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「蓬莱2」に関する(またもや)いくつかの仮説(その3)

さて、いよいよ、仮説3である。お待たせしました。
はて、誰がこれを、お待ちしていたのだろうか。
うるさい。そんなことは関係ない。誰が読むとかは関係ねー。俺が書きてーんだ!それが一番大事なんだ!それ以外なんにもいらねーんだよ!
てな感じでかっこいい啖呵を切ってみたいではありますが、でも結局読まれたいよねー。
1日のPV数5000万とかなってアフィリエイトとかで生活とかしたいよねー、あとはしれっと一時期流行ったステマブログ的な感じでちゃちゃっと稼ぎたいよねー。
まあ別に手段とかは問わないというかなんでもいいからさ、お金欲しいよねー、というかもうちっと詳しくいうと、働きたくないよねー、働かないままに生きていきたいよねー、蛇口ひねればジュースとか出てきてー、頭とかガリガリ掻いたときに出てくるフケが実は美味でしかも栄養価もバリ高いみたいな奇跡が起こればいいのに。ほんと。

さて、本線に乗る前に脱線してしまいました。それははたして脱線と呼びうるのかという問題はそのままにしていきたいと思います。

仮説3_琉球舞踊とは、濃縮還元である。

仮説1_琉舞とはプログラミングである(真っ白な腕と片足立ち)
仮説2_舞台上の時空は歪んでいる(特殊相対性理論的な)

わたしって、ファミレスが好きじゃないですか。で、ドリンクバーとかよく注文するじゃないですか。注文するんですよ。
で、やっぱり元を取りたいっていう心理がはたらくもんだから、お腹タプタプになるくらい、誰かに腹部を圧迫されたらプシューって口から水分吹きますみたいな、「オス!オラ、マーライオン!」みたいな感じになること瞭然なくらいに飲んじゃうのです、ジュースを。

居酒屋より、ファミレス行きたいよねほんとは。
今度から、カクテルをカラコロ作るバーよりも、機械でドワーッってやるドリンクバーにしません?
ってこれは誰に向けた言葉なのかな?
まあいいや。ちなみに、この文章もドリンクバーのあるファミレスで書き書きしているわけで、って考えたら、お金もらうどころか減ってるじゃん!なんなんだよ!領収書切るよ?いいの?アテナどうしたらいい?

はぁ、本線に乗るのはなかなか難しいのですね。
濃縮還元ってあるじゃないですか。
100%オレンジジュースとかで、「濃縮還元」って書かれてるやつは、オレンジを絞ったやつそのまんま(ストレート)というわけではなくて、一度水分を飛ばして粉状にするなりペースト状にするなりして濃度を高めた上で、後で水分を加えて濃度を戻すってことをやってるわけですね。
ファミレスのドリンクバーのジュースたちは、濃度の高い液体を、注ぐ時に水と混ぜて濃度を戻すってなことをやってる、この濃縮還元のやつなわけですね。
グラスを置いて、ボタンをピッてしたら、ジャーってなって、濃度高めの汁と水とが両方ドボドボ出てきて、グラスの中で混ざってちょうどよくなる、みたいな。
でもたまに、おいおい、これ色がついたただの水じゃん、みたいな。

さて、この濃縮還元が、琉球舞踊とどのような関係があるのでしょうか。
言い方を変えます。
ここからどうやってこじつけるのでしょうか。
つまり、これからわたしはどうすればいいのでしょうか。困ってます。

今回の『蓬莱2』と、前回公演『蓬莱』(便宜上、この後は『蓬莱1』と記します)のちがいは、もちろん演目もちがうんですけど、前回は一番はじめ(第一部)にあった素踊りが、今回は一番最後(第三部)になっていたんですね。
そのちがいのせいか、前回は気づかなかったのだけど、今回はっきりとわかったことがありました。
それは、踊り手が「汗をかいている」ということです。

やっと本線入ったと思ったらソッコーで結論めいたことを書いてしまうという。
それならスッと書けや!という文句を垂れる人がもしいたとしたら、その人はわたしにドリンクバーの料金くらい立て替えてから言ってください。
まあ、どうせいないでしょうけど。
そもそも読者もあまりいないのだし。

「汗」について、じゃあ、書いていきます。
「素踊り」ってのは、琉舞の踊り手たちが、化粧をせずに素顔のままで披露する踊りです。基本琉舞は真っ白に化粧を施して踊るわけですが、スッピンを晒しちゃうわけですね。もしかしたらちょっとはメイクしているのかもしれませんが、インスタとかでよくやられてる「すっぴんメイク」的な。

『蓬莱1』についての記事のなかで、(コチラ)

琉舞における化粧や衣装というのは、着飾ったり綺麗に見せたりというよりも、むしろ踊り手たちが持っているそれぞれの個人的特性を隠蔽し、同質化・均質化を図るための装置である。
(『蓬莱1』:仮説4_「蓬莱」における「素踊り」は、「革命」を志向する行為である)

と書きました。
加えて、『蓬莱2』の仮説1では、「完璧に設計された(プログラミングされた)動きが、琉舞の理想である」ということも書きました。

個人を隠蔽し、同質化し、機械化する、このようなラディカルな指向性を琉舞はもっていたと考えることができます。
そのようなベクトルに対する、ある種の「抵抗」あるいは「革命」として、「素踊り」があるのではないか、というのが、『蓬莱1』における仮説4(「蓬莱」における「素踊り」は、「革命」を志向する行為である)の論旨でした。

素踊りによって、王府の目指そうとする、踊り手たちの「没個性化」「同質化」「機械化」というものから逃れる、あるいは立ち向かう。
それってつまり、「人間性」の確保や回復を願っての行為だといえると思う。

その「人間性」っていうものを、前回(蓬莱1)の記事においては、「化粧をしないこと」によって回復しようとしているとした。
でもそれだと、ネガティブな形式での存在証明にしかなり得ない。
つまり、自分が「没個性的・同質的・機械的では“ない”」ことの告白によってしか人間であることを立証できないということである。
「わたしは機械ではない、だから、人間である」というふうにしか、これでは語ることができない。

踊り手たちは、「ない」ことではなく、「ある」ことによって自らの「人間性」を担保したい。
そこで、「汗」である。言い換えると「水分」である。
プログラミングで設計された機械にはなくて、人間にはあるもの。
アンドロイドにはできなくて、人間にはできること。
それは、「汗をかくこと」である。

第三部の素踊りの際、踊り手たちの額や首筋には、うっすらと、でもはっきりと、汗が滲んでいた。
光を反射し、煌めいていた。
水分を含むか含まないか。
そこに、人間と機械との境界線が引かれるんじゃないか、そんなことを思わされた。

琉球舞踊は、オレンジを絞った果汁から水分を抜き取って粉末にするみたいに、美学や芸術性をその形式性に濃縮して保存期間を延長してきた。
「伝統」として、保存され、代々受け継がれてきた。
琉舞を琉舞たらしめる、真っ白な化粧、華美な衣装、完全なる「型」(プログラム)、それらはすべて、その「伝統」をできるだけクラシカルな形で再現するために必要な装置である。
つまり、抽出して濃度を高めた「伝統」に、踊り手=水を加えることで「搾りたて」の状態に戻すというわけだ。

そのためには水の量や質が、とても重要になってくる。
量を間違えれば味が濃くなったり薄くなったりするし、蒸留水か自然水か、あるいは硬水か軟水か、によっても味わいは変わってくる。
どんなに「伝統」の抽出度を高めても、それを戻す(演じる)踊り手によって味は揺らいでしまう。

だからこそ、水の質や量を一定に保つ必要がある。
その品質管理を徹底するために、踊り手の「没個性化」「同質化」「機械化」を目指そうとするわけだ。

でも、踊り手たちをいかに機械に近づけたとしても、拭っても拭っても拭いきれないのが、「汗」。
このことを、第三部の素踊りで化粧を落とすことによって、踊り手たちは暴露した。
「汗」こそが、踊り手を人間たらしめる、機械化への抗いのための唯一の装置なのである。
この「汗」によって、踊り手は、否定による存在立証から脱却することができる。
「わたしは機械ではない、だから、人間である」ではなく、「わたしは汗をかく、だから、人間である」という語りを獲得することができる。

人間と機械の境目、それは、汗をかくかどうか。
汗をかくということは、人間であることの証明である。

であるなら、隣の奴が汗臭くても、それに嫌な顔なんてしないで、ああこの人はちゃんと人間らしくいるのだなあと思ってほしい。
思わなくてもいいけど、嫌な顔はしないでほしい。
もし嫌なら、しれっと遠ざかってほしい。
お願いだから、そうしてほしい。

だって、気にしちゃうのです、わたし。

アイウォンチュー、シーブリーズ。

「蓬莱2」に関する(またもや)いくつかの仮説(その2)

さて、仮説2つめです。
絶対的にややこしくなることは目に見えているのでやめようかなーなんて思いながらここまできましたが、まあでもややこしいことってのは大事です。っていう趣旨のことをだれかがいうたびにそうなんですよ!って我が意を得たり的なそんな感じで、いや違うなわかりやすくできないことの罪が軽減されるような気になるんです。
、、、なんの話だ?

