の、ちゃいろい生活。 brown works of chocodorobo.

chocodorobo のすべての投稿

『ライカムで待っとく』(KAAT神奈川芸術劇場プロデュース)

KAAT神奈川芸術劇場プロデュース
『ライカムで待っとく』



KAAT神奈川芸術劇場がプロデュースし、兼島が書き下ろした新作『ライカムで待っとく』が、11月27日より上演されます。
沖縄本土復帰50年。沖縄を舞台にしたさまざまな作品がつくられた2022年の最後に、この作品が皆様に届けられることを、とても光栄に思います。沖縄を描いたこの作品が、横浜という地で上演されることにも、さまざまな意味が入り込むことになるのだと思っています。首都圏の方にも、そしてもちろん沖縄の方にも、ご観劇いただきたいです。ぜひ劇場へお越しください。

KAAT神奈川芸術劇場プロデュース『ライカムで待っとく』
日時 2022年11月27日(日)〜12月4日(日)
会場 KAAT神奈川芸術劇場 中スタジオ
兼島拓也
演出 田中麻衣子
出演 亀田佳明 前田一世 南里双六 蔵下穂波 小川ゲン 神田青 魏涼子 あめくみちこ
HP 『ライカムで待っとく』公式ページ(KAAT)

KAAT(神奈川芸術劇場)にて、新作をつくることになりました!

【情報解禁!】
KAAT神奈川芸術劇場の2022年度メインシーズンのプログラムに、兼島拓也の参加が決定しました!
演出家の田中麻衣子さんとタッグを組んで、新作づくりに取り組みます。
沖縄本土復帰50年の節目の年に、沖縄の人間として何を提示できるのか。
ぜひご期待ください!!

【2022年度<メインシーズン『忘』>】
KAAT神奈川芸術劇場プロデュース
「新作」(タイトル未定)
11月下旬-12月上旬予定<中スタジオ> 
沖縄本土復帰50年。沖縄で生まれ育ち、現在も沖縄で活動する兼島拓也が送る沖縄からのリアルなメッセージ。
作:兼島拓也
演出:田中麻衣子

KAAT公式サイト

『ミラクルシティコザ』の感想を書きます。

『ミラクルシティコザ』、映画館で観てきた。
コザの街が大きなスクリーンに映し出された瞬間はなんともいえない感慨を抱いた。
よく県外での紹介のされ方にコザ=沖縄市みたいなのがあるけど、ローカルな感覚で言えば沖縄市とコザは必ずしもイコールではないし、わたしは沖縄市出身だけどコザ出身ではない。
と書くと地理的に詳しくない人は混乱してしまうかもしれないけど、ざっくり言うと沖縄市とはコザ市と美里村が合併してできた自治体で、わたしは美里村側の人間なのです。
だからなんだというわけですが、わたしはコザの街自体にアイデンティティやノスタルジーはあまり抱いていないと自覚していたにも関わらず、コザの街が映しだれたその映像に否応なく昂ってしまったのであります。

というわけで映画の感想を記すが、前もって断っておけば、わたしはこの映画はどちらかというと苦手だと感じたし、だからこれから書くこともその大半は批判的な内容になると思う。
批判なら書かない方が自分の立場的にもいいのだけど、でも書かなきゃいけないなにかがこの映画にはあるような気がしている。どういう構成にするか迷ったが、前半である程度否定的な意見を書き、後半に良かったと思う点を記す。
あと、ネタバレを多分に含んでいるので、このテキストを読む人が果たしているのかどうかは甚だ疑問だが、とりあえずそのことも断っておく。

まず映画がはじまった瞬間に、わたしは「嫌な予感」を抱いた。
この映画は「未完成映画予告編大賞」の第3回グランプリを獲得したことで製作されたものらしい。そして同賞の「堤幸彦賞」を受賞したのだという。それらが上映前にクレジットされたのだけど、その瞬間、具体的には「堤幸彦」という文字を見た瞬間にギクッとしてしまったのです。
正直に言うとわたしは堤作品が苦手で、もしやこの作品もそのテイストが、、、などと思ってしまったのです。そしてその嫌な予感がある程度的中した。効果音の付け方、唐突な前衛っぽさ、強引な「泣かせ」、なんか堤幸彦イズムを随所に感じてしまった。こればっかりはどうしようもないというか、ごめん、俺はちょっと、、、っていう感じ。すみません。

以下、劇中で解せなかった点を列挙します(記憶を頼りに)。

・ライブハウスの外でのシーン。アシバーの男とマーミー、ハルが対峙するところ。
アシバーの男は無秩序に銃を発砲し、おそらく客引きをしていただろう娼婦の女性が一人殺されてしまう。
だがそこにいるたくさんの人たちは、驚くどころか女性を気にすることも逃げ出すこともしない。ただ立ち尽くしてぼんやり様子を見ている。
それほど「諦め」があの当時には蔓延していた、ということの表現なのだろうか? だとしても、あの女性の顛末は不憫でならない。ただ殺された人。
後から駆けつけたバンドメンバーも、その女性に一切注意を払わない。誰一人として彼女のことを気にしない。
物語上関係のない人物だからといってああいう処理の仕方をすることはどうなんだろうか。

・マーミーって結局逮捕されたの? 犯行後ハルと逃げた後、なんか意味深っぽいダンスシーン(あれダンス? なんの舞?)をした後で、警察に逮捕されるシーンは描かれなかった。
ていうか、普通にいたよね、たとえばビリーの戦死がナレーションで伝えられるシーン。あの屋上で。マーミーいたよね?
いつ逮捕されたの? そこはっきりしないから、後半でのマーミーの息子(翔太の父親)が手紙を見て真実を知るシーンもなんかボヤけてしまう。
わかるんだけどさ、ああ、逮捕されたんだなって。でもそこ描かないとあそこ弱くなんない?

・ビリーが日本語ペラペラだった件、あれ何? なんで最初は英語でしか話さなかったの? 理由がわかんない。あそこで唐突に日本語で話したのもわかんない。何を狙っていたのか。
たぶん「自分はアメリカ人でも日本人でも沖縄人でもない」っていうことを語らせたかったからだと思うんだけど、それだったら最初から日本語も英語も流暢に使いこなす陽気なビリーって感じで描いてた方が、それでもそのどれにもなれなかったビリー、、、って感じで効果はあったんじゃなかろうか。

・マー坊の妹が実は米兵に殺されていたという設定。
マー坊がアメリカーを嫌っているっていうのは描かれてたけど、たとえばときどき首元のリボンを無意識に触ってるとか、そういうの描いとけばあの告白もポッと出には感じなかったんじゃなかろうかな。
なんかアシバーのシーンで女性を意味もなく殺してるシーンを通過してるからか、ここでも女性の死を物語の盛り上げに利用しているようにも感じられたんだよね。まあ、それくらい理不尽で怒りのおさまらない事件が実際に起きていたことは事実なんだけど。

・コザ暴動が起きる直前、夕暮れ前の川辺かどこかで、ハル(になった翔太)が一人たそがれている。そこに、ウィッグとサングラスを外した辺土名さんがやってきて、励ましとも言えない無駄話をしている。そこに、平良さんがオープンカーでやってきて「街が大変なってるぜ」と告げる。
ここ!
これってこの後の「コザ暴動」に入っていくシーンなんだけど、まず、コザ暴動って深夜に起きたことだよね。なんで日が沈む前に発生していることになっているの?
それに平良さんはなんであんなに悠長なの? あの余裕の構えで迎えに来たんだったら、その後のシーンで、つまり暴動の最中で焦燥感に駆られた演技との釣り合いが取れないよね。あの騒動の中で感情が混乱しているっていう解釈は可能だけど。

