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『ミラクルシティコザ』の感想を書きます。

『ミラクルシティコザ』、映画館で観てきた。
コザの街が大きなスクリーンに映し出された瞬間はなんともいえない感慨を抱いた。
よく県外での紹介のされ方にコザ=沖縄市みたいなのがあるけど、ローカルな感覚で言えば沖縄市とコザは必ずしもイコールではないし、わたしは沖縄市出身だけどコザ出身ではない。
と書くと地理的に詳しくない人は混乱してしまうかもしれないけど、ざっくり言うと沖縄市とはコザ市と美里村が合併してできた自治体で、わたしは美里村側の人間なのです。
だからなんだというわけですが、わたしはコザの街自体にアイデンティティやノスタルジーはあまり抱いていないと自覚していたにも関わらず、コザの街が映しだれたその映像に否応なく昂ってしまったのであります。

というわけで映画の感想を記すが、前もって断っておけば、わたしはこの映画はどちらかというと苦手だと感じたし、だからこれから書くこともその大半は批判的な内容になると思う。
批判なら書かない方が自分の立場的にもいいのだけど、でも書かなきゃいけないなにかがこの映画にはあるような気がしている。どういう構成にするか迷ったが、前半である程度否定的な意見を書き、後半に良かったと思う点を記す。
あと、ネタバレを多分に含んでいるので、このテキストを読む人が果たしているのかどうかは甚だ疑問だが、とりあえずそのことも断っておく。

まず映画がはじまった瞬間に、わたしは「嫌な予感」を抱いた。
この映画は「未完成映画予告編大賞」の第3回グランプリを獲得したことで製作されたものらしい。そして同賞の「堤幸彦賞」を受賞したのだという。それらが上映前にクレジットされたのだけど、その瞬間、具体的には「堤幸彦」という文字を見た瞬間にギクッとしてしまったのです。
正直に言うとわたしは堤作品が苦手で、もしやこの作品もそのテイストが、、、などと思ってしまったのです。そしてその嫌な予感がある程度的中した。効果音の付け方、唐突な前衛っぽさ、強引な「泣かせ」、なんか堤幸彦イズムを随所に感じてしまった。こればっかりはどうしようもないというか、ごめん、俺はちょっと、、、っていう感じ。すみません。

以下、劇中で解せなかった点を列挙します(記憶を頼りに)。

・ライブハウスの外でのシーン。アシバーの男とマーミー、ハルが対峙するところ。
アシバーの男は無秩序に銃を発砲し、おそらく客引きをしていただろう娼婦の女性が一人殺されてしまう。
だがそこにいるたくさんの人たちは、驚くどころか女性を気にすることも逃げ出すこともしない。ただ立ち尽くしてぼんやり様子を見ている。
それほど「諦め」があの当時には蔓延していた、ということの表現なのだろうか? だとしても、あの女性の顛末は不憫でならない。ただ殺された人。
後から駆けつけたバンドメンバーも、その女性に一切注意を払わない。誰一人として彼女のことを気にしない。
物語上関係のない人物だからといってああいう処理の仕方をすることはどうなんだろうか。

・マーミーって結局逮捕されたの? 犯行後ハルと逃げた後、なんか意味深っぽいダンスシーン(あれダンス? なんの舞?)をした後で、警察に逮捕されるシーンは描かれなかった。
ていうか、普通にいたよね、たとえばビリーの戦死がナレーションで伝えられるシーン。あの屋上で。マーミーいたよね?
いつ逮捕されたの? そこはっきりしないから、後半でのマーミーの息子(翔太の父親)が手紙を見て真実を知るシーンもなんかボヤけてしまう。
わかるんだけどさ、ああ、逮捕されたんだなって。でもそこ描かないとあそこ弱くなんない?

・ビリーが日本語ペラペラだった件、あれ何? なんで最初は英語でしか話さなかったの? 理由がわかんない。あそこで唐突に日本語で話したのもわかんない。何を狙っていたのか。
たぶん「自分はアメリカ人でも日本人でも沖縄人でもない」っていうことを語らせたかったからだと思うんだけど、それだったら最初から日本語も英語も流暢に使いこなす陽気なビリーって感じで描いてた方が、それでもそのどれにもなれなかったビリー、、、って感じで効果はあったんじゃなかろうか。

・マー坊の妹が実は米兵に殺されていたという設定。
マー坊がアメリカーを嫌っているっていうのは描かれてたけど、たとえばときどき首元のリボンを無意識に触ってるとか、そういうの描いとけばあの告白もポッと出には感じなかったんじゃなかろうかな。
なんかアシバーのシーンで女性を意味もなく殺してるシーンを通過してるからか、ここでも女性の死を物語の盛り上げに利用しているようにも感じられたんだよね。まあ、それくらい理不尽で怒りのおさまらない事件が実際に起きていたことは事実なんだけど。

・コザ暴動が起きる直前、夕暮れ前の川辺かどこかで、ハル(になった翔太)が一人たそがれている。そこに、ウィッグとサングラスを外した辺土名さんがやってきて、励ましとも言えない無駄話をしている。そこに、平良さんがオープンカーでやってきて「街が大変なってるぜ」と告げる。
ここ!
これってこの後の「コザ暴動」に入っていくシーンなんだけど、まず、コザ暴動って深夜に起きたことだよね。なんで日が沈む前に発生していることになっているの?
それに平良さんはなんであんなに悠長なの? あの余裕の構えで迎えに来たんだったら、その後のシーンで、つまり暴動の最中で焦燥感に駆られた演技との釣り合いが取れないよね。あの騒動の中で感情が混乱しているっていう解釈は可能だけど。