仮説2_舞台上の時空は歪んでいる(特殊相対性理論的な)

仮説1_琉舞とはプログラミングである(真っ白な腕と片足立ち)
仮説3_琉球舞踊とは、濃縮還元である

琉球舞踊公演『蓬莱2』の第2部は、6名のうち3名が、ひとりずつ古典女踊を披露し、他の3名が一緒に雑踊を踊る、という構成。
普段琉球舞踊を見慣れない私のような人間(あえて一般化してみる)にとっては、「女踊」が一番の鬼門なのである。

どういうことか。
……眠くなるのである。
なぜか。
……動かないからである。

誤解があってはいけないから言うが、つまらないのではない。
踊り手の纏う衣装は色彩鮮やかで美しく、それとは逆向きのベクトルというか、俯き気味の顔から醸し出されるアンニュイというか陰というか、そういうのが「色気」たっぷりである。
それと、動かないといっても、突っ立っているわけではない。ちゃんと動いている。むしろ、動き続けている。

でも、なんで「動かない」なんて書いたかと言うと、極限までスローかつミニマルな動きを突き詰めた、過剰なまでの抑制こそが女踊の本質(だと思っているんだがいい?)だからである。
以前の記事に書いた(コチラ)ように、女踊の形式には、琉球舞踊が発展した時代の女性観が反映されているのではないかと思っている。
その女性観というのが、つまり求められているのは「淑女性」なのではないか。

と、いくらここで長々と何かを語ったとしても、ウトウトしてしまう罪が軽減されるものではない。
「でもだって、音楽とかも心地良いんだもーん」と、いっそのこと開き直ってしまった方がむしろ清々しいんじゃなかろうか。
でも、それだと、ところどころ意識は飛んでいるけども精一杯瞼を押し広げていた自分の努力が誰にも伝わらない可能性が高い。
だから、という接続詞がふさわしいのかは疑問だが、だからわたしはこうしてテキストを書いているのである。(つまり罪滅ぼし?!)
でも、でもちゃんと言っときますけど、寝てません!
ウトウトしたのは、意識が度々飛んだのは認めますが、断じて寝てません!

さて、わたしは誰に向かって許しを請うているのでしょうか。

女踊の動きが遅いのは、先述したように「淑女性」を求められているから、というのが前記事での仮説であった。
今回は、そこから発展して、劇場に流れる時間について考えていくことになる。「淑女」から出発してアインシュタインの特殊相対性理論に行き着くことになる。

でははじめます。

えっと。

舞台上の「女性」(踊り手)は、淑女なわけであります。上品で、落ち着いていて、慎ましい。
艶やかな着物に身を包みながらも、表情や仕草、あらゆる所作は控えめで奥ゆかしい。
そんなレディな彼女は、でも、心の中に、秘めたる想いがあるわけです。
それはたとえば、淑女であるがゆえに自ら言い出すことのできない悲しき恋心。
あるいは、結婚の契りを交わしながら、遠く離れていってしまったあの殿方への燻った感情。
古典女踊の歴史性とか、型や振りの意味などはとんとわからぬのですが、女性(踊り手)の動きはそういったことを表現しているのではないかと思うのです。

これについては完全なる私観であり、そこを仮説の出発点にするというのはどうでしょう?なんてモヤモヤもないことはないですが、どうせこれは研究論文でもなんでもないのです。
どーせ無責任な論だからいいのです。

そう、だから、舞台で踊っている女性(踊り手)は、恋しい相手への果たせぬ想いを静かに、でもはっきりと表現しているわけであります。
淑女は、その想いがいつか実ることを祈りながら、ただひたすら待ち続けているわけです。
淑女は、自らアクションを起こすことはせず、殿方の到来を待ち焦がれているのです。

でも、もうすでに、彼女の心は張り裂けんばかりに想いが膨らんでしまっています。
彼女は淑女だからそれを表には出しませんが、でも、彼女の魂はそうではありません。
そしてついに、彼女の内なる叫びが、音のない咆哮が、世界に向かって炸裂したのです。殿方の元へ向かって、「光」の速さで飛び出したのです。

さて、「光」が、やっと出てまいりました。
正直これまで書いていたのは、「光」を引っ張り出すためのこじつけのようなものであります。
光の速さで発射された彼女の魂は、実は、彼女が立つその地ごと運んでいたわけであります。
つまり、舞台上は光速で移動していたというわけです。

ここで、「特殊相対性理論」が登場します。
その理論によれば、高速で動くものの内部は時間がゆっくりと進行します(◆1)
何年も宇宙旅行に行って地球に帰ってきたら時代が変わっていた、みたいなSFの話とかをイメージしたらいいですかね。
え、じゃあ、浦島太郎の話とか、ドラゴンボールの精神と時の部屋とかもそういう原理なんですかね。
ということは、亀は太郎を拉致した工作員で竜宮城は超高速で動く宇宙船だったのですかね。
ということは、精神と時の部屋も、異常な速さで部屋自体が運動していたというわけですね。

そんな話はいいので、舞台上の時間の話でした。
舞台上は、彼女の、彼のもとへと向かって疾走する魂に引きずられて、光速に近い速度で移動しているのでした。
彼女の果たされぬ想いがその地にこびりついて、やがてそれは地面ごと引きずりながら加速し、光に近づいた。その結果、彼女の魂が、時代を超えて今観客の前に現れてきている。
そういうふうにこの古典舞踊を見ることはできないだろうか。

だとすると、舞台の上で展開されているのは、古の女性の姿の「再現」ではない。その時代の淑女の魂を、踊り手という肉体に投影しているのである。
淑女のその魂は、今この時代にまで流入し、わたしたちの目に映っている。

彼女にとって、そして彼女が立つ場(=舞台上)においては、時間はとどまることなく、何の違和感を感じることもなく流れている。
でもその場自体は、乗り物として、光速に限りなく近い速さで動いているので、アインシュタインの理論を信じるなら、舞台上と客席との間で、時間の歪みが発生している。
こちら側(客席)とくらべて、向こう側(舞台)に流れる時間は、相当に遅れてしまっている。
だからこそ、彼女の動き(踊り)は、ゆっくりとしているのである。

その歪みが、舞台に立つ踊り手のすべての所作を遅延させ、女踊の芸術性を際立たせている重要なファクターなのではないか。
そしてそれこそが、わたしを眠気に誘う犯人なのではないか。
だって、こっち(客席)の時間は早く進んでいるのだから、上演の途中で寝る時間になってしまうじゃん。

特殊相対性理論でおもしろいのは、動いている物体の時間は遅れている(ゆっくりに見える)のだが、動いている物体から止まっているものを見たときも、同じように感じるということだ。
たとえば、Aくんが歩道に立っていて、すると目の前を自動車が猛スピードで過ぎ去っていった。そのときは、当たり前だが車が動いている。
でも、その自動車の中から見たとき、動いているように見えるのはAくんの方である。

客席から舞台上(踊り手)を見たとき、向こう側の時間はゆっくり進行している。
翻って、舞台上から客席を見たとき、光の速さで動いている(ように見える)のはわたしたちがいる客席の方である。
ということは、向こう側からは、こちら側の時間の方が遅延して感じられているということである。眠っている観客を見て、「まだ寝てるよ」なんて思っているということである。

ここで、淑女の恋心の話に戻ります。
彼女は、焦がれるような想いを胸に秘め、誰かを待ち続けていたのでした。
でも、その待ち人はいつやって来るのかわからない。もしかしたら、やって来ないかもしれない。
でも彼女は淑女であるから、自らアクションを起こすことはできない。恋の成就に向けてスタートを切ることができない。
だから、彼女は、孤独に、佇んでいる。

それを見ている周りの人は、その姿を不憫に感じながらも、ムズムズしてたりする。なんなら、若干イラってしてたりもする。そんなに好きならそれを表現したらいいじゃないか、とか、あるいは、どうにもならないんなら切り替えるしかないじゃん、とかって思う。そんなんじゃ何にもはじまらないじゃないか、って。
つまり、彼女の時間は、人生は、停滞している、遅延している。
否応無しに進んでいく、流れていく周りの世界に、彼女は取り残されている。

でも、淑女から世界を見たとき、むしろ停滞(遅延)しているのは、世界の側である
なぜなら、待ち人がやってこないから。
彼女の気持ちのほうが先を行き過ぎてしまい、それに追いつこうとしない、つまり愛しい殿方を連れてくることのないこの世界は、動きを止めてしまったも同然なのである。

いつまでも待ち人を待ち続ける淑女を見つめる周囲の視線と、ゆっくりと動く女踊の踊り手を見つめる観客の視線は、相似を為している。
また、淑女から見た色の褪せた世界と、踊り手から見た客席の風景もまた、同様である。

客席から見た舞台上は遅延している。
舞台上から見た客席は遅延している。
世界から見た淑女は遅延している。
淑女から見た世界は遅延している。

このような仮説が、特殊相対性理論を用いることで浮かび上がってきた。
だからなんだ? って感じかもしれない。
それがなんになるんだ? って感じかもしれない。
でも、ここまで書いてきて、個人的に、なんかちょっとだけ救われたような気分になっている。
なぜか。

淑女のいる世界の住人たち、そして劇場内にいる人たちはみな、この仮説を了承しているからだ。
ムズムズしてたり、ウトウトしてたりするが、それでもまあわかったって、関係者がみんなこの状況を受け入れている。

すこしわかりづらいかもしれない。
こう書き換えたらどうだろうか?