と、苦言をくどくどと並べ立てているけど、良かったところも大いにあった。
まずは役者さんの演技。言葉づかいも自然だし、県内の役者さんたちが生き生きと躍動しているなというのは感じた。
たぶん監督さんは、役者さんを生き生き演技させる力量が秀でているんだろう。個性を活かしているというか。たとえばカフェやバーで駄弁ってるときの自然な空気感、安心感。
なんとなくだけど、ストーリーとしての起伏があまりないようなもののほうが向いているんじゃないだろうか。あの楽しげな感じって、たとえばクドカンのドラマだとああいう拠点みたいなところでの掛け合いが面白いんだけど、ああいうのを感じた。
いままでの沖縄を描いた作品と比べてみても、会話の自然さや面白さはトップクラスなんじゃないか。監督のつくるシットコム的なものを是非見てみたいなと思った。

印象に残った役者さんは多いが、桐谷健太さんはまずもう、「俺たちの桐谷健太だ!」って感じでサイコーだったし、やっぱり役者として華があるなって思った。
その桐谷健太と入れ替わる翔太役の津波⻯⽃さんは、ペナルティーのワッキーみたいな奇怪なダンスも上手かったけど、演技も良かった。関係ないけどマーミーのダンスがあのワッキーダンス(「ごきげんダンス」だっけ?)だったら俺は死ぬほど爆笑してこの映画大好きになってたと思う。雰囲気ぶち壊しだけどこれこそロックだ!
閑話休題。
あと過去シーンでのインパクトのバンドメンバーはみんな良かったな。あそこを演技力がありかつ若くてエネルギッシュな県出身の俳優で固めたっていうのが、過去シーンを瑞々しく見せていた大きな理由だろうなと思う。
脇を達者な俳優やユニークな芸人さんらで固めたのも良かった。ベンビーさん、すごいうまいなぁ。シリアスな演技とかももっと見てみたいと思った。
コザ暴動のシーンに登場したOZEの新垣さん。あの迫力はやばかった。登場シーン少ないけど、存在感は凄まじかった。
それから喜舎場泉さん。じいちゃんが乗り移った翔太に呼び捨てにされ「ターがシージャーか?」と捲し立てるところはめっちゃ笑った。
あと、ちょっと名前わかんないんだけど、過去シーンで平良さんにピックを選んでもらえなかった方の女性。ハルに「お前なんかハブに噛まれてしまえ」というところ、あそこは笑った。なんだろう、言い方とか間とか表情とか、めっちゃ好き。

よかったといえば、やはり音楽。音楽は素晴らしかった。もっとガンガン使ってもよかったと思うくらい。
ミュージックタウンで歌った最後のORANGE RANGEの曲以外は全部良かった。最後のだけ、「あれ? 俺たちのロックンロールは?」みたいな感じになっちゃったから、あの曲じゃなくて良かったんじゃないか。
そもそも物語の設定だとインパクトのメンバーが作曲したことになってるから、「それであの曲?」ってなっちゃうんじゃないか。そこがもったいなかったな。
でも全般的に音楽は素晴らしかった。ラストの紫が登場するところ、フルで聴きたいって思うほどカッコよかった。あんなにカッコよかったんだって、知らなかった。すんません、舐めてました。

『創造と狂気の歴史|プラトンからドゥルーズまで』(内容まとめ)


おもしろかったので、本の内容をまとめます。
精神科医である松本卓也さんの『創造と狂気の歴史』、副題は「プラトンからドゥルーズまで」。
一応、クリエイターの端くれとして細々と活動しているわたしですので、なにかしらヒントがあればいいなと。
でもそれよりも、松本さんはラカニアンでありながらドゥルージアンでもあり、最近はドゥルーズと自閉症スペクトラム(ASD)を結びつけて語るような活動をいろいろやっていて、それがめっちゃおもしろいので、だからこの本の最終章のドゥルーズの章を読みたくて買ったんです。

まあ端的にいうと、テーマは狂気(クレイジー)と創造(クリエイティヴ)の関係性が歴史的にどう捉えられてきたか、というものです。

古くは「神懸かり」とか「悪霊憑き」とかそういった人を「クリエイティヴ」と捉えていたのが、デカルト、カント、ヘーゲルあたりで人間が「近代的主体」となって、理性的な存在となって、狂気的なものは排除されます。
しかし排除されたはずの狂気は、理性的である近代的主体の「内部」に回帰する。そしてその内部に閉じ込めた狂気を発現させる人たちが出てきます。それが、統合失調症(分裂病)者でした。近代になって登場した統合失調症という病は、最終的にはそれを患うものの理性の解体に向かわせ、その引き換えに「真理」や「表象不可能なもの」を取り出すことができるのだとされました。

そんな統合失調症の最初期の病者で、かつ傑出した詩人でもあったのがヘルダーリン(ヘーゲルの親友)です。彼の作品および狂気性を批評した哲学者ハイデガーの論(「詩の否定神学」)が大きな影響力を持ち、ラカンやフーコーらフランスの思想家たちによって語られていきました。
その過程で、ヘルダーリンおよび統合失調症者の狂気=創造性が連れてくる「真理」や「深さ」が重要視されるようになり芸術作品と病との関係について研究する病跡学の分野において、「統合失調症中心主義」とでもいうべき特権化がなされるようになりました。そしてそれは統合失調症者を、狂気に落ち込むなかで真理を取り出す悲劇的な創造者として位置付けました(「悲劇主義的パラダイム」)。

その「統合失調症中心主義」と「悲劇主義的パラダイム」から逃れるように、狂気と創造との関係を考えていったのが、ドゥルーズでした。ドゥルーズは、ルイス・キャロルやレーモン・ルーセル、ルイス・ウルフソンなどの、言葉の表面的な使用にどこまでも興じようとする作家たちを重要視しました。統合失調症者が命を賭してまで取り出そうとする「深さ」とは裏腹に、キャロルらの作品はダジャレやアナグラムなどの言葉遊びから成る表面的で「浅い」ものでした。でもドゥルーズはその「浅さ」こそを評価したのです。

彼らは「言語の内部で一種の外国語を形成する」ようにして作品を書きました。すなわちすでにある既存の凡庸な言葉を神的な力を借りて外側から解体しようとするのではなく、むしろ既存の言葉をその内側からハッキングすることによって転覆させようとしました。
言語をハッキングすること、つまり言語をその慣習的な轍の外へ引きずり出すことが、現代において言語そのものを狂気させようという試みなのでした。
キャロル、ルーセル、ウルフソンらは、当時は統合失調症者としてみられていましたが、その特性等をみるに、いまでいう自閉症スペクトラム(ASD)だっただろうといわれています。実際に、現在いわれているASDの特性と彼らの作品内容との関連は多くみられます。

統合失調症が特権化されてきたのは、その存在が、あるいは患者のなかにある狂気が、絶対的な「他者」だと見なされたからです。翻って、ASDは、端的にいうと「他者」が存在しないのです。彼らは、予測不可能性や不確定性を避け、未知なものが存在しない計量的な世界に立てこもり「他者」を回避しようとする構造をもっています。

生まれ落ちたときから、一方的かつ強制的に与えられ、覚え込まされ、自分のあらゆる欲求をその言葉で表現するよう強いられる支配的な言語=母国語への参入をASD者は拒絶します。その母国語をハッキングしようと企てたのがキャロルたちのような作家でした。
彼らの作品は徹底的に表面的で浅いが、その表面上の言葉の操作にただただ依拠し続けることで、「他者」に侵入されることなしに深層とかかわることを可能にする“かもしれない”。そうドゥルーズは考えました。あくまでも“かもしれない”という偶然的なものですが、ドゥルーズはその偶然性に、創造の発展を賭けたのでした。