と、苦言をくどくどと並べ立てているけど、良かったところも大いにあった。
まずは役者さんの演技。言葉づかいも自然だし、県内の役者さんたちが生き生きと躍動しているなというのは感じた。
たぶん監督さんは、役者さんを生き生き演技させる力量が秀でているんだろう。個性を活かしているというか。たとえばカフェやバーで駄弁ってるときの自然な空気感、安心感。
なんとなくだけど、ストーリーとしての起伏があまりないようなもののほうが向いているんじゃないだろうか。あの楽しげな感じって、たとえばクドカンのドラマだとああいう拠点みたいなところでの掛け合いが面白いんだけど、ああいうのを感じた。
いままでの沖縄を描いた作品と比べてみても、会話の自然さや面白さはトップクラスなんじゃないか。監督のつくるシットコム的なものを是非見てみたいなと思った。

印象に残った役者さんは多いが、桐谷健太さんはまずもう、「俺たちの桐谷健太だ!」って感じでサイコーだったし、やっぱり役者として華があるなって思った。
その桐谷健太と入れ替わる翔太役の津波⻯⽃さんは、ペナルティーのワッキーみたいな奇怪なダンスも上手かったけど、演技も良かった。関係ないけどマーミーのダンスがあのワッキーダンス(「ごきげんダンス」だっけ?)だったら俺は死ぬほど爆笑してこの映画大好きになってたと思う。雰囲気ぶち壊しだけどこれこそロックだ!
閑話休題。
あと過去シーンでのインパクトのバンドメンバーはみんな良かったな。あそこを演技力がありかつ若くてエネルギッシュな県出身の俳優で固めたっていうのが、過去シーンを瑞々しく見せていた大きな理由だろうなと思う。
脇を達者な俳優やユニークな芸人さんらで固めたのも良かった。ベンビーさん、すごいうまいなぁ。シリアスな演技とかももっと見てみたいと思った。
コザ暴動のシーンに登場したOZEの新垣さん。あの迫力はやばかった。登場シーン少ないけど、存在感は凄まじかった。
それから喜舎場泉さん。じいちゃんが乗り移った翔太に呼び捨てにされ「ターがシージャーか?」と捲し立てるところはめっちゃ笑った。
あと、ちょっと名前わかんないんだけど、過去シーンで平良さんにピックを選んでもらえなかった方の女性。ハルに「お前なんかハブに噛まれてしまえ」というところ、あそこは笑った。なんだろう、言い方とか間とか表情とか、めっちゃ好き。

よかったといえば、やはり音楽。音楽は素晴らしかった。もっとガンガン使ってもよかったと思うくらい。
ミュージックタウンで歌った最後のORANGE RANGEの曲以外は全部良かった。最後のだけ、「あれ? 俺たちのロックンロールは?」みたいな感じになっちゃったから、あの曲じゃなくて良かったんじゃないか。
そもそも物語の設定だとインパクトのメンバーが作曲したことになってるから、「それであの曲?」ってなっちゃうんじゃないか。そこがもったいなかったな。
でも全般的に音楽は素晴らしかった。ラストの紫が登場するところ、フルで聴きたいって思うほどカッコよかった。あんなにカッコよかったんだって、知らなかった。すんません、舐めてました。

やるべきこと置いて映画館には行くが、それはべつにサボっているのではない。

忙しくなった。仕事の関係で。ちょっといま、アップアップだ。
忙しいのは、やっぱり嫌だ。なにが嫌かって、本が読めない。読みたい本、読まなきゃな本、いっぱいあるのに全然読めてないその事実にいちばんストレスが溜まってしまうのだ。
でもそれは、本を読むための時間がない、というわけではない。読もうと思えば、どうにか時間を捻出することは可能だ。終業後の夜の時間に読めばいいではないか。そう思うのだけど、読めないのだ。とりあえず本を開くのだが、活字を目で追うのに以前の3倍くらいの時間がかかる。そのうえ、頭に入っていないのかなんども反復しないと理解ができない。
とまあそんな感じなので、すぐに本を閉じてソファ(か布団)に寝転がってしまうのだ。そうして気づけば夜も更けてしまい、、、

でも、(映画館で)映画は観れる。(劇場で)演劇は観れる。それは、時間や場所が限定されているから。枠が決まっているから。ある程度の「不自由」さがあるゆえに、それらのカルチャーをわたしは忙しい現在でも摂取することができている。
時間が決まっているのであればテレビ番組もそうだが、「家」という空間の内部にいる場合は限りなく自由が保障されている。観れるけど、観なくたっていいのだ。でも劇場や映画館は、そこに入ったら嫌でもほぼ強制的に観なきゃいけない(寝る、という回避方法はあるけど)。
わたしはネットフリックスもアマゾンプライムにも加入している。おまけに「観劇三昧」という演劇の上演動画を配信するサービスにも課金している。これだけで毎月3000円近くの出費なんだけど、ほとんど観れていない。いつでも自由に且ついくらでも見放題というのがウリの配信サービスをまったく有効に利用できていない。とほほ。
そんな自分の行動というか傾向というかを顧みると、わたしという人間はほとほと「無限性」≒「自由」に不適合な存在であることを実感する。というかそもそも時間と空間によって構成された世界に肉体をもって参加しているのがわれわれ人間なわけで、その存在それ自体有限性から逃れられない運命なのだけど、こんな便利な社会になるとその「有限性」を超えられるという期待(錯覚)を抱いてしまう。
だからほんとうは、もともとできなかったことにあらためて「できない」と気付いただけのことなのかもしれない。