世界から見た「私」は遅延している。
「私」から見た世界は遅延している。
その遅延を、世界も私も了承している。

これって、遅延や停滞を、非難や中傷の対象にすることがデフォルトになってしまったようなドライな現代社会を逆照射しているようにも受け取れるし、遅延や停滞を、肯定まではいかなくても受容してくれるような、そんな社会の姿を見せてくれているようにも感じた。

ということはつまり、公演中にウトウトしてしまうわたしを、みんなが了承してくれているのだと、そういうことなんだと思うわけです。ええ、たぶん、きっと、そうなのです。そういうことなのです。ええ。

(◆1)
まず、「光速度不変の原理」というのがあって、光の速さは、観測者の運動状態によって変化したりすることはありません。
止まっていようが動いていようが、どんな状態であろうが、光の速度は変わらないのです。

超高速で動く宇宙船の中で、天井と床にそれぞれ鏡を設置して、その間を光は1秒で動くということにします(これを「光時計」といいます)。
宇宙船の中でそれを観測している人から見ると、光は床や天井と垂直な方向で上下に行ったり来たりして、その時計は確実に1秒ずつ刻んでいます。

でも、それを、地上(宇宙船の外)から観察している人がいるとします。
するとその人から見える光の運動は、地面と垂直の方向からは、進行方向に向かってやや斜めに傾いているように見えます。
となると、光が運動した距離は、宇宙船内の床と天井の距離よりも長くなっていることになります。
(これは、物体を乗り物の中で落下させる運動を外から観察するのと同じようなことです)

そのとき、地上にも光時計を設置して、宇宙船のなかのそれと比べた場合、光の速さは変わらないので、地上の光の方がはやく1秒を刻むことになります。言い換えると、宇宙船内は時間がゆっくり進んでいることになるのです。

「蓬莱2」に関する(またもや)いくつかの仮説(その1)

去年、『「蓬莱」に関するいくつかの仮説』という記事を書いたんですけれども(こちら)、4月7日(土)に、2度目の公演があったのでした。
またしても悪友・玉城氏が出ているので、観に行ってきたのですが、いろいろと新たな仮説が浮かび上がってきたのでございました。
というわけで、今回もまた、無責任なことをダラダラと書いてみようと思うのであります。

仮説1_琉舞とはプログラミングである(真っ白な腕と片足立ち)

仮説2_舞台上の時空は歪んでいる(特殊相対性理論的な)
仮説3_琉球舞踊とは、濃縮還元である

第1部の創作舞踊「春曉」において、踊り手達は紫紺の着物をまとっていた。
それはとても美しくて、踊り手が動き、布が揺れ、その度シワの部分の色が濃くなったり淡くなったり移ろっていて、そのグラデーションにとてもうっとりとさせられた。
その綺麗な布のその袖から、真っ白な腕が生えている。紫と白のコントラストが、さらに美しさを助長していた。

なーんつって書いていますけども、実際のところわたしは、衣装の美しさよりも腕についた白粉のことがずっと気になっていたのでございます。
どういうことかっていうと、袖に、それから持っている扇子に、白い粉がついちゃうんじゃねーだろーか、ということです。汚れちゃうよーなんて、余計な老婆心を抱いてしまっていたのです。集中せい!というやつです。

でもね。やっぱ気になっちゃうものは気になっちゃうので、ずっと腕の白粉ばっか見てたんです。
すると、あることに気づいた。
顔や首元や手の甲はそうじゃないんだけど、手のひらに施した化粧だけは、踊り手によって濃さが違うんです。
なぜか。
まあ、特に理由はないんだろうと思います。踊りのなかで扇子や袖を持つことが多いから、踊り手個人の塩梅で調整しているのでしょう。
でも、無責任な観客であるわたしは、そこにいちいち意味を見出して偉そうにしたいのです。たとえそれが、悪ふざけな論であったとしても。

以前の記事で、こんなヘンチクリンなことを書きました。

つまりですね、琉舞において実現すべき(表現すべき)ものは、きっちりと静止した完全なる「型」であって、それぞれの型から型への移行のための身体運用、すなわち「過程」を、そこでは「ないもの」として考えてください、ということなんじゃないか。
イメージとしては、動画ではなく、連続写真のような感じ。
膨大な量の、極度に細分化された「型」に身体を当てはめ、それを見ているわれわれ観客には「動いているように見える」、というような見立てで持って琉舞を見ることが可能なんじゃないか、と思ったわけであります。

この仮説を延長させて考えていくと、「プログラム」の概念で琉舞を見ることも可能なんじゃないかと思ったのです。
つまり、完璧に設計された(プログラミングされた)動きが、琉舞の理想である、という見立てです。
もちろん人間が踊っている以上そんなことはできないわけですが、極度に細分化されたひとつひとつの所作(型)をデジタル信号として組み込んだアンドロイドがもし存在したとしたら、踊り手達と同じ動きを実現することが可能なんじゃないだろうかと思ったのです。

でも、誤解のないように書いておきますが、これは、踊り手は機械化できるとか、何も考えずに踊っているとか、そういうことを言いたいのではありません。
そうではなくて、舞踊家たちはそれほどまでの膨大で細やかな所作を要求されるストイシズムな存在だということです。

そのことが表されているように感じたのは、舞踊のなかで多発される「片足立ち」です。
これまで(少しだけですが)見てきた舞踊と比べて、この「春暁」のフリにはやけに片足立ちが多いような印象を持ちました。

片足立ちって、速いテンポの中では特に気になりませんが、スローな流れの中で課されると、バランスを保つのが難しいし、見る側もその「ゆらぎ」や「ふるえ」などから不安定な印象を抱いてしまいます。
でも、「春暁」のなかではこの「片足立ち」をなんども求められる。
化粧によって素顔が隠蔽されていたり、着物によってシルエットがぼかされている踊り手たちですが、実装されたプログラムの実行(片足立ち)とその反復によって、アスリートな身体性が浮かび上がってくるのです。

という論をここで大きく飛躍させて、踊り手たちは、機械の身体を実装しているという見立てを採用します。
ひらたくいうと、彼らはアンドロイドであるとします。
以前の記事にもかきましたけど、(コチラ)わたくし最近、『ブレードランナー』にかぶれておりまして、アンドロイドのことをよく考えるのです。
で、そのときに絶対に考えざるを得ない論点というのが、「機械と人間の境界」ってことなんです。
で、先ほど述べた、手のひらの白粉についてです。
踊り手たちは、顔や首元はもちろん、腕や手の甲にもしっかりと化粧を施していました。
でも、手のひらだけはその濃さがちがっていたのでした。
手のひらと手の甲の白さの「差」、そこに、機械と人間の境界があるのではないか、と思ったのです!
(何を言っているんだお前は!と思っている方へ。私もそう思います)

ここで無理やりメチャクチャなロジックを組み立てると、手のひらの化粧が濃いほど、言い換えると手のひらと甲の白さの差異が小さいほど、その人は自らのアンドロイド性を強く自覚しているということです。
逆に言えば、手のひらの化粧が薄い人は、アンドロイドと人間の狭間でアイデンティティの「ゆらぎ」を覚えているということです。

6名の中で、わたしから見て、もっとも手のひらの化粧が濃かったのは、阿嘉さんでした。つまり、阿嘉さんはアンドロイドなのでした。
さて、阿嘉さんがアンドロイドであるということが判明したところで(阿嘉様、まったく面識がないのに適当なことばっかり書いててすみません)、踊り手が「プログラミング」されていることを裏付ける(と勝手に捉えきれる)もうひとつの要素が、「太鼓の不在」です。
音楽の途中で、それまで鳴り響いていた太鼓が鳴り止む瞬間がありました。