現代では、統合失調症自体が軽症化し、医学の進歩によって治癒や改善がなされる病となりました。それに伴い、病跡学における統合失調症中心主義もその遠心力を失いつつあります。そのような時代の流れのなかで、創造と狂気の関係性はどのように変化していくのか。
松本さんは、その可能性のひとつとしてASDの研究があるのではないか、と考えたのです。

わたしは昨年上演した作品について、ほとんど毎回わたしの作品を観劇してくれている友人から、「自閉っぽい」という言葉をもらいました。あのときは特にピンときてなかったのですが、この本を読み終えてみて、なんとなく腑に落ちた感じがしました。
べつにわたしは「狂気の作家」ではないし、徹底した言語使用に興じられるほどの忍耐力もありませんが、俗っぽいものを書く作家だと思っています。なので、もっともっと俗っぽく。そんなことを、この本を読み終えた今、思っているのでした。

自分とは「物語」であり、作品とは「他者」である。

わたしは普段、ソーシャルワークの仕事をしているのだが、ソーシャルワークの領域の中に『ナラティヴ・アプローチ』という、ジャンルというか、方法というか、考え方というか、まあそういったものがある。

最近いろんなきっかけが重なって、ナラティヴ・アプローチについていろいろと勉強している。大学時代や卒業後にも表面的には学んでいたが、専門書を何冊も読む中でいろいろ整理されたり発見もあったり、すごく面白い。

ナラティヴとは「物語」とか「語り」という意味で、「ナラティヴ・アプローチ」はその前提として、自分自身が生きている「世界/現実」は物語として成立している、というふうに捉える。

わたしたちは、生まれてから今まで、いろんな出来事、いろんな経験を経て、現在この場所に立っている(正確にはソファに横たわっている)。
その出来事のほとんどは、わたし自身にとって「どうでもいいこと」である。
小学4年生の夏の日の朝に一番最初に見かけた車のカラーなんて、いちいち覚えてない。というか、そんなものはほとんど気にも留めていない。
でも、そんな「どうでもいいこと」から逸脱した、自分にとって重要な出来事というのが存在する。
自分がこういう行為をしたことで、こんな結果を引き起こした。それによって、自分の人生がこうなった。とか。
いくつかの要素を拾い上げ、それらを並べることで、「意味」が発生する。それはつまり「物語」になるということである。

「変な男ばかりを好きになってしまう」という経験を何度も繰り返すことで、「男は信用ならない」という「現実」を構成する人がいるかもしれないが、一方では「私ってダメ男をほっとけないのよね」となる人もいるかもしれない。
どのように物語化するかは、その人のクセというかフレームというかによるが、そのクセ自体がナラティヴで構成されているのです。
このようにして、わたしにとっての「現実」は発生し、強化されていく。

んで、わたし自身もまた「物語」である。自分で自分を捉えるとき、あるいは語るとき、かならず「物語」の形式となる。そのようにして「まとまり」をつくらなければ、語ることなんてできない。
そうしなきゃ、自分という存在の意味が拡散して、崩壊してしまう。
だから、わたし=「セルフ・ナラティヴ」なのである。

わたし自身が物語であるなら、わたしが作品を書くという行為は、物語が物語を生み出しているというふうに捉えることができる。
そして、わたしが書いている物語は、わたしから生まれた物語であるが、わたしという物語とはだんだんと別物に変わっていく。
設定も状況も展開も、わたし自身という物語とは離れた物語であり、それはつまり、わたしにとって「他者」である。

つまり、わたしが書いているのは「他者」ということになる。
しかし、他者を創造するという行為は、わたしの思うように他者を操作するということである。
それって、他者を冒涜する行為なのではないか。

他者とは、わたしとは異なる空間と時間を生きてきた、異なる物語を生きてきた存在である。
他者に人格性があれば、他者を操作しようなんていう傲慢なことはわたしにはできない。
じゃあ、人格のない他者、つまり作品であれば、操作してもいいのか。
・・・うーん、わかんない。まあ、どっちでもいいのかもしれない。

でもいまのわたしは、人格性のない他者=作品を、他者として尊重したいと思うようになっている。
「キャラクターが勝手に動き出す」って、つまり他者と戯れているっていうことなんじゃないか、とか思っている。
作品=他者が、自身がナラティヴとして構成されていくのに携わる、というような劇作家としての在り方を探っていきたいと思っている。

ナラティヴ・アプローチでは、他者同士であるクライエントと支援者が、共同で問題に取り組む関係を「支援」というふうに捉える。
それと近い感じで、作品をつくっていけたら、作品それ自体と一緒に作品を「共同執筆」していけたらいいな。
なんて書いているが、それが具体的にどんな方法によってかだなんて、これっぽっちもわかっちゃいないが。

『ピカッと』上演します。

さて。
大変なことになった。
いよいよ具合が悪くなってきた。

性懲りも無く、いまだに演劇をつづけてしまっている。
それはまあいいのだけど、まさか、こんな感じで「ちゃんと」演劇をやらないといけなくなるなんて、、、

これまでも子ども向けだったり社会的な作品だったりを作ってきたりはしたけども、今回はちょっと、それらとは違う感じの「ちゃんと」だったりする。

背伸びはしない、欠伸はする、がモットーだったはずのワレワレチョコ泥棒&玉どろぼう。あるいはそんなモットーなんてなかったかもしれないが、でもどっちにしろやりたいときにやりたいことをやりたいやつらで作りつづけてきたわけですねこれまで。
でもね、今回ばかりはそうは言ってられない。だってね、ぼくももう30歳になったから、いろいろとわかるわけです。あ、これはちゃんとやんなきゃいけないやつだ、って。

と、ここまで要領を得ない言葉を云々カンヌンこぼし続けてきたわけですが、要はわたしが何を言いたいかと言いますと。
外部の団体に脚本を提供しました。
言い方変えますと、僕の作った演劇が、他団体により上演されます。
しかも、僕が演出まですることになりました。

どうかしてます。こんな野郎に好き好んでそんなことを打診してくるなんて。ヤベー団体です。怪しいです。
そのヤベー団体とは、Theater TEN Company さんです。
主宰者はじめ全員がヤベー奴らです。

そんなヤベー奴らに対して、常識人のわたしが演出をつけています。あらまあ、なんて忌々しい光景!
いそいそと上演に向けて進めておりますのが、昨年度おきなわ文学賞の佳作を受賞した『ピカッと』という作品であります。
ちなみに、同じ年に『フォークロア』という作品で県知事賞(一席)も受賞しているのですが、そっちの作品じゃなくて、こっちです。「じゃない方」です。
ですが、こっちのほうは悪ノリで書き進めたものですので、ヤベー団体の Theater TEN Company さんとは相性もいいのでせう、さふでせう。

あらすじ知りたい方は、下の方に記載あるのでそっち読めばいいじゃん。って思ってます。
なげやりに聞こえるかもしれませんが、でも観にきて欲しい気持ちは海よりも深く山よりも高く空を突き抜け宇宙まで届きワームホールを通りインターステラーのマットデーモンくらいの人間的小ささに帰結しながらも、その力強さは保ち続けています。
書いているうちに何の話をしているのかわからなくなってしまったのですが、というより意図的にそうしてはいるのですが、まあとにかく、7月21日から本番始まるもんで、チケット買ってくださいな。
よろしくな。
おめーに言ってんだかんな!!

