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『創造と狂気の歴史|プラトンからドゥルーズまで』(内容まとめ)


おもしろかったので、本の内容をまとめます。
精神科医である松本卓也さんの『創造と狂気の歴史』、副題は「プラトンからドゥルーズまで」。
一応、クリエイターの端くれとして細々と活動しているわたしですので、なにかしらヒントがあればいいなと。
でもそれよりも、松本さんはラカニアンでありながらドゥルージアンでもあり、最近はドゥルーズと自閉症スペクトラム(ASD)を結びつけて語るような活動をいろいろやっていて、それがめっちゃおもしろいので、だからこの本の最終章のドゥルーズの章を読みたくて買ったんです。

まあ端的にいうと、テーマは狂気(クレイジー)と創造(クリエイティヴ)の関係性が歴史的にどう捉えられてきたか、というものです。

古くは「神懸かり」とか「悪霊憑き」とかそういった人を「クリエイティヴ」と捉えていたのが、デカルト、カント、ヘーゲルあたりで人間が「近代的主体」となって、理性的な存在となって、狂気的なものは排除されます。
しかし排除されたはずの狂気は、理性的である近代的主体の「内部」に回帰する。そしてその内部に閉じ込めた狂気を発現させる人たちが出てきます。それが、統合失調症(分裂病)者でした。近代になって登場した統合失調症という病は、最終的にはそれを患うものの理性の解体に向かわせ、その引き換えに「真理」や「表象不可能なもの」を取り出すことができるのだとされました。

そんな統合失調症の最初期の病者で、かつ傑出した詩人でもあったのがヘルダーリン(ヘーゲルの親友)です。彼の作品および狂気性を批評した哲学者ハイデガーの論(「詩の否定神学」)が大きな影響力を持ち、ラカンやフーコーらフランスの思想家たちによって語られていきました。
その過程で、ヘルダーリンおよび統合失調症者の狂気=創造性が連れてくる「真理」や「深さ」が重要視されるようになり芸術作品と病との関係について研究する病跡学の分野において、「統合失調症中心主義」とでもいうべき特権化がなされるようになりました。そしてそれは統合失調症者を、狂気に落ち込むなかで真理を取り出す悲劇的な創造者として位置付けました(「悲劇主義的パラダイム」)。

その「統合失調症中心主義」と「悲劇主義的パラダイム」から逃れるように、狂気と創造との関係を考えていったのが、ドゥルーズでした。ドゥルーズは、ルイス・キャロルやレーモン・ルーセル、ルイス・ウルフソンなどの、言葉の表面的な使用にどこまでも興じようとする作家たちを重要視しました。統合失調症者が命を賭してまで取り出そうとする「深さ」とは裏腹に、キャロルらの作品はダジャレやアナグラムなどの言葉遊びから成る表面的で「浅い」ものでした。でもドゥルーズはその「浅さ」こそを評価したのです。

彼らは「言語の内部で一種の外国語を形成する」ようにして作品を書きました。すなわちすでにある既存の凡庸な言葉を神的な力を借りて外側から解体しようとするのではなく、むしろ既存の言葉をその内側からハッキングすることによって転覆させようとしました。
言語をハッキングすること、つまり言語をその慣習的な轍の外へ引きずり出すことが、現代において言語そのものを狂気させようという試みなのでした。
キャロル、ルーセル、ウルフソンらは、当時は統合失調症者としてみられていましたが、その特性等をみるに、いまでいう自閉症スペクトラム(ASD)だっただろうといわれています。実際に、現在いわれているASDの特性と彼らの作品内容との関連は多くみられます。

統合失調症が特権化されてきたのは、その存在が、あるいは患者のなかにある狂気が、絶対的な「他者」だと見なされたからです。翻って、ASDは、端的にいうと「他者」が存在しないのです。彼らは、予測不可能性や不確定性を避け、未知なものが存在しない計量的な世界に立てこもり「他者」を回避しようとする構造をもっています。

生まれ落ちたときから、一方的かつ強制的に与えられ、覚え込まされ、自分のあらゆる欲求をその言葉で表現するよう強いられる支配的な言語=母国語への参入をASD者は拒絶します。その母国語をハッキングしようと企てたのがキャロルたちのような作家でした。
彼らの作品は徹底的に表面的で浅いが、その表面上の言葉の操作にただただ依拠し続けることで、「他者」に侵入されることなしに深層とかかわることを可能にする“かもしれない”。そうドゥルーズは考えました。あくまでも“かもしれない”という偶然的なものですが、ドゥルーズはその偶然性に、創造の発展を賭けたのでした。

現代では、統合失調症自体が軽症化し、医学の進歩によって治癒や改善がなされる病となりました。それに伴い、病跡学における統合失調症中心主義もその遠心力を失いつつあります。そのような時代の流れのなかで、創造と狂気の関係性はどのように変化していくのか。
松本さんは、その可能性のひとつとしてASDの研究があるのではないか、と考えたのです。

わたしは昨年上演した作品について、ほとんど毎回わたしの作品を観劇してくれている友人から、「自閉っぽい」という言葉をもらいました。あのときは特にピンときてなかったのですが、この本を読み終えてみて、なんとなく腑に落ちた感じがしました。
べつにわたしは「狂気の作家」ではないし、徹底した言語使用に興じられるほどの忍耐力もありませんが、俗っぽいものを書く作家だと思っています。なので、もっともっと俗っぽく。そんなことを、この本を読み終えた今、思っているのでした。

