〈私〉の発生・拡散・収束 - 『Mr. Nobody』

***あらすじ***

『Mr. Nobody(ミスター・ノーバディ)』
2092年、化学の進歩で不死が可能となった世界で、118歳のニモ(ジャレッド・レトー)は唯一の命に限りある人間だった。ニモは記憶をたどり昔のことを思い出す。かつて9歳の少年だったニモの人生は、母親について行くか父の元に残るかの選択によって決まったのだった。(シネマトゥデイより)

 たとえば、〈私〉はいま自動車を運転している。そして目の前に交差点がある。
 さて、このとき〈私〉に選択肢が3つあるとする。直進、左折、右折(交差点のど真ん中で「停滞」は危険&迷惑なので選択肢から除外)。で、とりあえず、右折を選んだとする。
 実際に交差点を右に曲がったとき、急に道路に猫が飛び出してきた。焦って〈私〉はハンドルを切ったが、車はガードレールに激突し、〈私〉は大怪我を負う。すぐに病院に搬送され手術が施される。幸い一命は取り留めたが、長期入院を余儀なくされる。入院中、暇を持て余していると、若い頃に趣味で小説を書いていたことを思い出した。軽い気持ちで書き始めるとこれが想像以上に有意義で、興奮を誘い、どんどん筆が進む。退院するころには、納得のいく長編小説が書き上がっていた。せっかくだからと公募の新人賞に応募してみたところ、なんと大賞を受賞! 選考委員からも絶賛され、出版社から次作の執筆依頼が舞い込む。こうして〈私〉は小説家としてのデビューを果たすことになった。
 ここで〈私〉が〈小説家としての私〉となった道程を、時系列を逆向きに遡ってみる。すると、交差点に突き当たった。さて、ずっと前に〈私〉は、この交差点を「右に曲がった」のであった。この交差点を右に曲がって、その後いろいろあって小説家になった。つまり「右に曲がった」から〈私〉は小説家となったのである。
 17世紀の哲学者、ライプニッツは、「出来事」が「個体」を発生させるといった。「個体」つまり〈私〉が「右に曲がる」という行為をしたのではない。事は逆なのだ。
 ライプニッツの言葉を適用するなら、「私が右に曲がった」ではなく、「右に曲がったから私になった」と言わなければならない。もうちょっと詳しくいうと、「右に曲がったから〈右に曲がった私〉になった」ということだ。そしてこの〈右に曲がった私〉から分岐していった先に〈小説家としての私〉が発生したのである。
 逆に言えば、あのとき交差点を左に曲がっていたら、あるいは直進していたら、いまの〈私〉は小説家にはなれていなかったかもしれない。〈右に曲がった私〉という存在が出来事のあとで発生するのなら、〈左に曲がった私〉という存在をも想定することができる。〈左に曲がった私〉はもしかしたら、将来的に政治家になっていたかもしれないし、薬物中毒者として更生施設で半生を過ごすことになったかもしれない。
 このようなことはどの地点でも言える。もし右に曲がった直後に猫が飛び出して来なかったら? そのときは〈猫に飛び出された私〉ではなく〈何事もなかった私〉となり、まったく異なる世界を生きることになったはずだ。
〈右に曲がった私〉は〈猫に飛び出された私〉へ、その後〈ハンドルを切った私〉〈怪我を負った私〉〈長期入院する私〉〈小説を書く私〉……と延々とその分岐は進んでいく。これらの「出来事」ひとつひとつの地点においては、いくつもの異なる「出来事」が発生していた可能性を考えることができ、ということはさまざまな「可能性としての私」あるいは「可能性としての世界」が拡散的にいくつもの系列を形成していくこととなる。
「出来事」をきっかけに系列が分岐していく度、別の新しい〈私〉(そして〈世界〉)が発生する。ここで重要なのは、そのひとつひとつの〈私〉は、どれが現実の〈私〉としてもあり得る(あり得た)ということだ。
 ということは、いまここに現存している〈私〉というのは、さまざまに分岐しているうちのひとつの系列、すなわちあらゆる可能性のうちの一つの〈私〉が表象されているに過ぎない。現実の〈私〉がこの〈私〉であることに何ら必然性はない。つまりこの現実の〈私〉は、“たまたま”選択されたものだ。〈私〉がこのような〈私〉であることに絶対的な意味などは何も存在しない。べつに“どの〈私〉だってよかった”。それほどまでに現実の〈私〉とは儚く脆いものなのだ。
(ライプニッツは、自らの「最善世界説」の説明のために「可能世界論」を提唱した。いくつもの可能性の中からこの現実が選ばれたのは、それが神の意志であり、故に「最善」の結果なのである、ということ。)