Theater TEN Company No.30(+23)
『ピカッと』
作/演出 : 兼島拓也

★日時
2019年7月21日(日)13:00
22日(月)14:00/19:30
23日(火)19:30
24日(水)14:00/19:30
25日(木)休演日
26日(金)14:00/19:30
27日(土)13:00/18:00
※開場は開演の30分前です。
※上演時間は1時間15分を予定しています。

★場所
Theater TEN
(那覇市安里388-52-3階)
【モノレール安里駅向かい、沖銀大道支店隣、栄町りうぼう近く】
※駐車場がありません。有料駐車場・公共交通機関をご利用ください。

★観劇料
2000円

★プレイガイド
・リウボウプレイガイド
(098-867-1171)

★インターネットオンライン予約

https://www.quartet-online.net/ticket/no30pikatto

★作家プロフィール
兼島拓也(チョコ泥棒/玉どろぼう)
劇作家。大学卒業後、「チョコ泥棒」を結成。主に沖縄市で作品を発表する。その傍ら、組踊実演家の玉城匠とのユニット「玉どろぼう」の活動を開始。
創作した戯曲が「おきなわ文学賞」を計3度受賞。
今回上演する『ピカッと』は、佳作受賞作品。審査員から「マトリョーシカのような劇中劇や、現実と虚構の交錯など、複雑な構成だが読み物としては既に面白い」との評を受ける。

★あらすじ
自分の頭の中のイメージを、相手に植え付けることができたら、とてもステキだと思いませんか?この『ピカッと』を使えば、あなたの脳内が周囲のひとの頭のなかに「印刷」され、あなたにとって理想的で快適な世界をつくることができます。
これで世界もあなたのもの。『ピカッと』で、世界の主人公になりませんか?

★キャスト
大山瑠紗(Theater TEN Company)
玉那覇真樹(Theater TEN Company)
知花錦(Theater TEN Company)
桃原和希(Theater TEN Company)
城間裕太(演芸集団FEC)
垣花拓俊(フリー)
新里優奈(フリー)
あったゆういち(キャラOKINAWA)
田原雅之(Theater TEN Company)

★スタッフ
作/演出 : 兼島拓也
舞台美術 : Theater TEN Company
音響・照明:Theater TEN Company
衣裳 : Theater TEN Company
チラシデザイン:長谷川まさし(Elkroi designs)
監修:田原雅之
制作 : 玉那覇 真樹

★お問い合わせ
Theater TEN Company
〒902-0067
那覇市安里388-52-7階

TEL:080-6910-7723(玉那覇)
Mail:gekidan10ttc@gmail.com
Facebook:https://m.facebook.com/GekidanTTC
twitter:@GekidanTTC
Instagram:@gekidanttc


おきなわ文学賞、受賞スピーチ全文


【おきなわ文学賞授賞式にて。何故か裸足の姪っ子とツーショット。】

2019年2月17日(日)、第14回おきなわ文学賞の表彰式がありました。
わたくし、シナリオ・戯曲部門にて一席(沖縄県知事賞)および佳作を受賞しまして、受賞者を代表してスピーチを偉そうにしてまいりました。
複数名から、「スピーチを聞かせろ!」と強要がありましたので、全文をここに掲載します(音声はありません)。

*   *   *   *   *

この度、シナリオ・戯曲部門一席を受賞しました、兼島拓也と申します。
今回、図々しくも2作品を出品しまして、一つは県知事賞、ひとつは佳作と、2作とも同時に受賞することができました。
このような結果を得ることができて、非常に嬉しい気持ちです。選んでいただき、誠にありがとうございます。

ホームページに掲載されていた審査員の富田めぐみさんの講評に、こういう言葉がありました。
「メタファーに富んだ物語だからこそ伝えられる現実がある、刺さる問いかけがある」。
僕ら書き手は、メタファーという武器を手に、フィクションを作り出します。

沖縄の人間が沖縄について物語るとき、「基地」というテーマから自由になることはできません。否が応でも、その影に追われています。
しかしそこには、複雑な立場があり、相対する意見があり、それを語るのは非常に困難なものです。
だからこそ、わたしたちは「メタファー」を用いて、問題のコアな部分に迫ろうとします。「現実」を描き出そうと、フィクションを作るのです。
そうやって作り上げたのが、今回受賞した作品です。

しかし、とはいえ、このようにして作られたフィクションには、どのような意味や役目があるのでしょうか。
作り手はこのことに、良くも悪くも向き合わなければなりません。

いまわたしたちの目の前にあって、わたしたちの認識をかたちづくっている「現実」、あるいは「世界」、そういったものに「裂け目」を入れるのが、フィクションの役目だと思っています。
その裂け目から、それまでとは異なる相貌の「現実」や「世界」が顔を出し、読者や観客がそれらと対峙することを、フィクションは要求します。
それはある意味では暴力的なことでもあり、そのことを常に自覚しながら、これからもフィクションを作っていきたいと思います。

今月24日には、辺野古新基地建設についての県民投票があります。その結果によってこれまでの沖縄の物語が書き換えられるのか、それともこれまでの物語が強化されるだけになるのか、僕にはわかりません。
でも、物語を自分たちの手で書き上げる力を、そのポテンシャルを、沖縄の人間は持っているんだということを、僕は信じています。

ときどきわたしたちを呑み込もうとする「現実」や「世界」に、メタファーやフィクションを武器に立ち向かうこと。今回の受賞は、そのことを決心させてくれました。この賞に恥じぬよう、これからも活動していく想いでいます。
最後に、あらためて、今回の受賞心から光栄に思っております。本当にありがとうございました。

ラップ、ままごと、じいちゃんばあちゃん

宜野湾市のカフェ・ユニゾンにて、先日とあるイベントに参加して来ました。っていうとなんか出演したっぽい書き方ですが、そうじゃなくて、ただ単に飯食って酒飲んでトークやライブを聴いたってだけなんですが。
そのイベントは、『鶴と亀』という、じいちゃんばあちゃんの可愛らしくユーモラスな肖像写真を収めたフリーペーパーを製作しているカメラマン・編集者の小林直博さんと、沖縄県内で活動するラップユニットMCウクダダとMC i know さんのトーク&音楽ライブ。
小林さんが撮影した写真をプロジェクターで投影しながら、その写真にまつわる話をして、それにウクダダi knowが質問したり茶々を入れたり、そうやってトークが展開されていく。その写真と裏側のエピソードがすごく面白くて、なんて楽しい時間だったのでしょう。
『鶴と亀』の写真に入り込んでいるのは、被写体の老人だけではない。彼・彼女の生活のなかにある、細やかなディティール、取るに足らないストーリー。それらをまるごと写し取ったのがあの写真なのだ。それは、鑑賞者が見ているだけではわからない、教えてもらわなきゃわからない。だから撮影者がトリヴィアルなエピーソードを語ってくれる機会はとても貴重だ。