自分とは「物語」であり、作品とは「他者」である。

わたしは普段、ソーシャルワークの仕事をしているのだが、ソーシャルワークの領域の中に『ナラティヴ・アプローチ』という、ジャンルというか、方法というか、考え方というか、まあそういったものがある。

最近いろんなきっかけが重なって、ナラティヴ・アプローチについていろいろと勉強している。大学時代や卒業後にも表面的には学んでいたが、専門書を何冊も読む中でいろいろ整理されたり発見もあったり、すごく面白い。

ナラティヴとは「物語」とか「語り」という意味で、「ナラティヴ・アプローチ」はその前提として、自分自身が生きている「世界/現実」は物語として成立している、というふうに捉える。

わたしたちは、生まれてから今まで、いろんな出来事、いろんな経験を経て、現在この場所に立っている(正確にはソファに横たわっている)。
その出来事のほとんどは、わたし自身にとって「どうでもいいこと」である。
小学4年生の夏の日の朝に一番最初に見かけた車のカラーなんて、いちいち覚えてない。というか、そんなものはほとんど気にも留めていない。
でも、そんな「どうでもいいこと」から逸脱した、自分にとって重要な出来事というのが存在する。
自分がこういう行為をしたことで、こんな結果を引き起こした。それによって、自分の人生がこうなった。とか。
いくつかの要素を拾い上げ、それらを並べることで、「意味」が発生する。それはつまり「物語」になるということである。

「変な男ばかりを好きになってしまう」という経験を何度も繰り返すことで、「男は信用ならない」という「現実」を構成する人がいるかもしれないが、一方では「私ってダメ男をほっとけないのよね」となる人もいるかもしれない。
どのように物語化するかは、その人のクセというかフレームというかによるが、そのクセ自体がナラティヴで構成されているのです。
このようにして、わたしにとっての「現実」は発生し、強化されていく。

んで、わたし自身もまた「物語」である。自分で自分を捉えるとき、あるいは語るとき、かならず「物語」の形式となる。そのようにして「まとまり」をつくらなければ、語ることなんてできない。
そうしなきゃ、自分という存在の意味が拡散して、崩壊してしまう。
だから、わたし=「セルフ・ナラティヴ」なのである。

わたし自身が物語であるなら、わたしが作品を書くという行為は、物語が物語を生み出しているというふうに捉えることができる。
そして、わたしが書いている物語は、わたしから生まれた物語であるが、わたしという物語とはだんだんと別物に変わっていく。
設定も状況も展開も、わたし自身という物語とは離れた物語であり、それはつまり、わたしにとって「他者」である。

つまり、わたしが書いているのは「他者」ということになる。
しかし、他者を創造するという行為は、わたしの思うように他者を操作するということである。
それって、他者を冒涜する行為なのではないか。

他者とは、わたしとは異なる空間と時間を生きてきた、異なる物語を生きてきた存在である。
他者に人格性があれば、他者を操作しようなんていう傲慢なことはわたしにはできない。
じゃあ、人格のない他者、つまり作品であれば、操作してもいいのか。
・・・うーん、わかんない。まあ、どっちでもいいのかもしれない。

でもいまのわたしは、人格性のない他者=作品を、他者として尊重したいと思うようになっている。
「キャラクターが勝手に動き出す」って、つまり他者と戯れているっていうことなんじゃないか、とか思っている。
作品=他者が、自身がナラティヴとして構成されていくのに携わる、というような劇作家としての在り方を探っていきたいと思っている。

ナラティヴ・アプローチでは、他者同士であるクライエントと支援者が、共同で問題に取り組む関係を「支援」というふうに捉える。
それと近い感じで、作品をつくっていけたら、作品それ自体と一緒に作品を「共同執筆」していけたらいいな。
なんて書いているが、それが具体的にどんな方法によってかだなんて、これっぽっちもわかっちゃいないが。

『メアリと魔女の花』と、言語の私的所有の不可能性について

『メアリと魔女の花』

観てきました。
感想を言うと、うーん、、、って感じでした。
正直、あまり好きではないといいますか。
違うな。好きじゃないわけじゃない。でもなんだろう、、、「なんか違う」というか「え、そんな感じ?」みたいな、うまく言葉で表現するのは難しいんですが、ぼんやりとした違和感を抱きながら観ていました。
おそらくですが、セリフとか間合いとかそのあたりの細かいところが、僕の生理的な好き嫌いのようなものと合わなかったのかなと。オープニング終わってからメアリが出てくる最初のシーンですでに、「ん?」って感じちゃってましたので。その最初の部分の小さなズレみたいなものが、全体的に尾を引いちゃってたのでしょうか。
でも、中盤あたりのストーリーでグイグイ引張っていく感じは、さすがジブリ仕込み!みたいな感じはありましたが。
でもそのストーリー展開の「都合の良さ」みたいな部分も少なからずありましたけども。プロットを転がすためだけに仕掛けられた小道具や演出、みたいなのが散見されてて、そこも「うーん」なんですよね。

っていうふうにまくし立てられてもなんのこっちゃって感じだと思いますので、ここらであらすじの紹介を!
どういう話かっていうとですね、、、
(以下、公式ページより引用〈こちら〉

赤い館村に引っ越してきた主人公メアリは、森で7年に1度しか咲かない不思議な花《夜間飛行》を見つける。それはかつて、魔女の国から盗み出された禁断の“魔女の花”だった。
一夜限りの不思議な力を手にいれたメアリは、雲海にそびえ立つ魔法世界の最高学府“エンドア大学”への入学を許可されるが、メアリがついた、たった一つの嘘が、やがて大切な人を巻き込んだ大事件を引き起こしていく。

