わたしは普段、ソーシャルワークの仕事をしているのだが、ソーシャルワークの領域の中に『ナラティヴ・アプローチ』という、ジャンルというか、方法というか、考え方というか、まあそういったものがある。
最近いろんなきっかけが重なって、ナラティヴ・アプローチについていろいろと勉強している。大学時代や卒業後にも表面的には学んでいたが、専門書を何冊も読む中でいろいろ整理されたり発見もあったり、すごく面白い。
ナラティヴとは「物語」とか「語り」という意味で、「ナラティヴ・アプローチ」はその前提として、自分自身が生きている「世界/現実」は物語として成立している、というふうに捉える。
わたしたちは、生まれてから今まで、いろんな出来事、いろんな経験を経て、現在この場所に立っている(正確にはソファに横たわっている)。
その出来事のほとんどは、わたし自身にとって「どうでもいいこと」である。
小学4年生の夏の日の朝に一番最初に見かけた車のカラーなんて、いちいち覚えてない。というか、そんなものはほとんど気にも留めていない。
でも、そんな「どうでもいいこと」から逸脱した、自分にとって重要な出来事というのが存在する。
自分がこういう行為をしたことで、こんな結果を引き起こした。それによって、自分の人生がこうなった。とか。
いくつかの要素を拾い上げ、それらを並べることで、「意味」が発生する。それはつまり「物語」になるということである。
「変な男ばかりを好きになってしまう」という経験を何度も繰り返すことで、「男は信用ならない」という「現実」を構成する人がいるかもしれないが、一方では「私ってダメ男をほっとけないのよね」となる人もいるかもしれない。
どのように物語化するかは、その人のクセというかフレームというかによるが、そのクセ自体がナラティヴで構成されているのです。
このようにして、わたしにとっての「現実」は発生し、強化されていく。
んで、わたし自身もまた「物語」である。自分で自分を捉えるとき、あるいは語るとき、かならず「物語」の形式となる。そのようにして「まとまり」をつくらなければ、語ることなんてできない。
そうしなきゃ、自分という存在の意味が拡散して、崩壊してしまう。
だから、わたし=「セルフ・ナラティヴ」なのである。
わたし自身が物語であるなら、わたしが作品を書くという行為は、物語が物語を生み出しているというふうに捉えることができる。
そして、わたしが書いている物語は、わたしから生まれた物語であるが、わたしという物語とはだんだんと別物に変わっていく。
設定も状況も展開も、わたし自身という物語とは離れた物語であり、それはつまり、わたしにとって「他者」である。
つまり、わたしが書いているのは「他者」ということになる。
しかし、他者を創造するという行為は、わたしの思うように他者を操作するということである。
それって、他者を冒涜する行為なのではないか。
他者とは、わたしとは異なる空間と時間を生きてきた、異なる物語を生きてきた存在である。
他者に人格性があれば、他者を操作しようなんていう傲慢なことはわたしにはできない。
じゃあ、人格のない他者、つまり作品であれば、操作してもいいのか。
・・・うーん、わかんない。まあ、どっちでもいいのかもしれない。
でもいまのわたしは、人格性のない他者=作品を、他者として尊重したいと思うようになっている。
「キャラクターが勝手に動き出す」って、つまり他者と戯れているっていうことなんじゃないか、とか思っている。
作品=他者が、自身がナラティヴとして構成されていくのに携わる、というような劇作家としての在り方を探っていきたいと思っている。
ナラティヴ・アプローチでは、他者同士であるクライエントと支援者が、共同で問題に取り組む関係を「支援」というふうに捉える。
それと近い感じで、作品をつくっていけたら、作品それ自体と一緒に作品を「共同執筆」していけたらいいな。
なんて書いているが、それが具体的にどんな方法によってかだなんて、これっぽっちもわかっちゃいないが。