時間も場所も決められた有限な環境の中によってのみ、わたしは文化を摂取し、概念を学び、思索を試みることができる。その環境によって突きつけられたもので目の前の現実が異化され、半強制的に「考えさせられる」。となると、「考える」ってのは動詞ではなくて「現象」のようなものとして捉えた方がいいのかもしれない。
映画や演劇に限らず、たとえば学校という空間や先生という存在もその「現象」を引き起こさせる「有限」な環境の一要素なのだ。
ただ、社会の中で働くと、「学校」や「先生」とのスケジュールを調整するのがなかなかに難しい部分もでてくるので、だから、映画館や劇場にわたしは行く(べつに美術館とかでもいいのだけど、平日夜とか閉まってる)。
「考える」という現象を引き起こすために、映画館に行き、劇場に行き、席に着けばあとはその作品を浴びるだけでいい。半強制的で有限的な環境に身体そのものを移動させ、そこで流れる時間の中でオートマチックに「考える」が駆動するのだから、その流れに身を任せてしまえばいい。そして、そこに顕れる異化された現実により「考える」現象が発生し、その後の産物として「知りたい」という欲求が生じて「学び」がはじまる。「考える」だけではなく「学び」も、受動的な環境・状況から開始される。

だから。わたしが仕事をほっぽり出して映画館に行っているとは思わないでください。「考える」ため、あるいは「学ぶ」ためなのです。ものすごく意識の高い行いなのである。ということは、忙しい忙しい言いながらも仕事が全然進んでないやないかい!と痛みの強い指摘をするのはナンセンスなのである。わかりましたか?
と、ここまで言っておけば、誰もなにも言わないであろう。

何も言うなよ? いいな?

『メアリと魔女の花』と、言語の私的所有の不可能性について

『メアリと魔女の花』

観てきました。
感想を言うと、うーん、、、って感じでした。
正直、あまり好きではないといいますか。
違うな。好きじゃないわけじゃない。でもなんだろう、、、「なんか違う」というか「え、そんな感じ?」みたいな、うまく言葉で表現するのは難しいんですが、ぼんやりとした違和感を抱きながら観ていました。
おそらくですが、セリフとか間合いとかそのあたりの細かいところが、僕の生理的な好き嫌いのようなものと合わなかったのかなと。オープニング終わってからメアリが出てくる最初のシーンですでに、「ん?」って感じちゃってましたので。その最初の部分の小さなズレみたいなものが、全体的に尾を引いちゃってたのでしょうか。
でも、中盤あたりのストーリーでグイグイ引張っていく感じは、さすがジブリ仕込み!みたいな感じはありましたが。
でもそのストーリー展開の「都合の良さ」みたいな部分も少なからずありましたけども。プロットを転がすためだけに仕掛けられた小道具や演出、みたいなのが散見されてて、そこも「うーん」なんですよね。

っていうふうにまくし立てられてもなんのこっちゃって感じだと思いますので、ここらであらすじの紹介を!
どういう話かっていうとですね、、、
(以下、公式ページより引用〈こちら〉

赤い館村に引っ越してきた主人公メアリは、森で7年に1度しか咲かない不思議な花《夜間飛行》を見つける。それはかつて、魔女の国から盗み出された禁断の“魔女の花”だった。
一夜限りの不思議な力を手にいれたメアリは、雲海にそびえ立つ魔法世界の最高学府“エンドア大学”への入学を許可されるが、メアリがついた、たった一つの嘘が、やがて大切な人を巻き込んだ大事件を引き起こしていく。

魔女の花を追い求める、校長マダム・マンブルチューク。
奇妙な実験を続ける、魔法学者ドクター・デイ。
謎多き赤毛の魔女と、少年ピーターとの出会い、そして…。

メアリは、魔女の国から逃れるため「呪文の神髄」を手に入れて、すべての魔法を終わらせようとする。しかしそのとき、メアリはすべての力を失ってしまうーー。
しだいに明らかになる“魔法の花”の正体。メアリに残されたのは一本のホウキと、小さな約束。
魔法渦巻く世界で、ひとりの無力な人間・メアリが、暗闇の先に見出した希望とは何だったのか。

メアリは出会う。驚きと歓び、過ちと運命、そして小さな勇気に。
あらゆる世代の心を揺さぶる、まったく新しい魔女映画が誕生する。

というような物語なわけなんですが、冒頭に書いた否定的な感想っていうのが僕の中には、まあ、あるんですが。
でも、それで終わりにしちゃもったいない! せっかく1700円払ったのだから、もっとなんらかのものを吸い取ってやりたい、という貧乏性的な部分が僕にはありまして。
(以前『沖縄を変えた男』という映画でもおなじようなことをしました

なので、いわば、まさしくですね、ちょっといろいろ勝手に好きなように解釈して満足してやろうと、まさに、このように、思っているわけで、あります。

この映画って、王道ファンタジーといいますか、いわゆる「行って戻ってくる」話なんですね。
メアリが魔女の花によって不思議な能力に目覚め、異世界に飛び立つ。帰ってきたと思ったら、自分のせいでピーターが攫われて、救い出すために何度も異世界に戻る。んで、そこで、大きな力と対峙せざるを得ず、それを乗り越える過程で人間的に成長していく。みたいな。

メアリは、自分に突然到来した不思議で強大な能力(魔法)に魅せられ、その万能感に酔ってしまいます。調子に乗ってしまいます。それがいろんなことのきっかけでもあるんですが。
はてさて、この「魔法」というのは、この映画においては何の比喩として描かれているのか、ということを考えた時に、いろいろな見方ができるとは思うんですが、僕はそこに「言語」を見ました。
つまり、結論から言うと、この映画は「〈魔法=言語〉の〈万能性/私的所有〉を諦める話」と読むことができるのです。言い換えると、赤ちゃんが言葉を覚える=「他者」に晒されるという話です。

