やるべきこと置いて映画館には行くが、それはべつにサボっているのではない。

忙しくなった。仕事の関係で。ちょっといま、アップアップだ。
忙しいのは、やっぱり嫌だ。なにが嫌かって、本が読めない。読みたい本、読まなきゃな本、いっぱいあるのに全然読めてないその事実にいちばんストレスが溜まってしまうのだ。
でもそれは、本を読むための時間がない、というわけではない。読もうと思えば、どうにか時間を捻出することは可能だ。終業後の夜の時間に読めばいいではないか。そう思うのだけど、読めないのだ。とりあえず本を開くのだが、活字を目で追うのに以前の3倍くらいの時間がかかる。そのうえ、頭に入っていないのかなんども反復しないと理解ができない。
とまあそんな感じなので、すぐに本を閉じてソファ(か布団)に寝転がってしまうのだ。そうして気づけば夜も更けてしまい、、、

でも、(映画館で)映画は観れる。(劇場で)演劇は観れる。それは、時間や場所が限定されているから。枠が決まっているから。ある程度の「不自由」さがあるゆえに、それらのカルチャーをわたしは忙しい現在でも摂取することができている。
時間が決まっているのであればテレビ番組もそうだが、「家」という空間の内部にいる場合は限りなく自由が保障されている。観れるけど、観なくたっていいのだ。でも劇場や映画館は、そこに入ったら嫌でもほぼ強制的に観なきゃいけない(寝る、という回避方法はあるけど)。
わたしはネットフリックスもアマゾンプライムにも加入している。おまけに「観劇三昧」という演劇の上演動画を配信するサービスにも課金している。これだけで毎月3000円近くの出費なんだけど、ほとんど観れていない。いつでも自由に且ついくらでも見放題というのがウリの配信サービスをまったく有効に利用できていない。とほほ。
そんな自分の行動というか傾向というかを顧みると、わたしという人間はほとほと「無限性」≒「自由」に不適合な存在であることを実感する。というかそもそも時間と空間によって構成された世界に肉体をもって参加しているのがわれわれ人間なわけで、その存在それ自体有限性から逃れられない運命なのだけど、こんな便利な社会になるとその「有限性」を超えられるという期待(錯覚)を抱いてしまう。
だからほんとうは、もともとできなかったことにあらためて「できない」と気付いただけのことなのかもしれない。

時間も場所も決められた有限な環境の中によってのみ、わたしは文化を摂取し、概念を学び、思索を試みることができる。その環境によって突きつけられたもので目の前の現実が異化され、半強制的に「考えさせられる」。となると、「考える」ってのは動詞ではなくて「現象」のようなものとして捉えた方がいいのかもしれない。
映画や演劇に限らず、たとえば学校という空間や先生という存在もその「現象」を引き起こさせる「有限」な環境の一要素なのだ。
ただ、社会の中で働くと、「学校」や「先生」とのスケジュールを調整するのがなかなかに難しい部分もでてくるので、だから、映画館や劇場にわたしは行く(べつに美術館とかでもいいのだけど、平日夜とか閉まってる)。
「考える」という現象を引き起こすために、映画館に行き、劇場に行き、席に着けばあとはその作品を浴びるだけでいい。半強制的で有限的な環境に身体そのものを移動させ、そこで流れる時間の中でオートマチックに「考える」が駆動するのだから、その流れに身を任せてしまえばいい。そして、そこに顕れる異化された現実により「考える」現象が発生し、その後の産物として「知りたい」という欲求が生じて「学び」がはじまる。「考える」だけではなく「学び」も、受動的な環境・状況から開始される。

だから。わたしが仕事をほっぽり出して映画館に行っているとは思わないでください。「考える」ため、あるいは「学ぶ」ためなのです。ものすごく意識の高い行いなのである。ということは、忙しい忙しい言いながらも仕事が全然進んでないやないかい!と痛みの強い指摘をするのはナンセンスなのである。わかりましたか?
と、ここまで言っておけば、誰もなにも言わないであろう。

何も言うなよ? いいな?


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