魔女の花を追い求める、校長マダム・マンブルチューク。
奇妙な実験を続ける、魔法学者ドクター・デイ。
謎多き赤毛の魔女と、少年ピーターとの出会い、そして…。

メアリは、魔女の国から逃れるため「呪文の神髄」を手に入れて、すべての魔法を終わらせようとする。しかしそのとき、メアリはすべての力を失ってしまうーー。
しだいに明らかになる“魔法の花”の正体。メアリに残されたのは一本のホウキと、小さな約束。
魔法渦巻く世界で、ひとりの無力な人間・メアリが、暗闇の先に見出した希望とは何だったのか。

メアリは出会う。驚きと歓び、過ちと運命、そして小さな勇気に。
あらゆる世代の心を揺さぶる、まったく新しい魔女映画が誕生する。

というような物語なわけなんですが、冒頭に書いた否定的な感想っていうのが僕の中には、まあ、あるんですが。
でも、それで終わりにしちゃもったいない! せっかく1700円払ったのだから、もっとなんらかのものを吸い取ってやりたい、という貧乏性的な部分が僕にはありまして。
(以前『沖縄を変えた男』という映画でもおなじようなことをしました

なので、いわば、まさしくですね、ちょっといろいろ勝手に好きなように解釈して満足してやろうと、まさに、このように、思っているわけで、あります。

この映画って、王道ファンタジーといいますか、いわゆる「行って戻ってくる」話なんですね。
メアリが魔女の花によって不思議な能力に目覚め、異世界に飛び立つ。帰ってきたと思ったら、自分のせいでピーターが攫われて、救い出すために何度も異世界に戻る。んで、そこで、大きな力と対峙せざるを得ず、それを乗り越える過程で人間的に成長していく。みたいな。

メアリは、自分に突然到来した不思議で強大な能力(魔法)に魅せられ、その万能感に酔ってしまいます。調子に乗ってしまいます。それがいろんなことのきっかけでもあるんですが。
はてさて、この「魔法」というのは、この映画においては何の比喩として描かれているのか、ということを考えた時に、いろいろな見方ができるとは思うんですが、僕はそこに「言語」を見ました。
つまり、結論から言うと、この映画は「〈魔法=言語〉の〈万能性/私的所有〉を諦める話」と読むことができるのです。言い換えると、赤ちゃんが言葉を覚える=「他者」に晒されるという話です。

映画の中で、魔女の国で使われる魔法は、文字によって記述されていました。何語かよくわかんない文字。だからもちろん、メアリははじめそれを読めません。でも、能力をもった彼女は、その文字を運用できるのです。記述された文字=魔術を読み取り、使用するのです。
赤ちゃんは、母語を話す前段階で、音韻の獲得をしていきます。母語の言語体系における子音/母音の区別、発音体系、それらが用意されます。
その音韻が整備される前はブヨブヨとしていて、どのような言語体系にも対応することができます。
日本語や英語やスペイン語などの言葉を覚える以前に、それらの言語の音韻体系を赤ちゃんは覚えるのですが、さらにその音韻体系を覚える前段階では、どの言語にも対応できるような性質を赤ちゃんはもっているのです。
つまり、なんにでも姿を変えることができる能力=魔法を、このときの赤ちゃんは有しているということです。

メアリは、大叔母の家に引っ越してきたばかりで、まわりにはまだ同年代の友達なども少なく、大人に囲まれています。その大人たちの役に立ちたいといろいろとお手伝いを買って出るのですが、ことごとく失敗し、大人たちと対等な関係になることを挫かれます。「手伝います!」と言っても「大丈夫よ」と暗に拒否されてしまいます。これは、社会の中に身を置くことを延期させられた状態です。
でも、逆説的ですが、この「なにもできない」状態にあるうちが、もっとも可能性が豊潤な時期でもあります。乳児がどのような音韻体系にも対応できるポテンシャルをもつように、メアリはなんにでもなれる潜在的な「可能性」をもっているのです。

その自らの「可能性」の豊潤さを自覚したとき、つまりメアリが“魔女の花”を見つけ魔法の力を手に入れたとき、彼女は魔法の国へと誘われます。魔法の国は、その「可能性」が充満した場所でした。「魔法」によってどんなことでもできる世界。そしてその世界を、その魔法を、裏側で司っているのが「言語(=呪文)」です。
校長のマダム・マンブルチュークと、教授のドクター・デイは、メアリが持っていた“魔女の花”を奪い取るや否や、「変身魔法」の実験に取り掛かります。なんにでも姿を変えることができる万能・全能な存在をつくりあげること。それがマダムとドクターの長年の夢だったのでした。
これは言い換えると、「全能な言語」を獲得するということです。これはある見方では世界中のあらゆる言語を習得するということであり、別の見方をするなら個人が言語を思いのままに駆使することができる(言語の道具性)、ということです。

メアリ自身も、当初は自身が偶発的に手に入れた「魔法」に魅せられてしまいます。が、次第に「魔法」の負の側面、「手に負えなさ」にだんだんと気付いていきます。だからこそ、マダムたちとの不利な対決にも挑んでいくのです。
そして、最終的に、マダムたちの「変身魔法」の実験は失敗に終わります。「魔法」によって変身させようとした個体が、コントロール不能の化け物となってマダムたちを飲み込んでいくのです。