『鶴と亀』自体は、長野県の奥信濃で撮影・製作されているのらしいけど、全国いろんなところに置いてあるらしい。小林さん、せっかくなのでと沖縄のじいちゃんばあちゃんたちを撮影してそれもスライドで流してたのだけど、それもまた可笑しかった。長野のご老人とはまたちょっと違うのだって。ただ、総じて沖縄のじいちゃんばあちゃん(に限らず多くの人)はシャイなのだとか。
そのトークのなかで、印象に残った話があった。それはウクダダi know両者の祖父母について話していた時のこと。
ウクダダさんの祖父母は父方母方ともに健在らしく、父方の祖父母は95歳くらい、母方の方は85歳くらい、とのことだった。そして彼女は「当たり前だけど」と前置きをしつつ、でもそれでいて強い語調で言った。「80代のじいちゃんばあちゃんと90代のじいちゃんばあちゃんは、全然違う!」。そこで会場に笑いが起きたのだけど、ウクダダさんは構わず続ける。「10代と20代じゃ全然違うみたいに、80代と90代じゃ全然違う!」
「おじいちゃん・おばあちゃん」と括ることで、ひとつの枠の中にギューっと押し込めてしまう、そんなふうに見方を規定してしまう力が「おじいちゃん・おばあちゃん」という言葉にはある。というか言葉のそもそもの本質が視点の規定なのだけど。
「時間」は若者だけの専有物ではない。この当たり前のことを、わたしたちはときどき忘れそうになる。「老人」という言葉で括って、そのカテゴリーに入った人たちにはあたかも時間が存在していないような感覚に無意識のうちになっちゃってないか、ってわたしはものすごく心がざわついた。
ウクダダさんの言葉を聴いたとき、わたしは思い出したことがあった。ドキュメント72時間という番組で、バラック飲み屋街「塙山キャバレー」を取り上げていた回。75歳くらいのスナックのママが、別の店舗の85歳くらいのママに相談をしているシーン。若い方のママが「わたし、この仕事向いてないと思うんです。人と話すのが苦手で」と悩みを吐露し、先輩ママは「もうちょっとだけ、頑張ってみようよ」と返していた。このシーンにわたしはなぜかとても感銘を受けていたのでした。
そのフラッシュバックがザワつくわたしのこころにさらに覆いかぶさって来たのでした。
当たり前のことですが、ひとはいくつになっても、生きているのです。
それを日常の中で感じている彼女たちの視線や感性に、わたしは感服したのでした。
その視線って、彼女たちがラッパーだから持ち得たものなのだろうか。ふと、そんなことを思った。でも正直わかんないけど。人それぞれだろうし。
ただ、彼女たちはどうしてラッパーになろうと思ったのかな、というふうなことも思った。

ラッパーという存在って、生活の「リアル」を演じる「アクター」の要素もある。そのリアルをリリックとして立ち上げる「作家」でもある。要するに「自作自演家」である。
彼女たちにとっての「リアル」は、ヒップホップの初期形態としてあるような、窮屈で貧しく阻害され不可視化された者たちの「カウンター」や「ポリティクス」なものとは遠くにあって、ある程度成熟した社会で取り立てて不自由を感じていない生活者としての視点から作られ、演じられている。
さて、そうなると、彼女たちにとっての表現欲求はどこから発生してくるのだろうか。切実な、魂の叫び的な、これを言わなきゃ伝えなきゃ、というような事柄って果たして生まれてくるものなのだろうか(事実、後ほど述べるままごとという劇団の作品『ツアー』の終演後のアフタートークの中で、「崇高なメッセージみたいなものは特にない(*個人的要約&解釈)」(i know)と述べていた)。
ここから先は、わたしの想像。たぶん彼女たちにとって、音楽やラップというものはそれほどスペシャルなものではない。リアルを表現するものではなく、生活の中に溶け込んでいるものである。つまりリアルそのものである。美味しいご飯を食べたり友人とおしゃべりをしたりバラエティ番組を見て笑ったりするようなものと並行して音楽(ラップ)がある。だから、彼女たちにとってのラップという表現形式って、リアルなものではあっても自身のコア(アイデンティティ)とはそれほど結びついてはいないんじゃないか。重ねて言うと、別にラップじゃなくたっていいんじゃないか。
だからこそ、パッションやエモーションなどが湧出するような詩的あるいは感情的な部分へのこだわりはそれほどなくて、もっと物理的な部分での「遊び」を重視している。んじゃないかと感じる。これは、ハンドルとかの「遊び」でもあるから「ユルさ」とも言えるかも。その「遊び」=「ユルさ」のほうこそが彼女たちをアイデンティファイしている。だってさ、ライブ中に「今日ナンパされた〜」「え、どこで? ちょっと待ってどうゆうことそれ聞いてないんだけど」「なんで怒ってんの?」「いや怒ってるとかじゃなくて詳しく聞きたい、えまじ、どこで?」「国際通り」「は〜まじ? え、誰に?」「え、外国人」「外国人か〜」とかって話をはじめましたからね。後ろでDJが曲流してるのにこのおしゃべり全然おわらなくて「いまライブ中だよね?」とかって痺れを切らして注意しちゃってましたからねDJさん。曲の途中でビール注文しに行っちゃうし、寝っ転がってビールを飲み始めちゃうし。むしろ「遊び」しかない。いいな〜。


(いちおうコレ、ライブ中ですよ)

さて、このMCウクダダとMC i know を知ったのは、ままごとという劇団の公演だった。『ツアー』という作品の沖縄公演最終日でのアフタートークに、ふたりが出演していたのだった。
ままごとといえば、岸田國士戯曲賞を受賞した『わが星』などは、ほぼ全編がラップでできている。地球が生まれてから消滅するまでを、一人の少女が生まれて死ぬまでと重ね合わせて描いた作品だが、台詞や音の使い方などを取っても、ラップあるいはヒップホップへのリスペクトが見える。だからなのでしょーか、アフタートークがこの人選になったのは。
全編ラップの台詞で演劇をつくるなんて、これ「遊び」以外のなにものでもないでしょ、とわたしは思ってる。それは演劇の文脈から見ても、ラップの文脈から見ても。だって(わかんないけど、でも絶対に)「構造」が先にあるから。「台詞がラップになってる劇作ったら面白いんじゃね?」ってところから発想してこの作品はできてるはず。ままごとという劇団(あるいは柴幸男という劇作家)はおそらく、構造というかアーキテクチャというか、そういうものに萌えているはず。だからたぶん、柴さんはきっと工場とか好きだと思う。ジャンクションとかもきっと好きなはずだ。なぜなら、わたしがそういう「構造」が好きであってかつその部分の琴線に触れてままごとが好きになったから。そのはずだ。そうであってくれ。
さて、この『ツアー』という作品も、やはり「構造」が先にある。アフタートークで柴さんが語ったように、まずは時間から決めた。30分。っていうのも、ままごとではおなじみの口ロロの楽曲(「ツアー」)が30分で、この曲をまるまる使って演劇を作るから。流しっぱなしで曲の初めから終わりに合わせるように物語もはじまっておわる。その予定で作り始めた。らしい。だが、実際に上演時間に合わせてプロットあるいはストーリーを組み立てていく(必然的に時間が「飛ぶ」ことになる)プロセスの中で、曲の「流しっぱなし」ではなくなり、時間も45分に伸びた。でもそれをはじめにあった構造(30分&曲のフル使用)にギチギチに当てはめずに、伸びたもんは仕方ないよねーそだねーってルーズな感じで作ったことが逆に善き、なんて思うのですわたし。
ただ、もし昔のままごとだったら(って全然知り合いでもなんでもないから想像ですよ)、もうちょっとギチギチにしてたんじゃないかと思います。そう感じられたのは、『ツアー』上演の2日前に開催された、ままごと過去作品の上映会に行ったから。そこで上映されたのは2015年版の『わが星』(『朝がある』という作品もやってたけど間に合わなかった)。僕が観たことがあったのは2009年版の『わが星』。同じ作品なのだけど、2015年版のほうが「余白」が多かったように感じられたのです。先ほども書いたように『わが星』はラップの演劇です。もうちょっと詳しくいうとラップミュージカルです。口ロロの「00:00:00」という楽曲と時報に合わせて台詞が話されるのですが、その台詞は音に合わせて嵌められていきます。その台詞が2009年版はガチガチに詰め込まれていたのですが、2015年版はちょっとルーズ。間を開けたりハイフンを入れたり(つまり言葉を伸ばしたり)、そんなふうに微妙にでも確実に変えられていた。ままごと=柴幸男は、よりルーズな、より「ユルさ」の方向へと生成変化をしていたのでした。
実際アフタートークの中で柴さんは、「演劇界に革命を起こす!みたいな熱意もかつてはあったように思うが、もうないですね」と身も蓋もないことを言っていた。「だからカフェみたいなことやってます」とか。
そしてこの『ツアー』に関しては、構造の組み立てとゆるやかな瓦解が作品のなかで同時に起こっている。作りながら壊す、壊しながら作る。構造の中で生まれた主人公の行動、感情、営み、それらが見せるあらゆる運動を、余裕を持って見つめる眼差し。『ツアー』という作品全体から、そんなようなものが想像されたのでした。移ろったり膨らんだりする登場人物たちの何か(感情なのか感覚なのか意識なのか関係なのか)に合わせて構造の方を設え直す。だからはじめにあった設計図と比べると、はみ出したり歪んだり、そのようなことが起こる。でも、このほうが暮らしやすいよねそだねー、ってのが今のままごとなのだ(ってだから想像だよ。昔からそうかもしれないし。でも知らないからこそ言えることもあるよねそだねー)。

