『メアリと魔女の花』
観てきました。
感想を言うと、うーん、、、って感じでした。
正直、あまり好きではないといいますか。
違うな。好きじゃないわけじゃない。でもなんだろう、、、「なんか違う」というか「え、そんな感じ?」みたいな、うまく言葉で表現するのは難しいんですが、ぼんやりとした違和感を抱きながら観ていました。
おそらくですが、セリフとか間合いとかそのあたりの細かいところが、僕の生理的な好き嫌いのようなものと合わなかったのかなと。オープニング終わってからメアリが出てくる最初のシーンですでに、「ん?」って感じちゃってましたので。その最初の部分の小さなズレみたいなものが、全体的に尾を引いちゃってたのでしょうか。
でも、中盤あたりのストーリーでグイグイ引張っていく感じは、さすがジブリ仕込み!みたいな感じはありましたが。
でもそのストーリー展開の「都合の良さ」みたいな部分も少なからずありましたけども。プロットを転がすためだけに仕掛けられた小道具や演出、みたいなのが散見されてて、そこも「うーん」なんですよね。
っていうふうにまくし立てられてもなんのこっちゃって感じだと思いますので、ここらであらすじの紹介を!
どういう話かっていうとですね、、、
(以下、公式ページより引用〈こちら〉)
一夜限りの不思議な力を手にいれたメアリは、雲海にそびえ立つ魔法世界の最高学府“エンドア大学”への入学を許可されるが、メアリがついた、たった一つの嘘が、やがて大切な人を巻き込んだ大事件を引き起こしていく。
魔女の花を追い求める、校長マダム・マンブルチューク。
奇妙な実験を続ける、魔法学者ドクター・デイ。
謎多き赤毛の魔女と、少年ピーターとの出会い、そして…。
メアリは、魔女の国から逃れるため「呪文の神髄」を手に入れて、すべての魔法を終わらせようとする。しかしそのとき、メアリはすべての力を失ってしまうーー。
しだいに明らかになる“魔法の花”の正体。メアリに残されたのは一本のホウキと、小さな約束。
魔法渦巻く世界で、ひとりの無力な人間・メアリが、暗闇の先に見出した希望とは何だったのか。
メアリは出会う。驚きと歓び、過ちと運命、そして小さな勇気に。
あらゆる世代の心を揺さぶる、まったく新しい魔女映画が誕生する。
というような物語なわけなんですが、冒頭に書いた否定的な感想っていうのが僕の中には、まあ、あるんですが。
でも、それで終わりにしちゃもったいない! せっかく1700円払ったのだから、もっとなんらかのものを吸い取ってやりたい、という貧乏性的な部分が僕にはありまして。
(以前『沖縄を変えた男』という映画でもおなじようなことをしました)
なので、いわば、まさしくですね、ちょっといろいろ勝手に好きなように解釈して満足してやろうと、まさに、このように、思っているわけで、あります。
この映画って、王道ファンタジーといいますか、いわゆる「行って戻ってくる」話なんですね。
メアリが魔女の花によって不思議な能力に目覚め、異世界に飛び立つ。帰ってきたと思ったら、自分のせいでピーターが攫われて、救い出すために何度も異世界に戻る。んで、そこで、大きな力と対峙せざるを得ず、それを乗り越える過程で人間的に成長していく。みたいな。
メアリは、自分に突然到来した不思議で強大な能力(魔法)に魅せられ、その万能感に酔ってしまいます。調子に乗ってしまいます。それがいろんなことのきっかけでもあるんですが。
はてさて、この「魔法」というのは、この映画においては何の比喩として描かれているのか、ということを考えた時に、いろいろな見方ができるとは思うんですが、僕はそこに「言語」を見ました。
つまり、結論から言うと、この映画は「〈魔法=言語〉の〈万能性/私的所有〉を諦める話」と読むことができるのです。言い換えると、赤ちゃんが言葉を覚える=「他者」に晒されるという話です。
映画の中で、魔女の国で使われる魔法は、文字によって記述されていました。何語かよくわかんない文字。だからもちろん、メアリははじめそれを読めません。でも、能力をもった彼女は、その文字を運用できるのです。記述された文字=魔術を読み取り、使用するのです。
赤ちゃんは、母語を話す前段階で、音韻の獲得をしていきます。母語の言語体系における子音/母音の区別、発音体系、それらが用意されます。