言語の全能性を追求した結果ぶち当たったのは、言語の「手に負えなさ」でした。それはすべての言語を獲得することが不可能であるということ、言語の私的所有(道具的使用;コントロール)が不可能であるということ、その両面をあらわしています。
マダムたちが生み出した化け物は、あらゆるものを破壊し、飲み込もうとします。でもその化け物は結果的に、そのときに用いられる呪文、「呪文の神髄」によって無効化されてしまいます。
そう、「呪文の神髄」は、すべての「魔法」を「無効化」してしまう呪文なのでした。
これは象徴的で、言語=呪文の「神髄」としてあるのは、全能性の獲得ではなく、無効化だということです。言い換えると「魔法」の解除なのです。
魔法=呪文=言語の獲得においてもっとも根本的なのが、それら自身の『「可能性」の解除』、『「可能性」の喪失』、『「不可能性」の受容』だということです。
これらを認めるとき、そのときこそ、乳児が言葉を獲得する瞬間であり、人が社会のなかに自らの存在を据える瞬間であるのです。

映画のラスト、メアリは「魔法」を捨てる決断をします。最後に残っていた“魔女の花”を投げ捨ててしまうのです。「魔法」を捨てたメアリは、現実に戻り、すこしだけ大人に変身していることでしょう。大人にその存在を認められ、社会のなかで立ち位置を見いだすことになっていくでしょう。
ただ、ひとつ気になるのは、“魔女の花”を使わないのに、なぜホウキに乗って家(現実)まで帰れるのでしょうか? 魔法使わなきゃ、そもそも家に帰れないんじゃないの? 後ろに乗っていたピーターに魔法の力が残っていたから? でもそれなら、なぜメアリがホウキを操っているのでしょうか? うーん。よくわかりません。ここ、物語的に破綻してません?
が、この疑問は、ここではグッと飲み込んでおこうと思います。

言語についての講話(第1回)

わたくし兼島が、保育園の保護者向けに行った「言語」についての講話の内容(文字起こし)です。
当初は他のことを喋ろうと思ってある程度準備していたんですが、途中からタガが外れたかのように思いついたことをバーっと喋っちゃいました、、、笑
でも、大事なことなのでいいよね(ニコッ)

『言語についての講話(第1回)』
(2017年5月、@エンジェルズスクール)

こんばんは。今日は、忙しい中ご出席いただき、どうもありがとうございます。
えーっと、今日はですね、今日はというか年間を通してこの勉強会においては、H先生と僕とで半分半分ずつ時間を使って、H先生の方が、主に「おしごと」の、あるいは普段の保育や日常の中でモンテッソーリ的な見方をどのようにしていったらいいか、どのように子どもたちを観察していけばいいか、そういった観点からH先生に話してもらいます。

で、僕はですね、主に「言語」のことをやろうかと。
一応「言語」っていうのは、モンテッソーリ教育の中でも大事なことで、おしごとの中にもちゃんと言語の教具や教材があったりします。なので、一応H先生がやることの守備範囲に、その枠組みの中に言語は含まれてはいるんですね。
でも、なんで今回、今回だけじゃなくて今年度の勉強会では、僕が担当する部分は全部言語についてやろうと思うんですけど、なんで言語をわざわざやろうかってことなんですが、簡単にいうとですね、モンテッソーリ教育の枠組みの中では収まりきらないからなんですね。言語が。

ちょっと勉強すると、まったくもって意味がわからないというか、いろいろとややこしいことだらけなんですね、言語って。
あまりにもわからないことが多すぎる。
例えば、それこそ「言葉をどうやって獲得するか」とかって、ビシッと説明できるようなメカニズムが解明されてないんですね。はじまりからして全然わかんないっていう。

でももっと不思議なのは、ぜんぜんわかってないのに、フツーに使いこなしてるってことですね。
どこで手に入れたかわからないものを上手につかいこなす能力っていうのが、そこが人間のすごいとこだと思うんですけど、でも謎ですよね。

たぶん普通に生活してたら、あんまり言語のその不思議さみたいなのって、あんまり意識しないと思うんですけど、一回意識するともう全然わかんないんですよね。僕はもう毎日意味がわからないんですよ、だから。
なので、今日は、お母さんたちにも意味わからなくなってもらおうと思ってます。

ほんとはですね、今日は最初なので、言語っていうのがモンテッソーリ教育の中でどう捉えられてて、教育のなかにどう位置付けられてるのか、みたいなことを話そうと思ってて、一応それで資料というか、ほぼ論文みたいなものも途中までですけど書いてたんですよ、概要みたいな。

でも、一回みなさんに意味わからんくなってもらって、そのあとで一個ずつ中身に入るっていうか、言語のことを一個ずつ考えていくっていう感じにしたいんですね、1年通して。
で、今年度の勉強会が終わったときに、言語についてちょっとでも新しい考え方とか、発見とか、役に立ったとか、そういった感じになってればいいなと思います。それを一応この勉強会での、僕の担当する「言語」のパートでの目標にしたいなと思います。
なので、今日は最初なので、意味わからんやつをやります。

***

まず、言語についてっていっても、言語とはなにか?みたいな話をやらないといけないんじゃないかなと思ってます。
「言語」っていうより「言葉」って言った方がいいですかね? 言葉って、たぶんいろいろとあると思うんですけど、コミュニケーションの手段っていうふうな捉え方がいちばんメジャーなのかなって思うんですね。伝える道具っていう。思ったこととか考えてることとかを、お互いに表現し合う、伝え合う、っていう、そういうものだと考えられると思うんですね。

でも、じゃあここでちょっと考えてみてほしいんですけど、お互いの感情とか考えを伝える手段ってことは、まず自分の考えてることがちゃんと言葉にできて、それが相手に伝わって、言ってることをわかってもらう、っていう流れで言葉は使われるわけですよね。
つまり、言いたいことの方が本質で、言葉っていうのはその表現手段ってことになりますよね。

言葉が伝達の道具だとすると、たとえば普通話す時って、わざわざ回りくどい言い方とかやるじゃないですか。婉曲表現とかっていうんですけど。
もし伝達手段なら、ストレートに言った方がいいんじゃないかって思いません?