もちろん、他の音楽の中にも太鼓の音がなくて三線や琴や胡弓の音のみで構成されたものもあったのですが、そうではなくて、急に太鼓の音が消失した瞬間があったのです(わたしにはそう感じました)。
これはどういうことかというと、「ビートが消えた」ということです。
普通、太鼓によって刻まれているビートを目安にして身体運用はなされるものだと思います。
ですが、その目安が突然失われたのです。舞台上にはメロディだけが残った。
つまり踊り手たちは、踊りの途中で、ビートに乗せた身体モードからメロディに乗せたそれに瞬時にスイッチしたわけです。こんなの、機械じゃないとできません(って言ってみたかった)。

と、長々と書いてきましたが、まだあといくつか思いついた(「見つけた」ではないことに注意)仮説がありますので、それは後々書く予定です。

とりあえずこのあたりで仮説1はヤメておきます。

踊り手がアンドロイドだどうだとかってフザけたことを書いてきたわけでありますが、つまりですね、みなさんの日々の鍛錬に畏敬の念を抱いているというわけであります。いつも稽古お疲れさまです。
(こうやって媚びておけばなにか良いことがあるんじゃないかとかは別に全然、思ったりとかはしてないです)

シーサーランナー2049

どうも、兼島です。
このたび、わたくし兼島の書いた脚本「私たちの空」が、第13回おきなわ文学賞《シナリオ・戯曲部門》を受賞(佳作)しましたー!
みなさま、めでたいことですので、ぜひお祝い金を握りしめてワタクシ兼島の家までお越しください。
おもてなしはできませんが、現金だけは確かに受け取らせていただきます。

「かりゆし・かりゆし 〜恋するシーサー〜」

と、いう沖縄芝居(ミュージカル?)を観てきました。

うん!面白い!これはいいね!
子ども達にもわかりやすいし、しまくとぅばやうちなーぐちがわからなくても全然楽しめる(現代日本語も多用される)。
しかも、ただわかりやすくしているだけじゃなく、ちゃんと批評的というか、「わかりやすさ」に対する自問自答も内包している。
会話やストーリーも、歌や踊りも、エンタメ的にとても優れているし、琉球芸能への入り口としてとても間口の広い、オープンでウェルカムな作品になっていると思った。

と、わかりやすい感想をここまで述べたので、ここから先はわかりにくい、粘っこくて回りくどい、複雑でややこしいことを書いていくことになると思われます。

この劇ってのは、もう人も住まなくなった島に残された1組のシーサー夫婦のお話です。彼らは300年にもわたり、民家の屋根の上で寄り添って暮らしてきました。
お互いにチクチク小言を言い合って、各々が、過去に恋い焦がれた相手(人間)のことを想像し、あの頃に戻れたらとかあのときもしも・・・とかって寂しさを感じつつも、最終的に夫婦の関係性を見つめ直しお互いに信頼を確かめ合う、みたいなストーリーです。
それを、歌やダンスや会話でやっていくってわけです。
そんなあらすじ。

登場するのは、シーサー夫婦と人間の男女。それを二人の役者、玉城匠さんと小嶺和佳子さんが演じておって(ちなみに匠くんはアタイの同級生かつ野球部の同士だよん)。
だからシーサーをやってたと思ったら、いつのまにか早着替えをして今度は人間の役をやっておる、みたいな感じね。忙しい!
んで、ここがポイントなんですが、シーサーの夫役は女性の役者(小嶺さん)が、妻役は男性の役者(匠くん)がそれぞれ演じていたわけです。
大事なことなのでもう一度書きます。
夫役を女性が、妻役を男性が演じていた。
なぜここがポイントなのかは後々回りくどく説明します。
ちなみに、人間の男女に関しては、それぞれ男役は匠くん、女役は小嶺さんでありました。

つまり、シーサーは、男女の性が反転されているわけであります。
これって、えっとどういうこと? なんて考えておりました。

劇中、シーサーの夫婦は基本軽めに口喧嘩をしているわけであります。
んで、「なんであんたとなんか一緒になんなきゃいけなかったのよ!しかも300年も!」的な言葉をお互いに投げ続けるわけですね。
そこでどっちか(たぶん夫)が、「俺に文句言うな、シーサー職人の気まぐれでこうなっちゃったんだから!」みたいな、ね、そんなことを言っちゃうわけです。
そこですかさず妻が、「あー、ダンディなあの殿方、いまごろ何をしてらっしゃるのかしら?」みたいなモードに突入。で、音楽ドーン!早着替えスーン!という展開がありました。

実は、いま書いたところがキーなんですね(どこだよ!)
「シーサー職人の気まぐれでこうなっちゃったんだから!」的な言葉ですね。
この言葉で示されているのは2点。
1つは、彼らシーサー夫婦が、人間の手による人工物であるということ。
もう1つは、彼らの意志とは関係のないところで、夫婦であることを強制的に決められたということ。
この「強制性」こそが、二人の諍いの根本にあるんですね。そこに、人工物であるのに「感情」を持ってしまったことで、いよいよ関係の悪化が表面化してきてしまった。「なんでお前なんだよ!」って。

突然ですが、『ブレードランナー(オリジナル)』および『ブレードランナー2049(続編)』っていう映画は、強制的な隷属状態に置かれたレプリカント(人造人間)が、人間と同じように感情を持っていて、自らを作り出した存在=人間に反旗を翻すっていう設定が物語を駆動するエンジンになっています。
んで、特に、『2049』のなかで「奇跡」って言葉が何度か出てくるんですね。
あるレプリカントが、自身を殺そうとする主人公(こいつもレプリカントなんだけど)に「お前は「奇跡」を見たことがないからだ」みたいな言葉を言って非難するわけなんですけれども、この「奇跡」ってのは、「出産」のことなんです。
被造物であるはずのレプリカントが、新しい命を生み出す。その「奇跡」を目の当たりにしたレプリカントたちが力を受けて、革命を志すわけです。
一人のレプリカント=人間の誕生が、活力を多くの人々に授ける。「新たな命を生み出す」というのは、それほどに大きな、潜在的な力を秘めている。

シーサー夫婦がレプリカントと違うのは、屋根の上に固定されて、自由に動くことができないということです。これって、ひどく残酷な設定なんですよね、シーサーにとっては。
しかも畳み掛けるように、メタレベルを一つ上げたところ、つまり役者レベルで見ると、男女性が反転して配置されることで、子どもを産むための男女双方の役割が不能化されて描かれてしまっているのです。
屋根の上以外からどこへも行けないという不自由さ。夫婦でありながら、子どもを持つ可能性を最初から排除された不自由さ。
このシーサー夫婦は、シーサー職人と演出家の手によって、強制的に「力」と「力が生まれる可能性」を奪われてしまっているわけです。

じゃあこのシーサー夫婦にとって、彼らの人生は悲劇なのか。というと、そうとも言えない。先述したように、彼らは最終的に、お互いの大切さを確かめ合い、共に生きていくことを誓い合います(300年も一緒にいるんだから、何百回もこんなことがあったのでしょうが)。
ここに「家族」という可能性が秘められているのです。

哲学者の東浩紀さんという方が書いた『ゲンロン0』というべらぼうに面白い本のなかで、「家族の哲学」という論考があります。
そのなかで、家族を「強制性・偶然性・拡張性」というポイントでもって論じます。

「家族」というコミュニティは、自由意志で出たり入ったりできるものではありません。とくに子どもにとっては、望む望まないに関わらず、その家族のあり方からは自由にはなれないのです。そういった意味で「強制」的である。

でもって、家族は「偶然」の産物でもあります。たとえば親と子の間には、偶然が大きく作用しています。「私」がこうして存在するのは、「私」の特徴を備えた精子と卵が結合したからであり、それはまったくもって「偶然」なわけです。親は子を「選ぶことができない」わけです。
親子だけでなくて、夫婦(男女)の出会いにおいてもそうで、ミクロな視点で見るとそりゃ「この人だ!」って決断して結婚したわけなので必然なのですが、でもマクロに見ると、そもそもの出会いの時点で、双方の地理的および時間的な条件などの偶然的要素に完全に左右されているわけです。

そしてもうひとつ、家族は「拡張性」をもちます。当たり前ですけど、夫婦と子ども(核家族)だけの形態が家族なのではありません。祖父母や伯父伯母叔父叔母などと共に暮らすこともあるだろうし、たとえば「里親」や「養子縁組」などの制度によって、あるいはなぜか父の友人が居座ったりして、血の繋がりのない存在が入ってくる可能性もあります。また、犬や猫などの動物や、アイボなどのロボットすら加入する余地があります。
こんなような「拡張性」によって血も種も超えてつながれる、それほど恣意的なものでもあるわけです、家族って。

