”であり、だからそれは解けてしまうもの、つまり効力は「有限」であるということだ。
「有限」というベクトルのひとつは、万能ではない、ということだ。なんでもできるわけではない。すべてを魔法で賄えるわけではない。王子の前に直接シンデレラを連れていくわけではなく、衣服と移動手段を提供するのみだ。あとは舞踏会でのシンデレラ次第である。
支援者は、当事者のすべての問題を背負うことはできない。すべての問題を解決することはできない。シンデレラ自身が自らの人生を前に進めていくために、環境を整えたり、サポートをする、それしかできない。だれも彼女の問題を代わりに抱えたり解決したりはできないし、それは結局彼女自身のもつ能力を奪ってしまうことになる。だからこそ支援者は、自らの「有限性」を自覚し、そこを起点に支援を行っていかなければならないのだ。
魔法によって、ドレスや馬車やガラスの靴を授けられ、シンデレラは舞踏会に出ることができた。ドレスや馬車やガラスの靴は、直接的なケアかもしれないし、教育かもしれないし、あるいはソーシャル・アクションかもしれないが、それらによってシンデレラへのエンパワメントがなされ、シンデレラは舞踏会へと自らの足で赴くことができた。
國分功一郎の『中動態の世界』第8章「中動態と自由の哲学ーースピノザ」での議論が、「エンパワメント」という概念をわかりやすく説明している(といっても、本書のなかでその単語が出てくることはないのだが)。
國分は、17世紀オランダの哲学者・スピノザの「自由」の概念を手引きとして論を展開していくのだが、簡単に要約すると、「自由」=「能動」と「強制」=「受動」というのは、二項対立ではなく、「度合い」の違いなのだ、ということだ。人は完全なる自由意志をもつことはできない。常になんらかの外部刺激に晒されており、人はその刺激によって「変状」してしまうものなのだ。その変状の際に自らの「本質」がつよく表現されていると「自由」=「能動」、外部刺激に飲まれて「本質」が表現しにくい状況を「強制」=「不自由」とよんだ。
もうすこし砕けた説明をしたい。
人はその人の周囲をとりまく状況を無視して「純粋な行為」をすることはできない。必ずなんらかの影響を受ける。たとえばそれを数値的に表して、AさんとBさんそれぞれに、「10」の力で外圧が与えられているとする。Aさんはその外圧を「8」の力で押し返す(行為する)ことができる。一方Bさんは、「2」の力でしか押し返すことができない。このとき、相対的に、Aさんは「自由」=「能動」であり、Bさんは「強制」=「受動」の状態にあるということができる。
*Aさん →→→→→→→→←← 外部刺激
(「強制」=「受動」)
*Bさん →→←←←←←←←← 外部刺激
その「強制」=「受動」の状態にあるBさんに対して、ケアや教育を施したり、制度やサービスにつなげたりして、「2」を、「6」とか「7」とかにもっていく。これがエンパワメントということだ。
(「強制」=「受動」)
*Bさん →→←←←←←←←← 外部刺激
▼
(「自由」=「能動」)
*Bさん →→→→→→←←←← 外部刺激
↑↑↑↑↑↑
ケア、教育、制度・サービスなど
もうひとつの「有限性」のベクトルは、「時間」だ。かけられていた魔法は、いつか解けてしまう。ずっと魔法使いがお世話をしてくれるわけではない。つまり、いつまでもずっと支援者が伴走するわけではない。もちろん、病気や障害によって常にケアが必要な人もいる。でもそれでも、同じ介護者が常にいる保証はない。特定の人物だけがその負担を抱え込んでいて、その人がダウンしてしまい誰も介護する人がいない、というような二次的な問題が発生してしまうこともあり、その場合は、公的サービスなどにつなげる必要性もでてくる。そういった意味で時間的な「有限性」は常につきまとう。
有限な時間のなかで、いかに当事者のエンパワメントを高めるか。知識や経験を得て、人間関係を自ら構築し、「自由」=「能動」な状態をデフォルトにしておくことができるように、支援者がその環境を当事者と一緒につくっていく。そしてどこかの段階で、少しずつ離れていく。もちろん定期的なコミットメントは必要だけど、「いなくても大丈夫」な状態にもっていく。これは、ひとつの理想的な状態といえると思う。このような仕事が、大枠でのソーシャルワークというものだと思う(もちろん細かい理論はいっぱいあるけど)。
シンデレラで描かれるのは、彼女が妃として王室に嫁いでいくまでだ。「その後」は描かれない。その後の生活というのは、セーフティネットにつながれ、社会の中で居場所をもつことができたシンデレラが、自らつくっていくものである。そのとき、ときどき魔法使いは召使いなどに化けてお世話をしているかもしれない。わからないけど。
でも、いつかどこかのタイミングで、魔法使いはしれっと遠くにいってしまう。そのことに、シンデレラは遅れて気づくだろう。「あれ、おばあさんは?」みたいな。
でも、彼女はそこで寂しさは覚えても、生活上の困難は発生しないだろう。そうならないように、魔法使いは支援してきたのだから。お城のなかで自分の暮らしを送るシンデレラを、遠くから見守っているのだと思う。