 映画の中で何度も宇宙のメタファーが登場していたが、宇宙が誕生してすぐさま膨張したように、そして膨張し続けているように、〈私〉も発生の直後から拡散を続ける。将来的な収束を予期させながら。
 ニモもまた宇宙と同じように、自らのアイデンティティを次々に拡散させていく。時間の中を自由に去来しながら、場当たり的に次々と〈私〉そして〈世界〉を発生させていく。
 それでいて彼は、「私は誰であるのか」という問いへの回答を延々迂回して避けている。複数の〈私〉をひとつにまとめあげることを、つまり収束を拒んでいる。
 老いた彼は不法侵入してきた取材者に「私はノーバディだ」と嘯いたりしている。その取材者は、ニモの語る不透明で支離滅裂で矛盾だらけの〈私〉に頭を抱えてしまっていた。どれが本当のアナタなのか、恋人との関係は実際にはどうなってしまったのか。取材者はニモに、彼自身のクリアな人生史を、言い換えれば「自己同一性」を獲得した〈私〉であることを求めている。
 この映画を見ているわたしたちもまた、「自己同一性」の確立を願ってやまない。それは映画の登場人物であるニモに対してであり、またわたしたち自身にでもある。
 心理学者のエリクソンは自己同一性の確立を青年期の発達課題とした。その同定化に失敗したのなら(同一性拡散)、対人不安や非行などが現れてくるのだという。だから、取材者は自己同一的な語りを一向にしようとしないニモに苛立ちを覚えはじめる。取材者はニモを半ば狂気じみた人物として捉えはじめる。
 でも考えてみると、あっちこっちに散らばった〈私〉をひとつにまとめあげようとするふるまいの方こそ、不自然なものだといえないだろうか。
 わたしたちは日々様々な「出来事」に遭遇する。そのときありとあらゆる〈私〉が生まれ、そのうちのひとつが現実の〈私〉としてたまたま選ばれる。
 あらゆる〈私〉になることができる、そのような潜在性を秘めているにもかかわらず、それをひとつの型に押し込めてしまうことに無理が生じるのだと思う。そのようにして出来上がった〈私〉を、ただひとつしかあり得ない〈私〉を、わたしたちは本当に求めていたのだろうか。そんな〈私〉は、いかにも貧相であるとすらいえないだろうか。
 繰り返すが、エリクソンは「自己同一性」の確立が青年期の課題なのだと言う。それを達成できないと、さまざまな不具合を起こしてしまうのだと言う。
 でも、こうは言えないだろうか。そもそもその「自己同一性」を渇望しなければ、不具合を起こすこと、たとえば現実の自分とのギャップに焦ったり悩んだり、将来への不安を抱き続けたりするようなことも起きないのだ、と。
「自分とはなにか」とか「私は誰であるのか」とかっていう問題に、クリアカットな回答を提示しなければとわたしたちは強迫的に考えてしまっている。でも本当は、その「答え」なんて提示する必要はないんじゃないか。あるいは「あれもこれも〈私〉だ」でいいんじゃないか。そのように答えられる者ほど、豊かな人生を生きているといえるんじゃないだろうか。
 だから、同定され得ない〈私〉であり続けることを、ニモは死ぬ間際まで願ってやまない。〈私〉の輪郭がはっきりしないことを、むしろ喜んでいるようにも思える。
 映画の終盤、老いたニモは取材者に「わたしたちは存在していない」という言葉を、楽しげな表情・声色でもって発する。彼、つまりいまここで言葉を発している〈私〉は、数多ある〈私〉の可能性のただひとつであることを受容し肯定しているからこそ、そう表現することができたのだ。
 彼は、目の前の取材者が忌み嫌うような「ノーバディ」という存在を、ポジティブに転換することに成功している。「俺たちは存在してるかもしれないし、もしかしたら存在していないかもしれないけど、ま、でも、どっちだっていいじゃん」、そんなふうにお気楽に余生を送ろうと彼は決めたのだ。
 そして、彼は愛する者の名を残して死ぬ。そして死の瞬間に、〈私〉の発生は止み、拡散も終了する。そのときはじめて〈私〉は確定する。あらゆる可能性をすべて包括した〈私〉が、死の瞬間に成立する。
 そして、宇宙が誕生から今までの時間を逆向きに辿るように収束していくのと歩みを合わせて、ニモのアイデンティティも収束へと向かう。ニモ=〈私〉という存在が、死後、彼なき時間において記憶や記録に集約されていく。
 わたしたちは年齢を重ねる度、あるいは社会生活が長くなればなるほど、さまざまな属性を身につけたようでいて、それよりも多くの可能性を失い続けている。そのことに直面した哲学者の九鬼周造は「遠い遠いところ、私が生まれたよりももつと遠いところ、そこではまだ可能が可能のままであつたところ」を夢想した。
 この映画は、ありとあらゆる映像的技巧を凝らして「9歳の少年が想像した世界」を表現していた。すっきりまとめようとすることなく、可能性を棄てることなく、「可能が可能のまま」に輝いていた。
 制作者たちは、一貫性のあるわかりやすいストーリーではなく、混沌ともいえるようなしっちゃかめっちゃかな世界のなかにこそ魅力を見出していた。そんなふうな豊穣な世界を経験すること、可能性豊かな〈私〉であることを、この映画は観る者に提案する。そのことを、作品全体でもって表現していた。あぁ、楽しかった。いい映画をありがとうございます。

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