またしても『2049』の話になるんですが、主人公”K”は、さっきもちょろっとだけ書きましたがレプリカントなんです。んで、その恋人”ジョイ”は、AI(人工知能)です。ジョイにいたっては、肉体を持たず、空間モニターに表示されているだけの、いわばイメージです。
その二人の人工物、プログラムされた存在同士の恋愛が、この映画の重要なテーマを描いているのです。
つまり、「愛とは何か?」ということです。プログラムされた「愛」は、本物の「愛」と呼びうるのか? みたいな。
Kとジョイの間に育まれた大切な「愛」は、データの破壊によっていとも簡単に消え去ってしまいます。そこに悲しさがあるのですが、これ以上語るとあれなのでもう映画を見てください。

また戻ってきて、シーサー夫婦は、強制的に夫婦として生み出された存在(人工物)です。それでもって、完全なる偶然(職人の気まぐれ)によって二人は出会ったわけです。そこに互いの意志が介入していないからこそ、彼らはいがみ合うわけです。俺だって、私だって、恋がしたいんだ!って。
彼らにはいまのところ破局の可能性はありません。ずっと屋根の上から動けないから。でも、二人は「愛」でつながっているわけでもありません。「偶然性」と「強制性」によって接続され、接続され続けているのです。

でもこの劇が描くのは、その先のことです。
つまり「偶然」と「強制」によってできあがったこの関係を超えて、見せかけのものでしかなかった「夫婦」という関係を超えて、ほんものの「家族」になる。そういうお話なのです。
ふたりの間に「愛(恋愛感情という意味での愛)」はプログラムされていなくても、また、子を生むという可能性を奪われていながらも、ずっと長い時間をともに過ごしてきたという「情け」や「慈しみ」によってそれを乗り越えて(拡張して)、「家族」を形成することができる。ここに大いなる希望が描かれています。

公演タイトルにもある「かりゆし」という言葉。作・演出の嘉数さんは創作ノートの中でこの言葉を、「めでたい」とも「HAPPY」とも違うニュアンスであり、訳することができないと述べている。
これまで書いてきた「家族」についてのことを振り返ってこの「かりゆし」という言葉を考えると、「めでたい」とか「しあわせ」とかという「実感」としての意味合いにプラスして、「慈しみ」や「情け」など他者へ宛てた「想い」も含まれた言葉なのかなーなんて。
このような「かりゆし」という言葉(概念)を背景にして、「ゆいまーる」などといった、たまたま同じ地域で過ごしている人たちの(偶然性)、血縁を超えたしなやかな関係性の構築(拡張性)が可能になるのかなーなんて。思ったり。

でも、そういう「慈しみ」や「情け」とかによる関係構築って、ある意味費用対効果が悪いんですよね。だって、わざわざコミュニケーションの負荷が増えるし、それをしたからって自分の利益には直接繋がらないことも多い。
でも、「でもやるんだよ!」ってことを叫びたい。叫びたいんだけど、でもそれを、わたしたちはいつまで叫ぶことができるでしょうか。「面倒だから、やーめた」って、「慈しみ」も「情け」も切り捨てた効率的な生き方を、いつ志向するかもわからない。そうなってしまうことへの恐れってのは、これからの時代、ずっと付きまとってくるものなんでしょう。

劇の最後、シーサーの妻が、現代日本語を話す理由を夫に問われ、「便利だから」と答えつつ「でも、便利だからってこのままでいいんですかねぇ。。。でも、仕方ないんだけどねえ。。。」みたいな自問自答を呟いて物語は終わります。このセリフは演じている役者自身を相対化したメタレベルでのものであると同時に、演劇や琉球芸能全体に向けたメタ・メタレベルでの問いかけでもあります。さらに、ますます加速していくグローバル資本主義にのまれた現代社会へのメタ・メタ・メタな自問でもある。

こんな時代の中で「恋」とか「愛」とか「慈しみ」とか「情け」とか、そういうのってなんか軽く扱われちゃってるような気がしてるんだが、「めでたい」とか「しあわせ」とかをも包み込んだ「かりゆし」を実現するためにも、そういう「”効率の悪い”感情」というものを愛でる姿勢を大切にしていかなきゃな。
それができるのって、もはや芸術と宗教くらいなんじゃないか。
というわけなので、これから、宗教団体をつくろうかと。。。ちがうか。


腐れ縁の匠くんとワタクシ。シーサーポーズがかわいいね。

「蓬莱」に関するいくつかの仮説

これから、「蓬莱 〜ほうらい〜」という琉球舞踊公演についてのいくつかの仮説を書きます。感想ではありません、仮説です。いや、正確には思いつきに近いものなので、どっちかっていうと「感想」といった方が近いアレではあるんですが、でも今回のテキストの体裁としては「仮説」を並べる、という構成を取っているということもあり、、、
えーい! ややこしい!! じれったい!!!

はい。この公演は、じつは2017年4月の上旬に行われたもので、それから約半年が経過しています。本来であればこのような感想って、できるだけ終演後間もない時期に書かれるべきだとは思うんですけど、

……。
……。
……。

しかたねーじゃん、書けなかったんだから!
それに、べつにいーじゃん、いまちゃんとこうやって書いたんだから!
てなわけで、いくらかの仮説です。

蓬莱 〜ほうらい〜
世界の海で活躍した琉球王国の気概を伝える「万国津梁の鐘」の銘文には「琉球国は南海の勝地にして〜蓬莱島なり」(書き下し)と記されています。
「男性舞踊家公演 蓬莱〜ほうらい〜」にはそれと同じく、琉球舞踊の魅力を広め、自らの芸道を探求する志を持つ6人が集まりました。まだまだ、未熟ではありますが、古典・二才踊を大事に勉強し、舞踊劇や琉舞ではあまり見られない「素踊り」にも挑戦いたしますので、ご指導ご鞭撻のほどよろしくお願い致します。
(当日パンフレットより)

仮説1_「ノる」=ダンス、「ノらない」=琉舞

ヒップホップダンスなどでは基本、身体でリズムをとります。「アップ」とか「ダウン」とかそういうので、膝と上体を連動させながら上下運動というか、まあ簡単に言うと「ノッている」感じの動き。
アップやダウンでリズムをとりながらそこにステップや振りを付けていきます(という認識でいいのかな? 傍で見てるだけだからわかんないけど)。
この「アップ」や「ダウン」は、車でいうとアイドリング状態というか、まあそんな感じでしょうか。

そこに、身体中の関節・筋肉を連動させてダンスとしての体裁が施されていく。そのとき、身体表面に産出されるすべての動きがダンス表現として立体化されることになる。
たとえば、まっすぐに立っている状態から、右腕を上にあげる、という動作をダンサーが行ったとき、まっすぐな状態から右腕が上がりきった状態までのすべての動作(連動)が表現である。なめらかにやったり、パッと上げたり、機械みたいに止まるときにアソビを効かせたり。つまり一連の「過程」すべてが表現として認定される。

でも、たとえば『蓬莱』の第二部での女踊を観たとき、これはダンスと全然ちがうなと思いました。
その女踊りって(僕は普段観ないので必ずしもそうではないと思いますが)、上半身の動きがほとんどないんです。
それから、ずっとすり足なんです。特に友人の玉城匠くんの踊りなどは、膝の屈伸とすり足での移動(方向転換)、これだけで成立していました。
言ってしまえばただうろついているだけとも取れる所作なのですが、でも完全に「舞踊」なのです。
これはたぶん、流れている音楽と深い関係があるのだと思います。そこにはなんだか、踊り手の意志はなくて、音楽の支配があるんじゃないか、って思ったんです。

琉舞では、踊り手達はリズムを取らない(とか言いつつ、リズムとってる踊りもありましたが。二才踊とか、、、これについては後述します)。
音楽と調和を図るようにして身体を上下させる、というようなふるまいはそこには見られず、逆に音楽に一方的に取り攫われるような形での身体運用がなされる。
「アップ」や「ダウン」などでリズムを取ることもないままに、急に身体が動かされる。そーゆーふーな感じがしました。

仮説2_琉舞は、「静止」の連続である

で、ふと、あることに気づいたんです。いや、気づいたというよりは、思いついた。
もしかして、琉舞には「静止」しかない(と考えた方がいい)んじゃないか。琉舞における身体運用の本質は、その動作の部分よりも静止している状態にあるのではないか。

つまりですね、琉舞において実現すべき(表現すべき)ものは、きっちりと静止した完全なる「型」であって、それぞれの型から型への移行のための身体運用、すなわち「過程」を、そこでは「ないもの」として考えてください、ということなんじゃないか。

