五月九月(ぐんぐぁちくんぐぁち)

五月九月(ぐんぐぁちくんぐぁち)
**あらすじ(当日パンフレットより)**

極上の琉球芸能をドタバタコメディーとともに
琉球王国時代の九月、首里城では中国皇帝の使者である冊封使を歓待するための宴の準備が整いつつありました。そこへ、翌年五月に来琉予定だった薩摩役人達も何故か首里城に向かっているという知らせが届きます。発音の似ている五月(ぐんぐぁち)と九月(くんぐぁち)を聞き間違えて、宴をダブルブッキングしていることが発覚して大騒ぎになりました。宴の総責任者である踊奉行は、急遽二つの舞台をこしらえて両方の宴を決行することになりました。綱渡りの舞台の幕が上がります。

五月九月(ぐんぐぁちくんぐぁち)という劇を観た。あらすじについては、上記を見ていただければと思う。劇を見ての感想。一言でいうと、楽しかった! ……フツー。フツーの感想。いや、いいじゃないか、フツーでも。
でもフツーなどと言われたら、男のプライドが泣くぜ。なもんで、いろいろと適当に、プライドを守るために、なにかを書いていこうかと思う。

あらかじめ断っておくと、わたしは琉球芸能、伝統芸能、古典芸能、などというものにはとんと疎い。だから、当たり前のことをこれから書き連ねるかもしれない。あるいは、まったくのトンチンカンなことをほざいているかもしれない。まあでも、知らないものは知らないので、それは仕方ないので、このまんまの教養レベルで書き進めていこうと思う。

なぜ「歓待」するのか。

中国の冊封使への歓待、薩摩への歓待、この歓待のタイミングが図らずもバッティングしてしまったことに起因するこのドタバタ。
なぜ、これほどまでに踊奉行や役者達は大慌てしていたのか。そのことをちょっと考えてみたい。
中国と日本という2国に挟まれ、しかもそれが自国とは比較にならないほど大きい、というように地政学的にいろいろと面倒そうな当時の(今もかな?)琉球。
この小さな島国は、周辺の「ガタイのいい」国となんとか関係を形成しながらでないとやっていけないような立場・状況であった。

そのためには、しっかりとした外交戦略が必要になってくる。
芸能というのは、当時の琉球にとって重要な外交手段であった。だからこそ、政府が多くのリソースを傾けてその開発と維持に努めてきた。
外交で目指されるものは、相手国との関係形成と自国の国益の拡大だ。

歓待をするのは相手国への「贈与」という意味合いだけではない。盛大なおもてなしを優れた芸能をもって行えるということは、その国が高度な文化的成熟を果たしていることのアピールになる。それによって相手国の「見る目が変わる」わけだ。うまくいけば「一目置かれる」かもしれない。それは琉球のような小さな島国にとっては重要だ。

また、膨大な人的リソースと1年以上もの準備期間をかけてまで行う「歓待」によって琉球が目指したのは、それぞれの国に「わたしたちは貴国の属国でございます」というポーズを示すことで、自国の国益を最大化させることであった。
ちょっと、以下のような、先輩と後輩の会話を思い浮かべて欲しい。

後輩「先輩、おはようございます」
先輩「おお、お前か。どうしたんだ、はやいな。このクソ寒いのに」
後輩「あ、どうぞ、これ。ホットココアです」
先輩「おぉ、気が利くなぁ」
後輩「そういえば先輩、この間の試合でのあのプレーすごかったっすね! しびれました!」
先輩「そうか?」
後輩「いや、まじヤバかったっす! 自分、この人に一生ついて行くわ!って、ガチで思いました」
先輩「あぁ、いや、そうかそうか」
後輩「いまのうちサインとかもらっといてもいいっすか?」
先輩「まあ別にいいけどよ。(タバコを取り出しプカーッと吸う)あ、お前も吸うか?」
後輩「いいんすか? ども、ありがとうございます」

ここで《後輩》は、ホットココアと忠誠心を差し出すことで、タバコという見返りを受ける。つまり、従者であることを徹底して示すことで、自分の利益を最大化させることができる。
このような「後輩っぽい」戦略こそ、琉球が中国や日本に対して採用していたものだ。

ただ、これを複数の《先輩》に対してやっていたとするなら、これはちょっと話がややこしくなってくる。
「お前、あいつにも俺にやってるのと同じようなことして取り入ってやがったのかコラァ!ツラかせやワレーッ!」的なことになってしまう恐れが山盛りだ。

だから、このようなしたたかな方法は、絶対に顕在化させてはならない。
そのことが発覚してしまうことを恐れたがゆえに、踊奉行や役者達は慌てふためていていたわけである。
描かれている登場人物たちのうろたえぶりが、この外交戦略がいかに綱渡り的であるかを示している。