その音韻が整備される前はブヨブヨとしていて、どのような言語体系にも対応することができます。
日本語や英語やスペイン語などの言葉を覚える以前に、それらの言語の音韻体系を赤ちゃんは覚えるのですが、さらにその音韻体系を覚える前段階では、どの言語にも対応できるような性質を赤ちゃんはもっているのです。
つまり、なんにでも姿を変えることができる能力=魔法を、このときの赤ちゃんは有しているということです。
メアリは、大叔母の家に引っ越してきたばかりで、まわりにはまだ同年代の友達なども少なく、大人に囲まれています。その大人たちの役に立ちたいといろいろとお手伝いを買って出るのですが、ことごとく失敗し、大人たちと対等な関係になることを挫かれます。「手伝います!」と言っても「大丈夫よ」と暗に拒否されてしまいます。これは、社会の中に身を置くことを延期させられた状態です。
でも、逆説的ですが、この「なにもできない」状態にあるうちが、もっとも可能性が豊潤な時期でもあります。乳児がどのような音韻体系にも対応できるポテンシャルをもつように、メアリはなんにでもなれる潜在的な「可能性」をもっているのです。
その自らの「可能性」の豊潤さを自覚したとき、つまりメアリが“魔女の花”を見つけ魔法の力を手に入れたとき、彼女は魔法の国へと誘われます。魔法の国は、その「可能性」が充満した場所でした。「魔法」によってどんなことでもできる世界。そしてその世界を、その魔法を、裏側で司っているのが「言語(=呪文)」です。
校長のマダム・マンブルチュークと、教授のドクター・デイは、メアリが持っていた“魔女の花”を奪い取るや否や、「変身魔法」の実験に取り掛かります。なんにでも姿を変えることができる万能・全能な存在をつくりあげること。それがマダムとドクターの長年の夢だったのでした。
これは言い換えると、「全能な言語」を獲得するということです。これはある見方では世界中のあらゆる言語を習得するということであり、別の見方をするなら個人が言語を思いのままに駆使することができる(言語の道具性)、ということです。
メアリ自身も、当初は自身が偶発的に手に入れた「魔法」に魅せられてしまいます。が、次第に「魔法」の負の側面、「手に負えなさ」にだんだんと気付いていきます。だからこそ、マダムたちとの不利な対決にも挑んでいくのです。
そして、最終的に、マダムたちの「変身魔法」の実験は失敗に終わります。「魔法」によって変身させようとした個体が、コントロール不能の化け物となってマダムたちを飲み込んでいくのです。
言語の全能性を追求した結果ぶち当たったのは、言語の「手に負えなさ」でした。それはすべての言語を獲得することが不可能であるということ、言語の私的所有(道具的使用;コントロール)が不可能であるということ、その両面をあらわしています。
マダムたちが生み出した化け物は、あらゆるものを破壊し、飲み込もうとします。でもその化け物は結果的に、そのときに用いられる呪文、「呪文の神髄」によって無効化されてしまいます。
そう、「呪文の神髄」は、すべての「魔法」を「無効化」してしまう呪文なのでした。
これは象徴的で、言語=呪文の「神髄」としてあるのは、全能性の獲得ではなく、無効化だということです。言い換えると「魔法」の解除なのです。
魔法=呪文=言語の獲得においてもっとも根本的なのが、それら自身の『「可能性」の解除』、『「可能性」の喪失』、『「不可能性」の受容』だということです。
これらを認めるとき、そのときこそ、乳児が言葉を獲得する瞬間であり、人が社会のなかに自らの存在を据える瞬間であるのです。
映画のラスト、メアリは「魔法」を捨てる決断をします。最後に残っていた“魔女の花”を投げ捨ててしまうのです。「魔法」を捨てたメアリは、現実に戻り、すこしだけ大人に変身していることでしょう。大人にその存在を認められ、社会のなかで立ち位置を見いだすことになっていくでしょう。
ただ、ひとつ気になるのは、“魔女の花”を使わないのに、なぜホウキに乗って家(現実)まで帰れるのでしょうか? 魔法使わなきゃ、そもそも家に帰れないんじゃないの? 後ろに乗っていたピーターに魔法の力が残っていたから? でもそれなら、なぜメアリがホウキを操っているのでしょうか? うーん。よくわかりません。ここ、物語的に破綻してません?
が、この疑問は、ここではグッと飲み込んでおこうと思います。