イメージとしては、動画ではなく、連続写真のような感じ。
膨大な量の、極度に細分化された「型」に身体を当てはめ、それを見ているわれわれ観客には「動いているように見える」、というような見立てで持って琉舞を見ることが可能なんじゃないか、と思ったわけであります。
「音楽に一方的に取り攫(さら)われる」ようでいて、かつ、それに抗おうと「静止=型」を目指す。そのような身体運用が、琉舞の踊り手達には見られる。
音楽という外部的な力によって身体を取り攫われ、それに抵抗して「型」に踏みとどまろうと内在的な力を発揮する。この拮抗する内外の力の結節点として踊り手は存在し、その行為の連続として舞踊が成立する。そういうふうに見立てることができるのではないでしょうか。

仮説3_琉舞には、琉球王朝時代の権力のあり方が反映されている

琉球舞踊というのは、琉球王朝時代、中国からの冊封使(さっぽうし)を歓待するために創作されたものです〈こちら〉
つまり外交の手段として重用されていたわけだす。そのことについて、琉球舞踊を扱ったコメディ(パロディ)演劇についての感想を以前に書いたので、そちらも併せて読んで欲しい〈こちら〉

琉球“王国”ですから、中央政権的な政治体制がそこでは敷かれていたのであります。
その権力の集中する王府によって主導された琉舞ですので、となると、踊ることは自発的なものではなかった、というふうに考えることができます。別の言い方をすると「踊らされていた」というわけです。

第二部では、「女踊/二才踊」が披露されました。「女踊」については先述したように、身体所作が極端なまでに抑制された舞踊で、「二才踊」については、若さと勇ましさを表現するような、アクティブでリズミカルな舞踊になっていました(「二才」とは元服(成人みたいな意味)した青年のことらしい)。

これって、当時の「女性観/男性観」がそのまま踊りに反映されているといえないでしょうか。
つまり、女性には淑女性を求め、男性(若者)には溌剌さや勇敢さを求めた。その要請に対する忠実な応答が、舞踊のなかに痕跡として残っているように思えます。その舞自体への権力の介入を示しているのです。

現代のダンスなどを鑑みてみると、それらはどちらかというとダンサー自身のパッションやエモーションを表出する行為として、つまり自発的(内発的)な行為として捉えられると思います。
そんな自発的な表現ができる人ほどダンサーとしての志が高いとみなされる。ダンサーは自ら「踊る」存在であるわけです。

琉舞の舞踊家たちは「させられる=受動的」な存在で、現代のダンサーは「する=能動的」存在。そういうふうに、対比することができます。
が、しかし、ことはそんな単純ではない、というのは当然の話で。
さきほどのリンク先にこんな文章があります。

「この宴に出演するのは王府に仕える士族の子弟と決まっており,彼らはそのことを大変誇りにしました。琉球舞踊が宮廷舞踊とも呼ばれるのはそのことに由来します」(宜保榮治郎)

たしかに、琉舞は王府主導であり、その命に従う者として舞踊家はありました。そこに彼らの自発性はありません。
しかし、彼らは“踊らされる存在”であることを「大変誇りに」思っていたのです。王府からの一方的な働きかけがあったわけではなく、両者間で同意が結ばれていたということがわかります。

だとするなら、踊り手たちを単純に「受動的」な存在として考えることはできません。
なぜなら、彼らには踊る意義や意欲があるからです。踊り手は王府の命に従う形で踊ることになります(=受動)が、踊ることに誇りを持ち、そしておそらく自らそのパフォーマンスを高めようと努めたことでしょう(=能動)。

王府は、文化的成熟を示すという外交上の戦略に、良質な人的リソースを確保するため、参加資格を限定し(王府に仕える士族の子弟)、踊り手たちに優越感を喚起させることに成功した。
名誉的ポジションを獲得した踊り手たちは、自らの技能・技術を磨き、そして琉球舞踊というジャンルのポテンシャルを掘り起こし、その芸術性を高めることに尽力した。
このような良好な関係性を築くことができたからこそ、琉球舞踊は伝統として代々受け継がれていくことになったのではないでしょうか。

この王府/舞踊家との権力関係が、そのまま音楽/身体との関係性にも反映されていると捉えることができます。
先ほどの(仮説2)で述べたことをあわせて考えると、琉舞では「音楽」(=王府のメタファー)が強大な力によって「身体」(舞踊家自身のメタファー)に影響を及ぼすが、その音楽に向かって身体(舞踊家)が自ら「投企」(◆1)することで「型」が表現される。なんてふうに言えないだろうか。

◆1 投企
人間は、生まれた時からすでに、世界の中に投げ込まれています。その世界ってのは、自分で作ったり選んだりしたものではもちろんありません。わたしたちは、否応なしにその世界を生きていかなければならないのです。映画『桐島、部活やめるってよ』での屋上でのクライマックスシーンが終わった後にある、しっとりしたシーンでのセリフでこういうのがありましたね、余談ですが。
ドイツの哲学者、マルティン・ハイデガーは、人間にとって普遍的なこのような状態を「被投性」と名付けました。ふと「なぜ生きているのか?」「なぜこれを行うのか?」みたいな気分、とくに不安感情を抱いてしまうことで、ひとは「被投性」を自覚します。そしてそれを乗り越えようとすること、つまり強制的なこの世界の中で可能性や自分らしさを掴み取ろうとすること、そのようなことを望むようになります。そのために、再びこの世界の中に自分自身を投げ入れるのです。それをハイデガーは「投企」と呼びました。

仮説4_「蓬莱」における「素踊り」は、「革命」を志向する行為である

この「蓬莱」という公演の第一部は、琉舞の舞踊家たちによる素踊り(化粧をせずに素顔で、華美ではなく質素な衣装で演舞する)でした。
組踊とか琉舞とかって、肌が真っ白になるまで化粧をするし、衣装のジャンルやトーンなんかもある程度統一されているし、ということもあって、誰が踊っているかってパッと見わからないんですね。つまり、踊り手たちは匿名の存在だといえます。
先ほど、王府と舞踊家の権力関係ということを考えましたが、そのことを考慮すると、琉舞における化粧や衣装というのは、着飾ったり綺麗に見せたりというよりも、むしろ踊り手たちが持っているそれぞれの個人的特性を隠蔽し、同質化・均質化を図るための装置であるというふうに捉えることができます。

国家を運営していくときには、民衆たち個々人がもつポテンシャルを最大限に引き出しながら、かつ全体を効率的に管理し安定的な運営を目指すという、一見トレードオフ関係にあるような政治課題が常に付きまといます(◆2)
琉球王府にとってはそのひとつのソリューションとして、「化粧」や「衣装」があったのでした。

そんななかでの「素踊り」は、踊り手の素顔を晒すことであり、その個性を前面に表出することである。
それって、王府による没個性化の指導に反旗を翻す行為であり、その意味では「革命」なのである。

演舞だけではない。この公演のパンフレットには、ほとんど素顔を晒した踊り手たちの宣材写真が使用されていて、ここからはっきりと「革命」の意思が読み取れる。
また、第一部のみ、地謡(楽器の演奏家)が舞台に登場しない(第二部、第三部では舞台上手に地謡用のスペースが設けられていた)。これは、王府=音楽を舞台から退けるということであり、ここにも「革命」的要素がはっきりと示されている。