たとえば「今度ご飯でも行きましょう?」って言われて、「いまちょっと忙しくて、、、」とかって断るのとか、よくありがちな返答だと思うんですよ。
でもこれ考えたら、「行けません」っていう答えの方が、道具の使い方としては正しいですよね。よりストレートに過不足なく伝えてるじゃないですか。
でも、ほとんどの場合こんな使い方しなくて、「忙しくて、、、」とか「いまちょっと金欠で、、、」とか極端なのだと「あぁ、、、」みたいな。わざわざそういう曖昧な使い方をみんなするんですよね。察して!みたいな。
道具としてはちょっと不便じゃないかなっても思うんですよね、そうなってくると。
洗濯機があるのに川に洗濯に行くみたいな感じじゃないですか。一応こういう比喩表現とかも道具としてみると無駄ですよね。

あと、「負けは負けだ!」みたいな言い方あるじゃないですか。
これって、よく考えたら当たり前のことしか言ってないんですよね。情報としては〈1=1〉ってただ同じこと繰り返してるだけなんですよ。
でもこの表現って、有無を言わさぬっていうか、強い圧力ありますよね。
「負けは負け」とか「私は私」とか「ヨソはヨソ、ウチはウチ」とか、道具としては何もしてないんですよ。

いま言ったようなこととかって、結局、相手を信用してないとできない表現なんですよね。
相手がこの意味をわかってくれるだろう、って思ってないとできない言い方なんですよ。
曖昧な言い方で伝えるって、道具としては中途半端な使い方だし。
直接相手の家まで行けばいいのに近くのコンビニで待っとく、みたいなことを、普段言葉を使うときにやってるんですよね。

とかってやってたらいつまでも終わらないので、ここらへんで一応ストップします。
要は、言語というのは、道具は道具でも、あまり直接的で合理的な道具ではないってことですね。だいぶ無駄を孕んだものなんです。その部分は、まあ当然みなさん思うことだと思います。

言葉は無駄を孕んだ道具って考えるとして、じゃあなんでいちいち無駄が入り込むのか?っていうのが今度は問題になってきますよね? きません? きますよね!

なんでわざわざ無駄なことをするのかって考えたら、無駄なことをすることで何らかの効果が得られるからだと思うんですね。
さっき婉曲表現って、デート断るのも直接言わずに「ちょっと忙しくて、、、」みたいな曖昧な言い方をするって話がありましたけど、あれもし直接断ると棘がありますよね。グサッときますよね。
そのグサって相手を刺さないために、やんわりと相手の傷を最小限にとどめる気遣いみたいなのが、「ちょっと忙しくて、、、」っていうフレーズには含まれてるんですね。
つまり言葉だけ、言葉だけっていうか音としてただ聞くと、「忙しい」ってただ言ってるだけの表現なんですけど、でもそこの裏側に「ごめんなさい、あなたとはデートに行けません」っていう丁重なお断りの意味が含まれてるわけです。
文脈とか状況とか関係性とかで、そういうふうな含みを言葉に付け加えて届けてるんですね。
こういう文脈とかから言葉を見ていくのを「語用論」っていうんですけど、そういうふうにして人は言葉を使ってるんですね。こういうのができるように道具としての無駄がたぶんいっぱいあると思うんですよ。

「忙しい」って単語を辞書で調べても、「ごめんなさい、あなたとはデートに行けません」って説明は絶対に書かれてないんですけど、でもそういう意味なんですよね、ここでは。って考えると、ここでもまた新たな問題が出てくるんですよ。

ふつうに考えたら、辞書を引いた時にそこに書いてある説明が、その単語の意味ってことになるじゃないですか。
でも、人が話している時に使っている言葉は、その辞書に書いてある意味からズレちゃったりすることがよくある。
そしたら、「意味」って何? ってことになっちゃうんですよ。

辞書を読んでたら、単語には固定された、その単語本来の意味があるっていうふうに思っちゃうんですけど、でもあれは、固定された正しい意味じゃなくて、あくまでも代表的な意味だと考えるべきなんですね。
「だいたい皆この言葉はこういう意味で使ってるよね」っていうなんとなくの了解がその単語の意味ってことで辞書に書かれてる。だから、ある語句とその意味とがきっちりセットってわけじゃ必ずしもないんです。

本来、辞書って、あるいは文法書とかもそうなんですけど、そういうのって、その言語を使う人が普段喋っている言葉を集成して編まれていると思うんですね。つまり、発話の集積が規則を作り出すんです。
ウィトゲンシュタインっていう哲学者がいるんですけど、この人が、「語の意味とはその使用である」って言ってるんですね。さっきいった語用論っていうのもこの人の影響をだいぶ受けてると思うんですけど。
ともかく、その言葉に意味があるんじゃなくて、どう使われてるかっていうのを追っていく必要があると。それが意味だと。
辞書とか文法書は、言葉がどう使われてきたかっていうのが表現されてる書物なんですね。
ウィトゲンシュタインについてはまた後ほど触れることになるかと思います。