さて、長いこと書いてしまいましたが、そろそろ終わります。
えっとつまりいいたいことは、誤解を与えるような言葉になるかもですが(どうせ読む人少ないからいいかな?)、ままごとは「老い」ている、ってことです。これは、否定的な意味ではないんです。「隙」ができてる。『鶴と亀』に登場するようなじいちゃんばあちゃんに近づきつつある、ということです。
歳を重ねると頑固になる、という一面もあることはあるのかもしれません(そういう言葉によってわたしたちがそういう見方に縛られている可能性もないことはない)。ただ、『鶴と亀』に登場する御老人たちの魅力は、隙、ツッコミどころ、ユルさ、それらが満載なところ。そこがすこぶるチャーミングなわけです。ままごとも、そのような「老い」方をしているんじゃないかなと思っとるのです。無論、30代中盤くらいだと思うのでまだまだお若いのだけど、劇団としてそのようにチャーミングな老い方をしていくのだと想像しているのです(勝手に)。

やるべきこと置いて映画館には行くが、それはべつにサボっているのではない。

忙しくなった。仕事の関係で。ちょっといま、アップアップだ。
忙しいのは、やっぱり嫌だ。なにが嫌かって、本が読めない。読みたい本、読まなきゃな本、いっぱいあるのに全然読めてないその事実にいちばんストレスが溜まってしまうのだ。
でもそれは、本を読むための時間がない、というわけではない。読もうと思えば、どうにか時間を捻出することは可能だ。終業後の夜の時間に読めばいいではないか。そう思うのだけど、読めないのだ。とりあえず本を開くのだが、活字を目で追うのに以前の3倍くらいの時間がかかる。そのうえ、頭に入っていないのかなんども反復しないと理解ができない。
とまあそんな感じなので、すぐに本を閉じてソファ(か布団)に寝転がってしまうのだ。そうして気づけば夜も更けてしまい、、、

でも、(映画館で)映画は観れる。(劇場で)演劇は観れる。それは、時間や場所が限定されているから。枠が決まっているから。ある程度の「不自由」さがあるゆえに、それらのカルチャーをわたしは忙しい現在でも摂取することができている。
時間が決まっているのであればテレビ番組もそうだが、「家」という空間の内部にいる場合は限りなく自由が保障されている。観れるけど、観なくたっていいのだ。でも劇場や映画館は、そこに入ったら嫌でもほぼ強制的に観なきゃいけない(寝る、という回避方法はあるけど)。
わたしはネットフリックスもアマゾンプライムにも加入している。おまけに「観劇三昧」という演劇の上演動画を配信するサービスにも課金している。これだけで毎月3000円近くの出費なんだけど、ほとんど観れていない。いつでも自由に且ついくらでも見放題というのがウリの配信サービスをまったく有効に利用できていない。とほほ。
そんな自分の行動というか傾向というかを顧みると、わたしという人間はほとほと「無限性」≒「自由」に不適合な存在であることを実感する。というかそもそも時間と空間によって構成された世界に肉体をもって参加しているのがわれわれ人間なわけで、その存在それ自体有限性から逃れられない運命なのだけど、こんな便利な社会になるとその「有限性」を超えられるという期待(錯覚)を抱いてしまう。
だからほんとうは、もともとできなかったことにあらためて「できない」と気付いただけのことなのかもしれない。

時間も場所も決められた有限な環境の中によってのみ、わたしは文化を摂取し、概念を学び、思索を試みることができる。その環境によって突きつけられたもので目の前の現実が異化され、半強制的に「考えさせられる」。となると、「考える」ってのは動詞ではなくて「現象」のようなものとして捉えた方がいいのかもしれない。
映画や演劇に限らず、たとえば学校という空間や先生という存在もその「現象」を引き起こさせる「有限」な環境の一要素なのだ。
ただ、社会の中で働くと、「学校」や「先生」とのスケジュールを調整するのがなかなかに難しい部分もでてくるので、だから、映画館や劇場にわたしは行く(べつに美術館とかでもいいのだけど、平日夜とか閉まってる)。
「考える」という現象を引き起こすために、映画館に行き、劇場に行き、席に着けばあとはその作品を浴びるだけでいい。半強制的で有限的な環境に身体そのものを移動させ、そこで流れる時間の中でオートマチックに「考える」が駆動するのだから、その流れに身を任せてしまえばいい。そして、そこに顕れる異化された現実により「考える」現象が発生し、その後の産物として「知りたい」という欲求が生じて「学び」がはじまる。「考える」だけではなく「学び」も、受動的な環境・状況から開始される。

だから。わたしが仕事をほっぽり出して映画館に行っているとは思わないでください。「考える」ため、あるいは「学ぶ」ためなのです。ものすごく意識の高い行いなのである。ということは、忙しい忙しい言いながらも仕事が全然進んでないやないかい!と痛みの強い指摘をするのはナンセンスなのである。わかりましたか?
と、ここまで言っておけば、誰もなにも言わないであろう。

何も言うなよ? いいな?