映画の中で、魔女の国で使われる魔法は、文字によって記述されていました。何語かよくわかんない文字。だからもちろん、メアリははじめそれを読めません。でも、能力をもった彼女は、その文字を運用できるのです。記述された文字=魔術を読み取り、使用するのです。
赤ちゃんは、母語を話す前段階で、音韻の獲得をしていきます。母語の言語体系における子音/母音の区別、発音体系、それらが用意されます。
その音韻が整備される前はブヨブヨとしていて、どのような言語体系にも対応することができます。
日本語や英語やスペイン語などの言葉を覚える以前に、それらの言語の音韻体系を赤ちゃんは覚えるのですが、さらにその音韻体系を覚える前段階では、どの言語にも対応できるような性質を赤ちゃんはもっているのです。
つまり、なんにでも姿を変えることができる能力=魔法を、このときの赤ちゃんは有しているということです。

メアリは、大叔母の家に引っ越してきたばかりで、まわりにはまだ同年代の友達なども少なく、大人に囲まれています。その大人たちの役に立ちたいといろいろとお手伝いを買って出るのですが、ことごとく失敗し、大人たちと対等な関係になることを挫かれます。「手伝います!」と言っても「大丈夫よ」と暗に拒否されてしまいます。これは、社会の中に身を置くことを延期させられた状態です。
でも、逆説的ですが、この「なにもできない」状態にあるうちが、もっとも可能性が豊潤な時期でもあります。乳児がどのような音韻体系にも対応できるポテンシャルをもつように、メアリはなんにでもなれる潜在的な「可能性」をもっているのです。

その自らの「可能性」の豊潤さを自覚したとき、つまりメアリが“魔女の花”を見つけ魔法の力を手に入れたとき、彼女は魔法の国へと誘われます。魔法の国は、その「可能性」が充満した場所でした。「魔法」によってどんなことでもできる世界。そしてその世界を、その魔法を、裏側で司っているのが「言語(=呪文)」です。
校長のマダム・マンブルチュークと、教授のドクター・デイは、メアリが持っていた“魔女の花”を奪い取るや否や、「変身魔法」の実験に取り掛かります。なんにでも姿を変えることができる万能・全能な存在をつくりあげること。それがマダムとドクターの長年の夢だったのでした。
これは言い換えると、「全能な言語」を獲得するということです。これはある見方では世界中のあらゆる言語を習得するということであり、別の見方をするなら個人が言語を思いのままに駆使することができる(言語の道具性)、ということです。

メアリ自身も、当初は自身が偶発的に手に入れた「魔法」に魅せられてしまいます。が、次第に「魔法」の負の側面、「手に負えなさ」にだんだんと気付いていきます。だからこそ、マダムたちとの不利な対決にも挑んでいくのです。
そして、最終的に、マダムたちの「変身魔法」の実験は失敗に終わります。「魔法」によって変身させようとした個体が、コントロール不能の化け物となってマダムたちを飲み込んでいくのです。

言語の全能性を追求した結果ぶち当たったのは、言語の「手に負えなさ」でした。それはすべての言語を獲得することが不可能であるということ、言語の私的所有(道具的使用;コントロール)が不可能であるということ、その両面をあらわしています。
マダムたちが生み出した化け物は、あらゆるものを破壊し、飲み込もうとします。でもその化け物は結果的に、そのときに用いられる呪文、「呪文の神髄」によって無効化されてしまいます。
そう、「呪文の神髄」は、すべての「魔法」を「無効化」してしまう呪文なのでした。
これは象徴的で、言語=呪文の「神髄」としてあるのは、全能性の獲得ではなく、無効化だということです。言い換えると「魔法」の解除なのです。
魔法=呪文=言語の獲得においてもっとも根本的なのが、それら自身の『「可能性」の解除』、『「可能性」の喪失』、『「不可能性」の受容』だということです。
これらを認めるとき、そのときこそ、乳児が言葉を獲得する瞬間であり、人が社会のなかに自らの存在を据える瞬間であるのです。

映画のラスト、メアリは「魔法」を捨てる決断をします。最後に残っていた“魔女の花”を投げ捨ててしまうのです。「魔法」を捨てたメアリは、現実に戻り、すこしだけ大人に変身していることでしょう。大人にその存在を認められ、社会のなかで立ち位置を見いだすことになっていくでしょう。
ただ、ひとつ気になるのは、“魔女の花”を使わないのに、なぜホウキに乗って家(現実)まで帰れるのでしょうか? 魔法使わなきゃ、そもそも家に帰れないんじゃないの? 後ろに乗っていたピーターに魔法の力が残っていたから? でもそれなら、なぜメアリがホウキを操っているのでしょうか? うーん。よくわかりません。ここ、物語的に破綻してません?
が、この疑問は、ここではグッと飲み込んでおこうと思います。

〈私〉の発生・拡散・収束 - 『Mr. Nobody』

***あらすじ***

『Mr. Nobody(ミスター・ノーバディ)』
2092年、化学の進歩で不死が可能となった世界で、118歳のニモ(ジャレッド・レトー)は唯一の命に限りある人間だった。ニモは記憶をたどり昔のことを思い出す。かつて9歳の少年だったニモの人生は、母親について行くか父の元に残るかの選択によって決まったのだった。(シネマトゥデイより)