そうやって、言葉の決まり、規則が出来上がっていくんですけど、でも一旦規則ができると、今度はその規則が発話を規定するようになってくるんですね。
「正しい日本語」とか「言葉遣いが乱れている」っていうのは、そういう認識のもとにしか生まれないと思います。
実際の発話行為を、規則を参照して成否の判定をする。
そういうプロセスを経るから「正しい」とか「乱れている」とかが言えるんですね。
そしてこの言語の規則が権威化してしまって、辞書とか、文法書とか、そういうのに書かれているのが正しい言葉だと考えるようになります。

この言語の規則に発話行為が規定されるっていうのが、また次の重要な問題になります。
さっきから問題が出てきすぎな感じがありますが。
規則とか言語体系とかっていうのは、人に、言葉の使い方を規定するようになります。
ただ使い方だけじゃなくて、物の見方とか、考え方とか、そういったことも、言語は規定してくるようになるんです。

たとえばオオカミと犬の違いってなんなのかって考えるとき、まあいろいろ生物学的な違いがあると思うんですけど、言語学的に見ると、「名前(呼び方が)違う」、っていうのが一番の大きな違いってことになるんですね。
どういうことかっていうと、名前によって、両者の間に線を引いたって考えるわけです。
姿形からしたらオオカミのことを犬って呼んだっていいはずなんですけど、本当は。でも大昔の人たちは、犬とオオカミの間に何らかの違いを見出して、片っぽを犬、片っぽをオオカミって呼んだ。その分類がいまもずっと使われている。そういうふうに考えるんですね。
だから名前をつけた、言葉を与えたことによって、オオカミっていう存在が誕生した。まあ実際にはもう絶滅しちゃいましたけど。
犬も同じで、もともと犬として存在していたわけじゃなくて。ほかのいろんな動物たちとの間で違う部分を見出されて、だからわざわざ他と別の名前で呼ばれるようになった。そのあとで「犬」として存在するようになった。
なので、名前や概念を与えられてはじめて、存在することができるわけです。つまり人は、言葉によって世界を切り分けて、分節化して見ているんですね。

もともと全体としての世界があって、それを切り分けて一つひとつの言葉と概念(物)が同時に誕生した。
だからその言語体系全体のなかにその言葉がどう位置付けられているか。あるいは他の言葉とどのような関係にあるのか。
言葉の意味っていうのは、その関係性があってはじめて成り立つものなんですね。

その関係性のあらゆるパターンというか、世界の切り分け方というか、そのような物の見方が、言語の規則としてまとめられていくんですね。
そうすると今度は、その規則を参照する人は、次第にそこに規定された物の見方をするようになる。オオカミと犬は別のものだという考え方がデフォルトになる。
というふうにして、言語の規則が、物の見方や考え方を規定するようになるってことが言えるんですね。

こういうような言語観を「言語相対論」っていうふうにいいます。
「言語が思考に影響を与える」っていう考え方ですね。これをもっと極端にして、「言語が思考を決める」って考えるのが「言語決定論」って言います。
でもさすがに「決定論」までいくと言い過ぎだろっても思うんですよね。なのでバランス良く「言語相対論」でもって僕は言語を捉えるようにしてるんですけど。

もうひとつ例を出すと、さんぴん茶ってあるじゃないですか。あれって、ジャスミン茶のことですよね。でも沖縄の人はさんぴん茶っても呼ぶ。両方使えるんですね、沖縄の人は、さんぴん茶もジャスミン茶も。
でも、たぶん沖縄の人ならなんとなくわかると思うんですけど、なんか違いますよね。
なんか、さんぴん茶の方は土着感ありますよね。ジャスミン茶の方が小洒落た感じありますよね。オシャレなカフェならジャスミン茶で、沖縄っぽさ全開の古民家カフェならさんぴん茶ですよね。
このなんとなくの秩序は、「ジャスミン茶」だけしか使わない人にはわからないんですよ。
こういうふうに日常的な言語に物の見方は規定されてるんですね。大げさにいうと、イデオロギーがあらかじめ組み込まれてしまうってことです。
そのようなものの見方をするように仕向けられているってことですね。

***

ここまでが、言語、言葉について、言葉とは何か、ってことを考えてきたんですけど、ここからが本論です。前置きが長い!っていう、、、すみません。

ここから、発達と言語のことを考えていきたいと思うんですけど。まずですね、発達心理学の有名な学者さんに、ピアジェって人がいるんですね。この人の話からはじめたいと思うんですけど。

このピアジェさんはですね、いまもたぶん心理学科では普通にこの人の理論習いますし、教育学部とか保育士の養成課程とか、僕自身も社会福祉士を取得する際にこの人の発達段階説っていうのを勉強しました。
さらにいえば、ピアジェの理論モデルって、モンテッソーリの理論と類似しているんですね。
どちらも子どもを観察することによってそれぞれの発達段階理論、発達モデルを形成していったので、共通することも多いです。今日はモンテッソーリ勉強会なので、ピアジェの理論を参照しながらモンテッソーリについて話すってことかと思いきや、ここではモンテッソーリはスルーします。さっき言ったように、言語についてはモンテッソーリ教育の枠組みでは捉えきれないことが多いので。