レミゼをはじめて観たよ、って話。

『レ・ミゼラブル』(ダヴィデ・ドーロ演出)

名前は知ってるけど観たことないものベスト10には入るんじゃなかろうかという作品、レ・ミゼラブル。通称「レミゼ」。
映画は観た気がするのだけど、正直あまり覚えていなかった。なので、知ってるけど観てない、にカウントしてください(誰が集計してるの?)。
この「レミゼ」が、今年のりっかりっか*フェスタで上演されていたわけです。それを観たお、というのが、いまからここに書くことだお。

さて、この「レミゼ」。本来はめっちゃ超大作なわけで。それを女性2人で、70分の時間で上演ってことでした。
って、それどーやってやんの?っていう話なわけで。そもそも。
この作品を演出したのは、ダヴィデ・ドーロさんというイタリア人の方(らしい)。よーやるな兄ちゃん。てな感じでよー。

パン1枚盗んだ罪で19年間投獄されたジャン・バルジャン。そのバルジャンを追う警官ジャベール。その他諸々の登場人物たち。ぜんぶ説明するべきでしょうか。ちょっと面倒臭い。もし必要だと思ったら後で追加で書き込みます(もしこの文章がそのまま掲載されていた場合は、「あー、あいつサボったなー」って思っていただいて結構です)。
ってさ、こうやって書いていますけども、このブロックだけですでに150字以上を費やしておりますけれども、あらすじや登場人物の詳細を書くかどうか迷ってますみたいなこと言って渋ってるくせに、本筋に一切関係のないどうでもいいことはここに吐露するみたいなことを延々やっているといういまのこの現状。
そういうとこやぞお前!って、わたしはワタシにツッコミを入れる。しゃんとせい!
でもね、そうは言いますけど、原作自体が長大な(以下略)。

というしつこい記述をどうかお許しください。でもね、ジャベールはそれ以上にしつこいんです。
しかも、こういう薄っぺらいしつこさじゃなくて、おもーーい上にしつこーーい。
うむ。どう書いても、重さが伝わらない。。。。

とにかく、悪を憎むジャベールは、パン1枚を盗んで投獄され出所後も軽犯罪を起こして逃亡しまくっているバルジャンを、執拗に、これはもう本当に病的に、狂ったように追いかけます。取り憑かれています。スーパーウルトラ厳格原理主義者です、彼。
19年ぶりに娑婆に出てきたバルジャンは、助けてくれた神父様から銀の皿などを盗み、街中の子どもの金を盗み、なーにやってんだよお前は!っていう、普通にダメなやつです。ほんと。
でも、この作品は、その「ダメ」な男を描くのです。
なぜ彼は「ダメ」になったのか。なぜ「ダメ」にならざるを得なかったのか。そこを直視しようとします。

それはやっぱり「貧困」だからです。あるいはそれから派生する「格差」。「貧困」が、彼から、生きていくうえでの選択肢を阻害したのです。
パンの1つもお金を払って買うことができない。失業によってそのような境遇に追い込まれてしまった人を、あなたは断罪できるのか、という問いがここで突きつけられます。

そして、ジャベールは怯まず断罪します。罪は罪だと。悪は悪だと。
このときに、観客のわたしたちは気付かされるのです。これほど執拗なまでに悪を裁こうとするジャベール自身が「なにか」を抱えているんじゃないかと。バルジャンを追いかけているジャベール自身が「なにか」に追われているんじゃないかと。
それを振り払いたくて、彼は「正義」に縋っている。「正義」を振りかざしている瞬間だけは、ジャベールは「なにか」から遠くにいられる。言い換えるなら、ジャベールは「なにか」によって、「正義」へと追いやられているのではないだろうか。
そういうふうに振り返ってみると、バルジャンだけではなくジャベールも、実は「逃亡者」であると見ることができる。

「レミゼ」で描かれる、フランス革命後の人々を映したこの作品を、演出のドーロはなぜ創作しようとしたのか。
「りっかりっか*フェスタ」での作品紹介のページにはこう記載があった(HP)。

人々の想いと願いが、時代を超えて私たちの心に訴えかける。必見の名作「レ・ミゼラブル」
2016年のフェスタで創作され、好評を博した作品。
ヴィクトル・ユーゴーの大作「レ・ミゼラブル」を、2人の俳優がオブジェクトシアターで綴る挑戦作。
権力や社会に抗い、生きることを諦めない人々の想い、愛、そして命を、独自の演出で描き出します。
「レ・ミゼラブル」の中に生きる生々しい人間たちの姿は、ダヴィデ・ドーロ(コンパーニア・ロディージオ/イタリア)の新たな解釈と演出により、現代を生きる観客の心に強く訴えかけることでしょう。

こういう紹介文があるなら最初の方で載せておけよ、と思った方。
ええ。あなたは正しい。
わたし自身も、冒頭の方(あらすじを書き渋っていたところ)を削ってここを書けばいいじゃん、なんて思ってる。
でも、そうはしないっていう。なぜか。うーん。だって、ちょっと面倒ですし。。。

閑話休題。

紹介文は、「現代を生きる観客の心に強く訴えかけることでしょう」と締めくくられる。
つまりこの作品は「現代」にむけて、「現代」を生きている私たちにむけて創作されたものだということだ。
ある意味、当然の話です。なんらかの必然性があるから、古典作品は現代においても上演されるわけです。

じゃあその「必然性」とやらは? そのひとつはさきほども出てきたように、「貧困」であることといえるのではないでしょうか。
「貧困」あるいは「格差」という問題は、現代になってもまだまだなくなっていません。
わたしたちの住む社会は、貧しさに喘ぐ人たちを、あたかも「『怠惰』という罪」を犯したかのように扱ってしまいます。
貧しいのは、働かないから、勉強をしないから、そこから抜け出す努力をしないから。そういって「自己責任」の一言でスパッと斬って、楽して暮らそうとする罪人、みたいなカテゴリーに押し込めてしまう。

たしかに、生活保護制度などで不正受給をする人がいるという問題も一部にはあるでしょう。
でも、決して生活保護世帯がみんなそういうわけじゃない。というより、そういう人はほんの一握りなわけでして。
貧困世帯が「抜け出す努力」をしてないわけじゃなくて、そもそも「抜け出す努力」の前に食べるのに必死なわけです。
今日を生き延びるために目の前の「パン1枚」を手に入れることでいっぱいいっぱいなんです。
そういった構造的な問題を是正するのが社会にとっての重要課題であるわけで、その問題を個人にすべて丸投げするのは、社会の機能が弱体化しているといえます。

それともうひとつ、わたしたちの社会は貧困者に対して、「理想的な姿」を求めてしまいがちな気がします。
その姿というのは、清貧とでもいうべきか、必死に健気に一生懸命に脇目も振らずただただ頑張って目の前の生活に勤しむ、というような姿勢。
乱暴な言い方をすると、貧乏人は贅沢をするな、ということです。そんなふうに割に合わない消費をするから貧乏なのだ、という見方のことです。

自己責任を徹底し清貧なふるまいをする、そういう「自立的」で「自律的」な貧困者ってさ。。。そうなるのが構造的に排除されてるから貧困なんでしょ?なんてわたしなんかは思うのですがどうなんでしょう。
そういったことを少しずつ解消してくために社会の成員がどうふるまうか。そこでその社会の成熟度が問われるわけです。
金銭や食料に少し余裕のある人はなんらかの寄付をするかもしれないし、時間に余裕がある人は社会運動(デモ)などに参加するかもしれない。
いろいろな仕方で社会をよりよい方向に、より多くの人が生きやすい社会に変えていく働きかけができるはずです。
レミゼのなかでも、バルジャンに施しをする神父様や、デモを行う若者たちも登場します。社会成員のそのようなふるまいは、ずっと昔からあり続ける、あり続けるべき姿なのです。

ところで、わたしはいま理想論を述べています。ええ。お花畑だと言われるかもしれません。
でも、それを言う人がいないとダメだと思うんです。
演出家のドーロさんがやっているのも、ある意味で「お花畑」です。でも、それが大事なのです。
演劇でわざわざ「お花畑」をやる。そのことの意義を、わたしたちはもっと考えたほうがいい。

たしかに、その上演がどんな豊かなものであっても、貧困に喘ぐ人にとってはパン1枚のほうが重要です。その現実に演劇は打ち勝てません。
でも、さきほども述べたように、貧困などの構造的問題を是正するのは社会全体の課題であり、その「社会」に対する働きかけとして捉えるならば、演劇で「お花畑」をやる意義は大いにあります。