 たとえば、〈私〉はいま自動車を運転している。そして目の前に交差点がある。
 さて、このとき〈私〉に選択肢が3つあるとする。直進、左折、右折(交差点のど真ん中で「停滞」は危険&迷惑なので選択肢から除外)。で、とりあえず、右折を選んだとする。
 実際に交差点を右に曲がったとき、急に道路に猫が飛び出してきた。焦って〈私〉はハンドルを切ったが、車はガードレールに激突し、〈私〉は大怪我を負う。すぐに病院に搬送され手術が施される。幸い一命は取り留めたが、長期入院を余儀なくされる。入院中、暇を持て余していると、若い頃に趣味で小説を書いていたことを思い出した。軽い気持ちで書き始めるとこれが想像以上に有意義で、興奮を誘い、どんどん筆が進む。退院するころには、納得のいく長編小説が書き上がっていた。せっかくだからと公募の新人賞に応募してみたところ、なんと大賞を受賞! 選考委員からも絶賛され、出版社から次作の執筆依頼が舞い込む。こうして〈私〉は小説家としてのデビューを果たすことになった。
 ここで〈私〉が〈小説家としての私〉となった道程を、時系列を逆向きに遡ってみる。すると、交差点に突き当たった。さて、ずっと前に〈私〉は、この交差点を「右に曲がった」のであった。この交差点を右に曲がって、その後いろいろあって小説家になった。つまり「右に曲がった」から〈私〉は小説家となったのである。
 17世紀の哲学者、ライプニッツは、「出来事」が「個体」を発生させるといった。「個体」つまり〈私〉が「右に曲がる」という行為をしたのではない。事は逆なのだ。
 ライプニッツの言葉を適用するなら、「私が右に曲がった」ではなく、「右に曲がったから私になった」と言わなければならない。もうちょっと詳しくいうと、「右に曲がったから〈右に曲がった私〉になった」ということだ。そしてこの〈右に曲がった私〉から分岐していった先に〈小説家としての私〉が発生したのである。
 逆に言えば、あのとき交差点を左に曲がっていたら、あるいは直進していたら、いまの〈私〉は小説家にはなれていなかったかもしれない。〈右に曲がった私〉という存在が出来事のあとで発生するのなら、〈左に曲がった私〉という存在をも想定することができる。〈左に曲がった私〉はもしかしたら、将来的に政治家になっていたかもしれないし、薬物中毒者として更生施設で半生を過ごすことになったかもしれない。
 このようなことはどの地点でも言える。もし右に曲がった直後に猫が飛び出して来なかったら? そのときは〈猫に飛び出された私〉ではなく〈何事もなかった私〉となり、まったく異なる世界を生きることになったはずだ。
〈右に曲がった私〉は〈猫に飛び出された私〉へ、その後〈ハンドルを切った私〉〈怪我を負った私〉〈長期入院する私〉〈小説を書く私〉……と延々とその分岐は進んでいく。これらの「出来事」ひとつひとつの地点においては、いくつもの異なる「出来事」が発生していた可能性を考えることができ、ということはさまざまな「可能性としての私」あるいは「可能性としての世界」が拡散的にいくつもの系列を形成していくこととなる。
「出来事」をきっかけに系列が分岐していく度、別の新しい〈私〉(そして〈世界〉)が発生する。ここで重要なのは、そのひとつひとつの〈私〉は、どれが現実の〈私〉としてもあり得る(あり得た)ということだ。
 ということは、いまここに現存している〈私〉というのは、さまざまに分岐しているうちのひとつの系列、すなわちあらゆる可能性のうちの一つの〈私〉が表象されているに過ぎない。現実の〈私〉がこの〈私〉であることに何ら必然性はない。つまりこの現実の〈私〉は、“たまたま”選択されたものだ。〈私〉がこのような〈私〉であることに絶対的な意味などは何も存在しない。べつに“どの〈私〉だってよかった”。それほどまでに現実の〈私〉とは儚く脆いものなのだ。
(ライプニッツは、自らの「最善世界説」の説明のために「可能世界論」を提唱した。いくつもの可能性の中からこの現実が選ばれたのは、それが神の意志であり、故に「最善」の結果なのである、ということ。)