なので、ピアジェの理論もここで詳しくは述べませんが、ごく簡単に言うとピアジェの理論というのは、未熟で自己中心的な幼児が、だんだんと他者の視点・マクロな視点を獲得していき、それに伴走するように具体的思考から抽象的思考へと進んでいく、っていうような考え方です。

で、このピアジェさん、論敵がいてですね、二人いるんですけど、一人目がワロンっていう人です。
このワロンさんは、ピアジェの子どもの発達モデルは「個人主義的」なんじゃないか、ってことを言ったんですね。
ピアジェの考え方では、いちばんはじめからあらかじめ「私」が確立されていて、最初はひとりの狭い空間の中だけで活動したり考えたりすると。そして次第に周りの人たちや離れたところにも意識が向いていく。
ワロンはその理論の出発点に疑問を投げかけてます。「はじめから「私」と「他者」が分離してるけど、それ本当?」ってことですね。

ワロンは、まず全体があって、「私」と「他者」の区別っていうのはあらかじめ存在しない、っていうことを言いました。
はじめは、私=世界なんですけど、それがいつからか世界が分節されて、「私」とそれ以外=「他者」っていうふうになると。
その分節化がどんどんどんどん進んでいくのが発達なんじゃないか。ごく簡単にですがまとめると、こんなことを言ってます。

このワロンの理論って、さっき出てきた、言葉が世界を切り分けている、っていう捉え方とリンクしてるっていうのがわかるかと思います。
ただ、この論争のどちらが正しいとか、そういうのはよくわかりません。当時はワロンの方が優勢だったということですが、でもワロンは授業で習いませんでした。このへんのところは僕もよくわかんないです。

で、さっきピアジェに論敵が二人いたって話だったんですが、もう一人がヴィゴツキーという人です。この二人が争ったのは「内言・外言」という概念についてです。

内言っていうのは、「音声を伴わない言葉」のことですね。頭の中で考えたり整理したりするときも、言葉って使いますよね。そういう頭の中だけで使うのを「内言」っていいます。
で、「外言」は逆で、音声を伴う言葉のことですね。伝達の道具として捉えられるものです。この「内言」と「外言」では、どっちが先に発達するかっていうのが、二人の論点だったんですね。

ピアジェは、彼の理論を考えると予想できると思いますが、内言→外言っていう順番なんですね。
自分の中で考えるようになって、それが徐々に周囲に向けて発せられるようになる。これがピアジェが言ったことですね。
逆にヴィゴツキーは、いやいや、言語っていうのは他者によってもたらされるんだから外言→内言でしょ、というふうに言った。
言葉がどう使われているのかを把握した後でしか、頭の中での言葉は使えないということですね。この論争も、ヴィゴツキーの方に軍配が上がりました。ピアジェ2連敗です。

ワロンとヴィゴツキーはどちらも、全体との関係性あるいは他者との関係性を各々の発達理論に持ち込みました。
ワロンは発達を私=世界が切り分けられると見立て、ヴィゴツキーは他者の言葉やその働きかけが私の思考を形作るとしました。
この「切り分け」や「他者」というキーワードから派生して、もう一人取り上げたいのが、ラカンという人です。

ラカンは、精神分析の人です。フロイトってご存知ですかね? フロイトは精神分析のパイオニアなんですが、その人の正統的な後継者だとラカンは自分で称しています。

ここで精神分析について説明すると大変なので今日はやりませんが、いろんな文学や映画などの解釈などにも使われたりしています。で、ラカンなんですが、この人の言ってることがまぁ難しいんですね。やたらと変な概念をいじり回して語るので、絶望的なくらい意味がわからないってことがよくあります。

ラカンは、「私」という存在の認識と、言葉とが、とても大きな関係を持っているってことを言いました。
もともと乳児っていうのは、母親と同一化しているっていうふうに考えたんですね。母親とずっとくっついて、食事のときも排泄のときも。
そのときの赤ちゃんというのは、とても安心感に満たされていて、私=母親なんですが、さらに母親=世界でもあるんですね。母親だけで世界が成立している。それでいて私は母親と同一化している。つまり私=母親=世界なんですね。

ところがあるとき、母親から引き剥がされてしまうことが発生する。母親が不在になってしまうことがある。
そのときっていうのはまさしく世界の危機ですよね、この子にとっては。
ここらへんの細々したところはややこしいので触れませんが、母親と引き剥がされた子どもが、母親を呼び止めるために必要となるのが、言語です。
「ママ」っていう言葉です。
それによって、母親が取り戻せるかもしれない。

ただ、ここで言語が介入することで、この子にとっては大きな出来事が起きるんですね。「ママ」と呼びかける対象ができたってことは、同一化していた母親との間に線が引かれたってことですね。
さらに、「ママ」という呼び名が発生した瞬間に、母親は母親そのものではなく、「ママ」という言葉を通した存在っていうふうに姿を変えてしまうんですね。

さらにラカンの重要な概念に「鏡像段階」っていうのがあるんですが、赤ん坊が鏡の中に映っている自己像を自分の姿であると認識することをいいます。この鏡像段階で「私」というものに出会ってしまった子どもは強い衝撃を受けるわけです。

母親と自分が違った存在である。
世界の中に「私」が存在してしまっている。
言語の介入によって「ママ」という言葉(見方)を通してしか母親に触れることができない。
このようなことを起点にして発達がはじまります。