「琉球」の相対化をめざして

八方美人で、場当たり的で、ときには二枚舌を使いこなし、四苦八苦しながらも芸能の上演をやり遂げようとする。そんな琉球人たちの姿をコミカルに描き出すというのが、この劇の主題であった(と勝手に考えている)。

この劇は、笑いどころの実に多い作品だ。そしてこの笑いは、自虐的な趣向のそれである。
たとえば、劇中劇として組踊の『二童敵討』を付け焼き刃で演じようというシーンなどが象徴的だ。
冊封使の一人が、人が足りないと慌てている踊り手たちの稽古場に紛れ込んだために、無理やり出演させられることになる。それが結局はハチャメチャな展開を巻き起こして、作品の中でも特に笑い声が響く場面として際立っていた。

組踊とは「型」の芸術である。代々受け継がれてきた「型」が、場所の移動や役の感情を示す重要な記号となる。その「型」を、この場面では徹底的に茶化している。冊封使という外の視点を介入させることで、「型」に穴を開けている。

「型」を崩すことで笑いを起こす、という仕掛けが狙おうとするその射程は、琉球という小さな島国、そしてそこで生まれた非常にユニークな伝統芸能、そこから発生するノスタルジックかつエキゾチックな小景、それらを相対化させることだ。

先ほど述べた「琉球の外交戦略の綱渡りさ」や「伝統芸能に従事する者たちの慌ただしさ」なども、相対化して笑いに変えられている。
言語の部分でも、組踊などにみられる特徴的な節や琉球語と並列して、現代的な日本語も使用されている。現代の視点を舞台に注入することも相対化の一形態である。

ひらかれる伝統芸能

「相対化」という言葉をさきほどから多用している。組踊や琉球舞踊などは門外漢のわたしのようなものですら感じられる「相対化」の多発現象。それは、伝統芸能が現代(現代人)に対してひらかれたものであろうとする証ではないだろうか。

一般的なイメージとして、いわゆる「伝統芸能」や「古典芸能」などというものは、「カタイ」という感じを抱く。「伝統」とか「古典」とかいうものを扱うときの所作で最優先されるのは、ふつう「保存」だからだ。それがどんなに難解であろうとも、観客の解像度レベルとつまみを調整することよりも、その作品自体が持つ本来的な要素を守り抜くことの方を重視する。

そのことがダメだとは思わない。芸術や芸能というものの機能が、わたしたちをその日常性から強制的に引き剥がしてしまうことにあるのだと捉えるなら、その作品の源流の最も高濃度な部分を「保存」することには大いに価値がある。

ただ、その純化が進みすぎると、伝統芸能は「絶対的」なものとなってしまう。それが何を意味するかというと、世界が閉じていく、ということだ。
せっかく豊穣な芸術的価値をもっていても、「絶対的」な存在は排他性を帯びていくという宿命を持つゆえ、その「絶対性」はいくらか解されなければならない。

そこで、「相対化」されたもの、すなわち作品がビューアブルなものであることに重要な価値が生まれる。それはまるでトロイの木馬のように、一見なめらかな手触りで観客のうちに入り込み、そのシステムの内側でパニックを引き起こす。
「娯楽的」で「わかりやすい」から、見る者はストレスを感じる間もなく作品世界に熱中できるが、時折、いつのまにか観客自身が作品世界に絡め取られてしまう、という現象も引き起こす。つまり、「気になって仕方なくなる」。

楽しかったねーとか泣ける……とかとはどこか感覚が違っていて、でも確実に自分の知的リソースの一部分がその作品に流入し凝固させられてしまっている。そこから、作品のみならずジャンルそのものへと興味がうつり、気付けばよりコアなものを求めるようになっていく。
文化や芸術にさらわれてしまった者は、ほとんどこのような道中を経ているはずだ。

今回の作品は、ドタバタコメディという「トロイの木馬」を観客に送りつけ、わたしたち観客は油断してその木馬で遊んでいる。つまり劇の内容に笑っている。
そうやってガハガハやっているうちに、不意に、劇中劇の形で舞踊がはじまる。ドタバタの部分と演舞パートがそのようにはっきりと区分けされた分だけコントラストが強く浮き出て、踊っている立方の所作や鳴っている音楽がとても美しく際立ってくる。
その美しさにうっとりしているとき、わたしたちは木馬に隠れていた侵入者たちに乗っ取られはじめている。

そして、舞台を観終わったわたしたちは(少なくともわたしは)、組踊や舞踊などの「伝統芸能」に、とりさらわれている。その証拠に、このような長文を書いてしまっている。もっと歴史とか型の示す意味とか昔のことについての教養とか勉強したらもっと楽しめそうだ、なーんて思ってしまっている。木馬に潜んでやってきた不法侵入者たちに、あっさりとその場を明け渡そうとしている。
はぁ、この忙しい時期に。。。
困ったものだ。


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