観客を劇場という「非日常」に誘い「お花畑」を上演するのは、観終わった後に「日常」に戻り「現実」に直面するためです。
一度劇場を潜って出てきた後で対峙する「日常」や「現実」は、それまでとは少し違って見えるようになります。その経験を、その感覚を、多くの人が抱き、「社会」の側が少しずつ変化していく。
今回の例でいえば、「貧困」や「格差」というものに対する見方が少しだけでも変化するかもしれない。
それが「お花畑」を上演する意義なのです。

では、今回のレミゼでは、どんな「お花畑」がつくられ、あるいはどのようにつくられていたのでしょうか。
今回のドーロ演出では、まず特徴的だったのは美術セット。舞台の中央に直径1.5メートルくらいの大きさで円状に黒い砂が盛られ、それ以外はなにもない。舞台後方に黒い布で覆われたなにかがあるのだけれど、はじめはそれがなんなのかは見えません。

物語が中盤を過ぎたあたりから、盛られた黒砂の意図が明らかになります。それまでは二人の女優が縦横無尽に駆け回りながら演じられていた舞台空間がぐっと縮小して、砂の上に小さな箱型の家や建物が置かれ、やがてそれがバルジャンが形成した街(工場を建て街が活性化し、その後市長となった)であることがわかります。
そのとき気付くのは、バルジャンのつくった街と上演されている空間(演出の意図/テーマ)とがシンクロしていること。どちらも自分たちの手で、自分たちの出来る範囲で、「お花畑をつくろう」という意志が示されているのだと思われます。次第にふたりの女優はその生身の身体ではなく、砂の上で人形を動かしながらセリフを発するようになる(=オブジェクトシアター)ことからも、そのことは言えるのではないでしょうか。

だから、まず自分たちで、自分たちの出来る範囲で生活を作っていく、という姿。それが「お花畑」のひとつです。
ただ、これは「自己責任」論とは別だと強く主張したい。限られた範囲の中でベターな方を選び取っていこうという意志であり、できるならば選択肢は多い方がいい。
問題は選択肢がはじめから限定されていることなので、選択肢を広げるための施策が社会の側に求められているのである。
いまの時代は世界的に見ても緊縮政策がすすめられる傾向があり、福祉は削がれそれによってますます貧困者の生活が苦しくなっている。格差はなくなるどころか広まり、固定化する。
だから、ハンドメイドな範囲で生活を向上させようとする個人の側だけではなく、それをサポートしたりエンパワメントするような人材や制度(社会)の形成が必須なのだ。

中央の黒砂のなかだけに縮小していくバルジャンたちのいる世界。これは緊縮化が進む世界情勢の比喩として読み取ることもできよう。
ただし、ドーロが空間全体を使って「緊縮」を描くのではなく舞台中央だけでそれを描いたのには、はっきり意味があるとわたしは思う。
これは反転させると、黒砂の外に空間(空白)があるということ、つまりわたしたち観客(社会)に、その空白の存在と可能性を示しているのではないか。
わたしたちがその空白に立ち入り、黒砂の中になんらかの働きかけを行うことができるのではないかということ。その黒砂の範囲を広げていく余地がこれほど大きくあるのだということ。
それができる潜在的な力を、観客(社会)は秘めている。はじめは砂に埋もれていた小道具たちが次第に存在感を増してくるのも、そのメタファーと捉えることができる。

黒砂を広げていく社会的・政治的なアクション、それは作品の中でも描かれる革命ともリンクしている。
それはイデオロギー対立での転覆ではなく、生活の向上を求めるものだ。
緊縮政策などのように、「政治」に生活が食いつぶされてはならない。それが、彼が描こうとしたことだったんじゃないだろうか。
政治はイデオロギーのマウント合戦のためにあるのではなくて、生活のためにあらねばならない。

そういう意味でいえば、自らの生活をつくる、という行為は、完全に政治的な行為である。
この物語を感動的なものとしての消費にとどめることなく、「貧困」「格差」あるいは「緊縮」という現代的な問題に向き合う時のひとつの題材として提示する。これが「お花畑」を上演するということだ。

さて、ジャベールは、「なにか」から逃げていると書いた。なにから逃げていたのだろうか。
とりあえずこのテキストでの結論としては、貧困・格差・緊縮などの問題を抱える「現実」、というあたりだろうか。
数多の問題を含んだ現実から目を逸らし、他者を断罪する。その行為を取り憑かれたように執拗に行うことで分断は生まれ、貧困者の存在・立場・声がどんどん不可視化されていく。

物語の終盤、ジャベールは、バルジャンをひたすら追いかけ回してきた行為ひいては人生を問い、自ら命を絶つことになる。
彼は死ぬ間際、なにを見たのだろうか。「犯罪者」として追跡してきたバルジャンのような存在のその隙間から、なんらかのものを嗅ぎ取ったのだろうか。
わからないけれど、観客であるわたしたちは、わたしたち自身に問いかけてみると、それに近いものが、たぶん湧き出てくるんじゃないかと思う。

NEW ARRIVAL

稽古の合間の悪ふざけ
(むしろこっちがメイン)

稽古とは名ばかりに、いい大人が集まって記念碑的な愚の骨頂を生みだしています。こんなことしてると、社会は甘っちょろいと実感しますね。

チョコ泥棒、
動画配信はじめました。

あの劇団チョコ泥棒が、過去の公演動画をアップしております。低画質、固定アングル、観客とカブって見えにくい、などの障壁を乗り越えてご覧下さい。

「ハゲの歌を聴け」
チョコ泥棒コーラス部

2014年。今年もチョコ泥棒コーラス部が始動。稽古時間を削り、レコーディングに1時間近くを要し、このクオリティ。逆に拍手を贈りたくなります。

堕落論。

あなたがもし落ち込んで自分を責めてしまうとき、ぜひ読んでみてください。こんなヤツでも生きているんだから、と自分を許してあげることができます。

チョコ泥棒プロデュース
『エンジェルのとしょかん。』

沖縄市の保育園、『エンジェルズ スクール』の一室を図書室にしてしまおうという秘密の計画を、準備段階ですが世界中に公開致します。

シキヤの草花・オンライン
〜多肉と観葉、あと野菜〜

チョコ泥棒の代表、志喜屋孝将。普段は農家の彼が、手塩にかけて育てた草花を販売致します。最近巷でなにかと人気の多肉植物もございますよ。

しりとりで
人生が変わればいいのに

そう思ってはじめたこの暇つぶし企画。更新が滞っておりますが、別にハナから継続できるなんて思ってなかったから可です。

渾身の絵描き唄

拙い画力を携え、脚本・兼島が絵描き唄をはじめました。公演用の原稿の〆切は、とっくに過ぎていますが、その部分には誰も何も触れないでください。

第三回公演
開催“ほぼ”決定

劇団チョコ泥棒第三回公演の日程が決まった模様です。早めに決めてあげたので、観に来れるように日程を調整してください。

イカしたブログをつくったぜ。

劇団だと名乗っているにも拘らず、僕らにブログデザインを依頼してくる輩がいました。どうかしていますが、仕方ないのでつくってあげます(ありがとう)。

ライド・オン・ザ・レイディオ
(@ザハラジ)

チョコ泥棒、なんとラジオに出ました! 場を荒らしました。まだ誰からも怒られていないので、メンバー一同反省はしていません。

詩人・喜久山
駄作を更新

チョコ泥棒の詩人・喜久山が今日もせっせとくだらない詩を書きあげました。読んだところで損しかありません。自己責任でどうぞ。


(C) 2014 CHOCODOROBO