◆2 生権力
王府と踊り手との間にあるこのような権力関係は、フランスの哲学者、ミシェル・フーコーの用語でいえば「規律訓練」と「生権力」がうまく結合しながら働いていると捉えることができるでしょう。
「規律訓練」とはなにさ?「生権力」とはどやさ? みたいなアレなので簡単に説明します。
もともと昔は、王様に逆らった奴は殺す! 気に喰わない奴は殺す! みたいな、「お前は磔の刑!」とか「火炙りの刑!」とかいうような感じだったわけです、権力の行使の仕方が。まあ殺さないにしても拷問とか、鎖や枷を装着しての長時間の強制労働とか、つまり身体に直接的・物理的な苦痛を与える、というようなやり方で権力が行使されていた。このような形での権力のあり方は「殺す権力」とか「死を与える権力」とか呼ばれたりする。
でも、「殺す権力」ってのは、意外と結構「効率が悪い」。拷問や肉体的暴力によって支配するというのは、手間がかかるのである。面倒臭いのである。
なんでかって、暴力の目的は暴力そのものではなく、支配することだから。権力者は、直接手を下さなくとも皆が言うことを聞いてくれるなら、そのほうが楽だ。(それでも拷問したい暴力を振るいたいという人は、性的な倒錯者というか暴力の快楽に狂ってしまった人なので、そのような人たちとここで述べている権力者はちがった存在。まあ、重複する人もいるでしょうが)
ともかく、効率良く支配関係を行き渡らせるには、できるだけコストを抑えていきたいわけで、誰かが誰かを殴る、とかっていうのは、いちいち人も時間も労力もかかるわけだ。しかも、そのような支配関係は、反乱分子を少なからず生じさせる。
そんなこんなあり、権力はちがった形で行使されるようになる。フーコーは「規律訓練型権力」という、上が下に「規律」を与え、下の者自らに「訓練」をさせ「ノルマ」を達成させるかのような権力体制があることを見出す。その「規律」や権力者からの「視線」を下の者に内在化(意識)させることに成功したら、この権力関係は磐石なものになる。つまり、下の者は自ら進んで上の求めるふるまいを行うようになる、ということだ。この権力体制の象徴的なカタチが「パノプティコン」という監視システムなんですが、ここに立ち入ると長くなるので、いまはちょっとやめときます。
強大な権力を持ってたら、ムカついた奴はバンバン処刑することもできるのではありますが、でも殺し過ぎるのもちょっとアレなのです。人口が減っちゃうと税収が減るとか奴隷が減るとか戦争の時困るとか、そういう事情で殺し過ぎるわけにはいかないわけで。
安定的な国家運営をしていくために、できることなら人口を管理したいわけで。となると、国民には病気になって欲しくないし、元気でいてほしい。だからだんだん公衆衛生とかが整備されていって、で、それは国民にとってもちょー有難いわけで。こんなふうに、直接的に国民を縛らず、国民を「生かす」ことによって国益を高める。そんなふうにして行使される権力が「生権力」です。ただ、このときの「国民」は一人ひとりの人間というより、統計情報の一サンプルとしての存在へと、ひっそりと置き換えられているともいえます。
というように、「規律訓練」と「生権力」の有効的な併用、つまり規律で縛りながら能動性を確保する。これで王府にとっては安定的な支配体制を構築することができ、踊り手達はその秩序のなかで大いに自己実現を目指すことができる。この持ちつ持たれつの共犯(共依存)関係のなかにおいて、琉球舞踊という芸術活動・芸能活動の発展がなされてきたと考えられるわけです。


と、ここまで琉球舞踊公演「蓬莱」に関するいくつかの仮説を書き連ねてきました。
これはあくまでも仮説であり、いや、というよりもむしろ素人ファンによる二次創作的なものであり、記述に対する何かしらのエヴィデンスを示すなんてことは一切できません。
が、こんなふうに仮説を立てて面白がるっていうのは、観客として費用対効果を高めるナイスな方法だと自負しております。

うまくまとめきれなくてここには書きませんでしたが、琉舞における音楽/身体(舞踊家)/型の三者関係を、野球マンガを見立てに捉えようとした「キャプテン仮説/ROOKIES仮説」というのもあります。
これらの仮説を、踊り手たちに「どうなの?」と聞くほど野暮なことはありません。それは「素人ファン」の振る舞いではありません。勝手に想像して勝手に楽しむのが素人ファンであり、そのような作法のもとに「野球マンガに例える」などという無頼なことができるのです。
というかそもそも、琉舞の担い手たちのもつ専門知は私たちには想像できないほど膨大なはずで、もっともっとたくさんのことを考えながら踊り手たちは踊っているはずです。なのでなんども確認しますが、ここの記述は僕自身の個人的な楽しみであり、独断と偏見に満ち満ちたものであることをおしらせします。

「負ける演劇」をめざして

石川ひまわりキッズシアター公演「私たちの空」が終了しました。
このなかで演じられる3つの短編それぞれについてエッセイを書く、ってのをやろうと思ってたんですが、2つめまでしか書いてまてーん。。。

なもんで、もう1個をちゃんとアップしようと書いてたら、いつのまにか演劇論の話になっちゃったんで、そっちを載せます。
「私たちの空」第3部「私たちの命」についてのエッセイは、また後ほど書きます。ちゃんと書きます。べつに誰も望んでなかろうが、私自身が書かなくちゃならないと思っているのです。

ってわけで、演劇論の話です。


(琉球新報の「りゅうPON!」の1面にデカデカと掲載されました!)

演劇作品というのは、人工物である。まぎれもなく「作り物」である。自然の産物ではない。そこには製作者の意図や思想が意識的にしろ無意識的にしろ書き込まれている。

脚本を書く、という行為は、ある種の全能感を書き手にもたらしてしまう危険性がある。戯曲の中には、そこ(舞台上)がどんな場所で、どんな人物が登場して、どんな出来事が起こるのかが書き込まれる。
つまりそれらを決定する権利は脚本家に属している。脚本家が紙の上に書き付けた言葉によって、その作品世界は構成される。

脚本家が脚本を書くことに専念するのなら、その「全能感」も無害なものだ。
でも、舞台の脚本を書いた者がそのまま演出もする、というのがパターンとして多いような気がする。となると、いよいよ怪しげな香りが強まってくる。

どういうことかっていうと、つまりですね、その演劇作品が実際に上演された時、そこに現れるのが単に脚本を舞台上に転写したものになってしまう恐れがあるっていうことです。
言い方を変えると、脚本に書かれた言葉を忠実に再現しようとしてしまう可能性があるっていうことです。

言葉には〈音〉と〈意味〉という2つの側面がある。
たとえば「チョコ」という単語は、「チ」と「ョ」と「コ」という〈音〉の連なりですが、それは「茶色くて甘くて口に入れたら溶けてしまうお菓子」というような〈意味〉を表します。
本来この〈音〉と〈意味〉がセットになって一つの単語が成り立っています。
でも〈意味〉は、文脈によって用途が変わったり、ズレたり、膨らんだり、フットワークの軽いものでもあります。

演劇をつくる上では、この〈意味〉の「フットワークの軽さ」こそが、その作品世界を豊かにする鍵であるのだと思います。逆にいえば、〈音〉と〈意味〉がべったりと接着してしまった言葉では、複雑で豊かな世界は表現できないのだと思うのです。

となると、脚本には〈音〉を書き込むべきだと、わたしは思うようになりました。脚本の上では、〈意味〉によって言葉が連動するのではなく、〈音〉の流れを書き留める。脚本とはそうあるべきだ、そのように書くべきだと、特にこの「私たちの空」をつくっている最中は考えていました。

脚本に記された〈音〉を、役者は発します。その発声の仕方によって、そのときの姿勢によって、表情によって、つまり「音色」によって、〈意味〉は変化する。
それから、〈音〉は、役者が発する台詞のことだけを言うのではない。小道具や照明も(もちろん音楽も)ぜんぶ〈音〉だ。それらの使い方=「音色」によって、〈意味〉はどんどん増幅したりズレたりする。
脚本に記されている〈音〉を多様な「音色」によって奏でることで、豊かな〈意味〉が出現する。
いや、というよりも「捏造する」といった方が近い。脚本の〈音〉から〈意味〉を「捏造」する、それが「演出」をするということだ。

演出家が豊かな「捏造」をするためには、脚本とちゃんと距離を取る必要があるのだと思う。
「脚本家」が「演出家」を兼ねる場合、「演出家の私」は、「脚本家の私」の意図をどうしても汲んでしまう。そのことを避けるのはとても難しい。だからわたしはずっと、「演出」がわからなかった。どうやってやるべきなのか、自分が施す演出にまったくもって自信が持てなかった。いつまでたっても「脚本家」としての自分にお伺いをたてるようにして演出をしていた。

でも、この「私たちの空」をつくっているとき、ふと、「あぁ、そうか。」と思ったのです。



(当日は、約500人の方がお越しくださいました)

「私たちの空」は、役者として出演するのは全員小学生6年生の女の子。「大人」ではないし、訓練をしてきた「女優」でもない。いわば、「未熟」な存在です。
「未熟な身体」と「未熟な声」をもつ「未熟な役者」。その「未熟さ」は、ある意味では圧倒的な「強さ」を持っています。

どういうことかというと、「大人」や熟練の「女優」では、「未熟さ」を表現することがとても難しい、ということです。
なぜなら、「大人」や「女優」は、「未熟さ」を脱ぎ捨てることによって到達する場所だからです。
「未熟な身体」や「未熟な声」をもった存在に対して、「大人」や「女優」は、「未熟さ」においては勝ち目がありません。小さくなった服を無理して着ることは見苦しいので、それを簡単に着脱できてしまう人に着せよう、というようなことです。

で、「あぁ、そうか。」ってのは、この強度のある「未熟さ」に、脚本は「負け」てしまえばいいんだ、というふうに思ったってことです。
明確なイメージを設定して演じる少女たちにそこに合わせてもらう、そのイメージに沿うように指導する、というのではないってことです。
そうじゃなくて、「未熟さ」に負けて、その「未熟さ」をより瑞々しく表現できるような、そういった脚本にしたらいいんだ、と思ったのです。