ヴィゴツキーが言ったように、言語は他者の言葉=外から内にやってきます。たくさんの人の思考によって織り上げられた言語規則が、子どもの思考や物事の見方を規定するようになります。
ラカンは、介入してきた言語によって織り上げられた世界のことを「象徴界」と呼び、また「大文字の他者」とも呼びました。つまり絶対的な他者ということです。

わたしたちは、目の前の世界をそのまま現実だと思って過ごしてますけど、実はちがうんですね。
言葉によって、つまり象徴界によって切り分けられて、秩序づけられた後の現実っていうのを見てるんです。
それをラカンは「想像界」っていいました。いま話題の仮想現実的なイメージですかね。
映画のマトリックスで、キアヌ・リーブスたちが闘ってた世界が想像界で、緑色のプログラムコードがワーッて降ってくるみたいなシーン、あれが象徴界です。
象徴界によってコーディングされた想像界っていうのを人は生きてる、ってラカンは考えたんですね。
もうひとつ現実界ってのもあるんですけど、それは言葉を持ってしまった人には触れられない領域であるっていうふうにしました。

これ以上ラカンについて触れるといよいよ迷子になってしまうので、そろそろ終わりにしますが。
言いたかったのは、子どもが言葉を獲得するそのはじまりのときに、言語によって規定された現実っていう中にいつのまにか投げ出されてしまってるんですね。
目に見えている世界の裏側に、それをプログラムしているコードがある。
さっきも話した、規則によって見方や思考が規定されるっていうのが、またここでも出てきました。

ただ、面白いのは、そういう規則、つまり言葉のルールとかって、とくに母国語の場合は、頑張って勉強して覚えたってわけではないですよね?
なんとなく、この言葉はこんな意味だなって、使えるようになっていきましたよね。

ここでさっき言ったウィトゲンシュタインって人がまた出てくるんですけど、この人が「言語ゲーム」っていう概念を考えたんですね。
「語の意味とはその使用である」っていう言葉は、この言語ゲームについての考察から出てきたんです。
たとえばゲームって、サッカーでも将棋でも花いちもんめでも、それぞれにルールがありますよね。で、プレイヤーはそのゲームのルールに従って動くわけです。

たとえばサッカーをしている少年たちを遠くから見てるっていう状況を思い浮かべてください。
しばらく見てたら、急に誰かが、ボールを手でつかんで走り始めたら、「え、ラグビー?」ってなりますよね。でも、子どもたちは楽しそうに続けている。
って思ったら、今度はそのボールを人に当てて周りは逃げるみたいな「ボール当て鬼ごっこ」になってたと。
それも横から見てる人は困惑しますよね。なんのゲームをやってるのと。
でも子どもたちは、戸惑いもなく遊びまわってる。
プレイヤーの子どもたちは、他のプレイヤーの振る舞いとかを見て、なんとなくルールを掴めているんですね。
外から見て客観的に勉強しようとしたら、実はそっちの方が難しかったと。
この事例をそのまま言語に応用すると、言語ゲームの考え方になります。

ある集団があって、そこではある種のルールによって語の使い方が決まっていると。
「りんご」っていう言葉が何度も出てきて、遅れてきたプレイヤー(幼児)は、その「りんご」の使われ方を見て、自分も使ってみる。
周りが特に変な反応を示さないなら、その使い方はオッケーってことですね。
そうやって語を獲得していくと。

で、それぞれの集団によっては全部ルールが違う、つまり使い方が違ったりする。
ゲームとゲームの間には「家族的類似性」っていうのがあって、「どこがとかじゃないけど皆なんとなく似てるよね」、っていう家族の顔が似てるよねっていうのが家族的類似性ですけど、そんなふうな仕方で言語ゲーム間、集団間でルールに類似性があると。
だから、他の集団で使用した「りんご」をここでも使うことができる。
それで周りの反応が大丈夫であればオッケー、っていうことですね。

だから全部言語ゲームなんだ、っていうふうにウィトゲンシュタインは言ってるわけですね。
りんごに意味があるんじゃなくて、どう使われてるかを体得するのが、言葉の意味を知るってことだよと。

成長して、言語をうまく話せるようになってきてはじめて、「これは〇〇って意味だよ」っていう教え方でも理解できるようになるんですね。
だから、例えば英語と日本語とか、子どもが2つの言語を一気に覚えるのと、母語を習得した後に第2言語を習得しようとするのは、まったく別のプログラムなんですね。
これに関してはみなさんなんとなく解ってらっしゃるとは思うんですが。

園でも、僕が担当して「こくご」の時間っていうのをやってるんですけど、上のクラスは劇をよくやってます。
即興だったり台本使ったりもしますけど、即興の場合は日常的なシーンで、例えば親子で買い物とか、食事とか、子どもにとっては、お父さんお母さんとか他者が使う言葉を喋れるような言語ゲームの場にしたいと思っています。
BCグループは、まだ劇とかには入れないんですけど、最近は大きい小さいっていう言葉を使ってレッスンをしました。
特に面白かったのは、Lちゃんは純粋なアメリカ人なんですが日本語ちょっとずつ上手になってきてるんですね。
ただ、大きいと小さいについてはわかんなかった。でも実物やカードを2つ使って「大きいのはどれ?」とか「小さいのどれ?」とかを、他の子も一緒にやってたら、後半はLちゃん個人的に質問しても、ちゃんと応えられるようになってました。
こういうのを見ると、「なるほど、意味とはその使用だな」っていうのがなんとなくわかるような気がします。