 映画の中で何度も宇宙のメタファーが登場していたが、宇宙が誕生してすぐさま膨張したように、そして膨張し続けているように、〈私〉も発生の直後から拡散を続ける。将来的な収束を予期させながら。
 ニモもまた宇宙と同じように、自らのアイデンティティを次々に拡散させていく。時間の中を自由に去来しながら、場当たり的に次々と〈私〉そして〈世界〉を発生させていく。
 それでいて彼は、「私は誰であるのか」という問いへの回答を延々迂回して避けている。複数の〈私〉をひとつにまとめあげることを、つまり収束を拒んでいる。
 老いた彼は不法侵入してきた取材者に「私はノーバディだ」と嘯いたりしている。その取材者は、ニモの語る不透明で支離滅裂で矛盾だらけの〈私〉に頭を抱えてしまっていた。どれが本当のアナタなのか、恋人との関係は実際にはどうなってしまったのか。取材者はニモに、彼自身のクリアな人生史を、言い換えれば「自己同一性」を獲得した〈私〉であることを求めている。
 この映画を見ているわたしたちもまた、「自己同一性」の確立を願ってやまない。それは映画の登場人物であるニモに対してであり、またわたしたち自身にでもある。
 心理学者のエリクソンは自己同一性の確立を青年期の発達課題とした。その同定化に失敗したのなら(同一性拡散)、対人不安や非行などが現れてくるのだという。だから、取材者は自己同一的な語りを一向にしようとしないニモに苛立ちを覚えはじめる。取材者はニモを半ば狂気じみた人物として捉えはじめる。
 でも考えてみると、あっちこっちに散らばった〈私〉をひとつにまとめあげようとするふるまいの方こそ、不自然なものだといえないだろうか。
 わたしたちは日々様々な「出来事」に遭遇する。そのときありとあらゆる〈私〉が生まれ、そのうちのひとつが現実の〈私〉としてたまたま選ばれる。
 あらゆる〈私〉になることができる、そのような潜在性を秘めているにもかかわらず、それをひとつの型に押し込めてしまうことに無理が生じるのだと思う。そのようにして出来上がった〈私〉を、ただひとつしかあり得ない〈私〉を、わたしたちは本当に求めていたのだろうか。そんな〈私〉は、いかにも貧相であるとすらいえないだろうか。
 繰り返すが、エリクソンは「自己同一性」の確立が青年期の課題なのだと言う。それを達成できないと、さまざまな不具合を起こしてしまうのだと言う。
 でも、こうは言えないだろうか。そもそもその「自己同一性」を渇望しなければ、不具合を起こすこと、たとえば現実の自分とのギャップに焦ったり悩んだり、将来への不安を抱き続けたりするようなことも起きないのだ、と。
「自分とはなにか」とか「私は誰であるのか」とかっていう問題に、クリアカットな回答を提示しなければとわたしたちは強迫的に考えてしまっている。でも本当は、その「答え」なんて提示する必要はないんじゃないか。あるいは「あれもこれも〈私〉だ」でいいんじゃないか。そのように答えられる者ほど、豊かな人生を生きているといえるんじゃないだろうか。
 だから、同定され得ない〈私〉であり続けることを、ニモは死ぬ間際まで願ってやまない。〈私〉の輪郭がはっきりしないことを、むしろ喜んでいるようにも思える。
 映画の終盤、老いたニモは取材者に「わたしたちは存在していない」という言葉を、楽しげな表情・声色でもって発する。彼、つまりいまここで言葉を発している〈私〉は、数多ある〈私〉の可能性のただひとつであることを受容し肯定しているからこそ、そう表現することができたのだ。
 彼は、目の前の取材者が忌み嫌うような「ノーバディ」という存在を、ポジティブに転換することに成功している。「俺たちは存在してるかもしれないし、もしかしたら存在していないかもしれないけど、ま、でも、どっちだっていいじゃん」、そんなふうにお気楽に余生を送ろうと彼は決めたのだ。
 そして、彼は愛する者の名を残して死ぬ。そして死の瞬間に、〈私〉の発生は止み、拡散も終了する。そのときはじめて〈私〉は確定する。あらゆる可能性をすべて包括した〈私〉が、死の瞬間に成立する。
 そして、宇宙が誕生から今までの時間を逆向きに辿るように収束していくのと歩みを合わせて、ニモのアイデンティティも収束へと向かう。ニモ=〈私〉という存在が、死後、彼なき時間において記憶や記録に集約されていく。
 わたしたちは年齢を重ねる度、あるいは社会生活が長くなればなるほど、さまざまな属性を身につけたようでいて、それよりも多くの可能性を失い続けている。そのことに直面した哲学者の九鬼周造は「遠い遠いところ、私が生まれたよりももつと遠いところ、そこではまだ可能が可能のままであつたところ」を夢想した。
 この映画は、ありとあらゆる映像的技巧を凝らして「9歳の少年が想像した世界」を表現していた。すっきりまとめようとすることなく、可能性を棄てることなく、「可能が可能のまま」に輝いていた。
 制作者たちは、一貫性のあるわかりやすいストーリーではなく、混沌ともいえるようなしっちゃかめっちゃかな世界のなかにこそ魅力を見出していた。そんなふうな豊穣な世界を経験すること、可能性豊かな〈私〉であることを、この映画は観る者に提案する。そのことを、作品全体でもって表現していた。あぁ、楽しかった。いい映画をありがとうございます。

「沖縄を変えた男」の話をします。


「沖縄を変えた男」
という映画の話をする。

僕は小学3年から高校卒業まで、約10年間野球をやっていた(よくもまあ)。
野球経験者が野球の映画やドラマを見るときには、どーしても、役者たちの身体が気になってしまう。例えば、投球フォーム。そんなヘンテコな投げ方でどうしてあんな豪速球になるんだよ!みたいな感じの気持ち悪さがもうウギャギャギャッ!ってなるんです。ほかにもユニフォームの着方だとか強打者の力感だとか、実際に体感してきた野球と画面に映るフィクションの野球ではとんと別物である。だから野球ドラマおよび映画を観るときには、「プレーを見ない」という所作が、われわれ野球経験者には求められているのである。

それからこの映画は、タイトルにもある通り、「沖縄」の話である。映画やドラマに出てくるの「沖縄人」の喋り方は、過剰にデフォルメされた言語運用(訛り・イントネーション・方言など)がなされ、正直観ていてモヤモヤ~っと気持ち悪くなる。「こんな喋り方しねぇ~よ!」ってなっちまうのである。
というふうに、この映画を観るにあたり、2つの「気持ち悪さ」を乗り越えなければならなかった。

というか、ふつう「気持ち悪い」と思われる映画を観に行かないでしょ、でも今回はちゃんと観に行ったっていう部分を誰か褒めて。
で、実際に観て、「気持ち悪さ」は確かにあった。まあそれは仕方ない。でも、幾分かは軽減されてもいた。出演していた役者さんや芸人さんには、たぶん野球経験者が多いのでしょう、ウギャギャギャッ!なフォームの人は数名しかいなかった(ニッ○ーさんとか)。で、言葉の面でも、まあ出てる人皆沖縄の人なので、まだ耐えきれるレベルのものではありました。
という「気持ち悪さ」を乗り越えるマインドセッティングの話はこれくらいにしといてですね、、、

この映画は、沖縄水産の裁(さい)監督のはなしです。高校野球をやっていた人はだいたい知ってるんじゃないでしょうか、でも世代的には僕らくらい(20代後半くらい)がギリギリなんでしょうかね?
映画では、強化のため、あるいは勝利のためなら手段を選ばない裁監督(ゴリ)の狂気と寂しさが描かれる。多感なお年頃の球児たちを、怒鳴り、殴り、支配する。
「勝つためには何をやってもいいのか?」という問いにも、「ええ」と涼しく流すのか「当たり前だ!」と叫び声をあげるのかはわからないが、まあどっちにしろ「YES」と応えることでしょう、映画の中の裁さんならば。

ストーリーとか演技についての話は、ここではあんまりしませんが(察して!)。
でもそこで何が描かれていたのか(と同時に何が描かれていなかったのか)を見ることで、沖縄について考える上でナイスな題材ではあると思います。

裁監督は、先ほども書いたように徹底的に勝利にこだわる。殴る蹴る恫喝する、それらの行為を高校生相手にも辞さず、暴君としてふるまう。それもすべて「甲子園で勝つ」ためである。でもなぜ、彼はそこまで「甲子園で勝つ」ことにこだわるのか。そのことを少し考えていきたい。

映画の冒頭、幼子を背負い戦火を逃げ惑う母親と、爆発の炎が背中に点火し泣きじゃくる赤ん坊の姿が描かれる。その赤ん坊こそ、この映画の主人公、裁監督である。
その後、劇中で数名の人間から、甲子園で「沖縄のチームが優勝しない限り、沖縄の戦後は終わらない」というフレーズが語られる。また球児たちにも「監督は戦争やアメリカやナイチャーを憎んでいる」とも語らせている。
それらの台詞・シーンを通過させることで、監督がユニフォームに着替える際に映される背中(の火傷跡)に、「戦争への嘆き悲しみ」や「沖縄県民の苦しみ」という意味を付託している。

だがしかし、沖縄の戦中・戦後の悲しみや苦しみすべてを(文字通り)彼の背中に背負わせてしまうのは危険だ。そうやって最前線に立たされてしまった人間は、「後退する」という選択肢を組織的に奪われてしまうことになる。強硬で雄弁な姿勢以外、彼のフォロワーたちは認めてはくれないだろう。その過剰な政治的および精神的負担は解されなければならない。
実際裁監督は、「沖縄のチームが優勝しない限り、沖縄の戦後は終わらない」という彼が語ったとされる言葉を、「戦争と野球は違う。そんなことを言ったら、戦争で亡くなった方に失礼だ」と自ら否定する。(引用元はこちら)

ではなぜ、彼はあれほど狂気的なまでに「沖縄のチームが甲子園で勝つこと」を切望したのだろか。
その本意は、「監督は戦争やアメリカやナイチャーを憎んでいる」というセリフに表象されるような物理的・地政学的な「本土」対「沖縄」という構図のうちにはない。
それよりもむしろ、裁監督が再考を突きつけたのは、沖縄県民が内面化している「沖縄」のイメージに対してである。
そのヒントは劇中の「沖縄の人間は、仲間意識が強く、競争を好まず、打たれ弱い、、、それを克服するには優勝するしかないんだ!」みたいな台詞(はっきりとしたアレは忘れたので、こんなイメージだったっていう)にある。

戦前から戦後にかけて、「日本」あるいは「内地」/「沖縄」の関係性は、つねに「支配」/「被支配」(「差別」/「被差別」という側面も)という文脈で語られてきた。
「被支配」の文脈に置かれた沖縄の人たちは、集団内のつながりを強め、「被支配」ではあっても「服従」はしなかった。「内地」におけるニュートラルな感性に深層的に同調することはなく、沖縄独自の文化戦略を敷いた。「内地とは異なる」部分を自らのうちに見出し、それを「沖縄っぽさ」として前面に押し出すことにより、自らのアイデンティティを把持し、なおかつそれを対内地における重要な武器として利用した。
沖縄が選択した戦略は、「楽園」になる、ということであった。内地での競争主義的なレールから逃れ、ここに来ればゆったりとした時間が流れている。自然も人もあたたかく、あざかな色彩や心和むような音に溢れていて、現代社会に疲れた心身を癒してくれる。
というようなかたちで「内地」との差異とそこから派生する分断を強調することにより、沖縄は「内地」との関係の中でしっかりと立ち位置を確保することができたのである。
このパラドキシカルな生存戦略によって、差別的な扱いを受けていた状況を転倒させることに沖縄は成功した。

しかしその組織的ブランディングが功を奏した反面、この戦略は次第に沖縄の人間が「内に籠もる」ようになるという現象へと帰結していく。それは、その戦略を採用した以上避けることのできないものであった。自ら差異を強調することで得た立ち位置は、その差異を維持し続けることでしか守ることができない。つまり「内に籠もる」ことでしか、アイデンティティを保つことはできないのである。

「内に籠もった沖縄人」は、独自のルール、独自のコードを所有し、仲間内の結束を常に確かめ合ってきた。「内地」との同化を目指さずに独自のルールを適用することで、「沖縄」は延命に成功した。だが、ここで注意しなければいけないのは、仮想敵として想定していた「内地」は、実は強大な「依存先」だということだ。「内地」があってこそ「沖縄」の独自性が確立されるのであり、その関係性は「圧倒的多数=内地」対「ごく少数=沖縄」であるわけで、沖縄のドメスティックな環境下でのみ適用されるルールなど、内地に行けばすぐに掠れて消えるものであった。つまり、差異をもとに形成された「楽園」というブランディングは、圧倒的なホームアドバンテージを駆使するという策略であり、アウェーの地でもその利点を活かすことに必ずしも成功したわけではなかったのである。

そしていつしか、アイデンティティの形成に利用した「『内地』との差異」が、今度は自らを囲う「檻」として作用するようになった。
「内地」との対比によって形成された「沖縄ってこうだよね」「沖縄の人って〇〇だよね」というイメージを、沖縄人自らが主体的に取り込んでいき、いつからかそのイメージの方が「真」となった。そのイメージを個々人が積極的に採用し、より純度の高い「沖縄」を反映させる。
しかしそれだと、「圧倒的多数=内地」対「ごく少数=沖縄」という構図は、いつまでたっても瓦解されない。そのイメージに寄り添う沖縄人は、「ごく少数」のうちにとどまるしかなくなるのである。

「ごく少数」にとどまることで何が起きるのか。「犠牲」である。
「圧倒的多数」を守るために、「ごく少数」を差し出す。その「差し出されるもの」としてのふるまいを、沖縄人は自ら身体に刻んでいったのである。

では、沖縄にとって「犠牲」とはなにか。導き出されるものは一つ、「基地」である。
「犠牲」という言葉には違和感を持たれる方もいるかもしれないが、ここではそのまま論を進めていく。日本にある米軍基地の70%が沖縄に集中してる現状は、「犠牲」と呼んでも仕方ないことだと思う。

とまあどうしてこの映画で「基地」の話に繋がるのか。劇中で「基地」についての言及は一切なされない。この映画は「野球」の話だ。
だが、この「野球」と「基地」には共通点がある。それは双方とも、アメリカから到来し、日本に根付いたものである、ということだ。
アメリカから輸入された「ベースボール」は、「野球」へと変換されて日本中に広まった。
一方「基地」は、圧縮されて沖縄に固定された。他県にも「基地」はあるが、「日本中」ではなかった。

さきほども書いたように、裁監督は幼少時代、戦争で背中に火傷を負った。
戦争が終わり、彼が、ひどい火傷を背負ったまま辿ってきた人生は、そのまま沖縄の戦後史と重なる。
戦後の沖縄は、ご存知のように、日本であり日本ではなかった。日本に復帰した後も、日本とアメリカの両性を具有している。

「ボールを握ったのは、小学校4年生のとき。ソフトボールを米軍兵士からプレゼントされ、見よう見まねでキャッチボールを始めました。ボールもグラブも、バットも、すべてが米軍のお下がり。その頃、沖縄の男の子は、10人中10人が野球小僧でした」(引用元はこちら)

と裁監督は言う。彼がはじめに触れたのは、「野球」ではなく「ベースボール」だったのである。

アメリカと日本、2つの国の狭間で揺れる複雑な世相のなかを、戦後の沖縄人は生きていくしかなかった。日本への復帰後も依然として基地は残り、アイデンティティは混沌としたままだった。そうしたなかで多くの人は、「楽園」としての沖縄に自らをカテゴライズするようになっていく。そうすることで心身に安寧をもたらすことができるのだから。それは別の言い方をすれば、日本でもアメリカでもない「仮想の独立国」として自らを定立させることであった。
沖縄人は「ベースボール」でも「野球」でもない、「沖縄野球」とでも呼べるものを作り出したのである。

沖縄の高校が甲子園で勝てなくても仕方がない。だって「野球」と「沖縄野球」は違うのだから。「野球」では負けても「沖縄野球」で負けたことにはならないのだから。そういった論理を無意識のうちに採択してしまえば、負けたことにいちいち気落ちする必要がなくなる。仕方ない、とさらっと流すことができる。

でも裁監督はそうしなかった。沖縄の球児たちが「沖縄野球」のうちに安住することを許さなかった。そうしている限り、「犠牲」として差し出されても対抗する術を持てないから。
だから彼は「野球」、とりわけ「甲子園」にこだわった。「甲子園」は「野球」のなかでも特別な場所である。それはつまり、とりわけ「日本的」だということだ。「甲子園」とは、「礼儀」や「滅私奉公」などの日本文化的・日本精神的なものを「野球」に注入したものなのである。
日本に復帰した以上、日本人としての権利を沖縄人も持てなければいけない。そのためにはいつまでも「特別視」されるわけにはいかない。有事には「特別」なものから先に「犠牲」になるのだから。沖縄人は日本人である、という宣言、それが「甲子園優勝」なのである。

と考えるなら、この映画のなかで語られる(語られてはいないが)「基地」については、賛成とか反対とか、そういった話ではない。「基地」に翻弄され続ける沖縄人の「人権」についての問題提起なのである。沖縄人の日本人としての「人権」を取り戻す話なのである。
劇中の裁監督は、「内地」に対して沖縄人の人権についての異議申し立てを行うのではなく、沖縄の人間に対して、彼らの中に根付く無意識な「沖縄野球」の精神からの脱却を促す。それを達成しなければ、「犠牲」を強いられたままの不釣り合いな関係性は溶解できないのだ。だからこの映画は、「甲子園」を撮さない。劇中で描かれるのは「沖縄大会」である。自らのアイデンティティに問いの拳を振りかざすこと。それがこの映画で、裁監督という人物を通して描かれていたことである。だからこそこのタイトルは、『沖縄の野球を変えた男』ではなく『沖縄を変えた男』なのである。
ただ、その「人権宣言」が暴力にまみれているということが、事態を混沌とさせているのであるが、、、

というような拡大解釈を試みたわけだが、冒頭に書いた「2つの気持ち悪さ」を乗り越えたことに免じて、このヘンテコな妄言を許していただければ幸いである。