そして、脚本が「負ける」ことを目指しはじめたとき、「演出」という方法も輪郭がクリアになってきました。
この作品においては、少女たちの「未熟さ」の強度を高めることで、劇作品として強いものになるのだと思えました。
演出は、脚本家の意向を慮るのではなく、脚本が「負け」を認めたその対象を思えばいいのだ。そう思えたら、なんかいろんなアイデアが浮かんできたのです。

だから今回の演出では、プロジェクターで映像を投影したり、音楽をガンガン使ったり、結構やりたい放題しました。やりすぎか?ってくらいに。
でも、手応えはあった。しかも、その手応えは、決して空っぽのものじゃないと思えました。その理由は、見にきてくれた人たちが、口々にコメントをくれたその内容にありました。

「『子ども達の演劇』というイメージを一変してくれた内容で、視点を変えたところからのメッセージだなと感じました」
「子どもの可能性って改めてすごいね!! 何でもない会話なんて、しにリアルだし!」
「子ども達がやるから、より考えさせられた」

これらのコメントをもらったとき、「負ける」という方法論の可能性を感じました。
やろうとしていたこととお客さんの反応がこれほどバチっと合ったことは、いままで演劇をやってきて体験したことがなかったからです。

正直のところ、劇が始まる前は多くの人が、「学芸会の延長」くらいのイメージを持っていたんじゃないかと思います。
わたしはそのイメージを覆したかったし、小学生にしかできない、子どもがやるからこそ意味のある、強度のある、そんな作品にしたかった。
そしてそれは、これらのコメントを見る限りある程度は達成できたのかなと思います。
もちろん、もっと改良できるところ、強度を高められるところはたくさんあります。でも、この方向性はイケる!という確信を得たのは大きい。これは非常に自信になりました。

ちなみに、この「負ける」という表現は、建築家の隈研吾さんの「負ける建築」というテーゼから勝手に拝借したものです。いっちゃうと「パクリ」なんですが、まあ、別にいいじゃないですか、今回ばかりは。
というわけで、今後とも「負ける演劇」をしっかりとめざしていきたいと思います。


(この子たちの可能性に「負けた」のです)

五月九月(ぐんぐぁちくんぐぁち)

五月九月(ぐんぐぁちくんぐぁち)
**あらすじ(当日パンフレットより)**

極上の琉球芸能をドタバタコメディーとともに
琉球王国時代の九月、首里城では中国皇帝の使者である冊封使を歓待するための宴の準備が整いつつありました。そこへ、翌年五月に来琉予定だった薩摩役人達も何故か首里城に向かっているという知らせが届きます。発音の似ている五月(ぐんぐぁち)と九月(くんぐぁち)を聞き間違えて、宴をダブルブッキングしていることが発覚して大騒ぎになりました。宴の総責任者である踊奉行は、急遽二つの舞台をこしらえて両方の宴を決行することになりました。綱渡りの舞台の幕が上がります。

五月九月(ぐんぐぁちくんぐぁち)という劇を観た。あらすじについては、上記を見ていただければと思う。劇を見ての感想。一言でいうと、楽しかった! ……フツー。フツーの感想。いや、いいじゃないか、フツーでも。
でもフツーなどと言われたら、男のプライドが泣くぜ。なもんで、いろいろと適当に、プライドを守るために、なにかを書いていこうかと思う。

あらかじめ断っておくと、わたしは琉球芸能、伝統芸能、古典芸能、などというものにはとんと疎い。だから、当たり前のことをこれから書き連ねるかもしれない。あるいは、まったくのトンチンカンなことをほざいているかもしれない。まあでも、知らないものは知らないので、それは仕方ないので、このまんまの教養レベルで書き進めていこうと思う。

なぜ「歓待」するのか。

中国の冊封使への歓待、薩摩への歓待、この歓待のタイミングが図らずもバッティングしてしまったことに起因するこのドタバタ。
なぜ、これほどまでに踊奉行や役者達は大慌てしていたのか。そのことをちょっと考えてみたい。
中国と日本という2国に挟まれ、しかもそれが自国とは比較にならないほど大きい、というように地政学的にいろいろと面倒そうな当時の(今もかな?)琉球。
この小さな島国は、周辺の「ガタイのいい」国となんとか関係を形成しながらでないとやっていけないような立場・状況であった。

そのためには、しっかりとした外交戦略が必要になってくる。
芸能というのは、当時の琉球にとって重要な外交手段であった。だからこそ、政府が多くのリソースを傾けてその開発と維持に努めてきた。
外交で目指されるものは、相手国との関係形成と自国の国益の拡大だ。

歓待をするのは相手国への「贈与」という意味合いだけではない。盛大なおもてなしを優れた芸能をもって行えるということは、その国が高度な文化的成熟を果たしていることのアピールになる。それによって相手国の「見る目が変わる」わけだ。うまくいけば「一目置かれる」かもしれない。それは琉球のような小さな島国にとっては重要だ。

また、膨大な人的リソースと1年以上もの準備期間をかけてまで行う「歓待」によって琉球が目指したのは、それぞれの国に「わたしたちは貴国の属国でございます」というポーズを示すことで、自国の国益を最大化させることであった。
ちょっと、以下のような、先輩と後輩の会話を思い浮かべて欲しい。

後輩「先輩、おはようございます」
先輩「おお、お前か。どうしたんだ、はやいな。このクソ寒いのに」
後輩「あ、どうぞ、これ。ホットココアです」
先輩「おぉ、気が利くなぁ」
後輩「そういえば先輩、この間の試合でのあのプレーすごかったっすね! しびれました!」
先輩「そうか?」
後輩「いや、まじヤバかったっす! 自分、この人に一生ついて行くわ!って、ガチで思いました」
先輩「あぁ、いや、そうかそうか」
後輩「いまのうちサインとかもらっといてもいいっすか?」
先輩「まあ別にいいけどよ。(タバコを取り出しプカーッと吸う)あ、お前も吸うか?」
後輩「いいんすか? ども、ありがとうございます」

ここで《後輩》は、ホットココアと忠誠心を差し出すことで、タバコという見返りを受ける。つまり、従者であることを徹底して示すことで、自分の利益を最大化させることができる。
このような「後輩っぽい」戦略こそ、琉球が中国や日本に対して採用していたものだ。

ただ、これを複数の《先輩》に対してやっていたとするなら、これはちょっと話がややこしくなってくる。
「お前、あいつにも俺にやってるのと同じようなことして取り入ってやがったのかコラァ!ツラかせやワレーッ!」的なことになってしまう恐れが山盛りだ。

だから、このようなしたたかな方法は、絶対に顕在化させてはならない。
そのことが発覚してしまうことを恐れたがゆえに、踊奉行や役者達は慌てふためていていたわけである。
描かれている登場人物たちのうろたえぶりが、この外交戦略がいかに綱渡り的であるかを示している。

「琉球」の相対化をめざして

八方美人で、場当たり的で、ときには二枚舌を使いこなし、四苦八苦しながらも芸能の上演をやり遂げようとする。そんな琉球人たちの姿をコミカルに描き出すというのが、この劇の主題であった(と勝手に考えている)。

この劇は、笑いどころの実に多い作品だ。そしてこの笑いは、自虐的な趣向のそれである。
たとえば、劇中劇として組踊の『二童敵討』を付け焼き刃で演じようというシーンなどが象徴的だ。
冊封使の一人が、人が足りないと慌てている踊り手たちの稽古場に紛れ込んだために、無理やり出演させられることになる。それが結局はハチャメチャな展開を巻き起こして、作品の中でも特に笑い声が響く場面として際立っていた。

組踊とは「型」の芸術である。代々受け継がれてきた「型」が、場所の移動や役の感情を示す重要な記号となる。その「型」を、この場面では徹底的に茶化している。冊封使という外の視点を介入させることで、「型」に穴を開けている。

「型」を崩すことで笑いを起こす、という仕掛けが狙おうとするその射程は、琉球という小さな島国、そしてそこで生まれた非常にユニークな伝統芸能、そこから発生するノスタルジックかつエキゾチックな小景、それらを相対化させることだ。

先ほど述べた「琉球の外交戦略の綱渡りさ」や「伝統芸能に従事する者たちの慌ただしさ」なども、相対化して笑いに変えられている。
言語の部分でも、組踊などにみられる特徴的な節や琉球語と並列して、現代的な日本語も使用されている。現代の視点を舞台に注入することも相対化の一形態である。

ひらかれる伝統芸能

「相対化」という言葉をさきほどから多用している。組踊や琉球舞踊などは門外漢のわたしのようなものですら感じられる「相対化」の多発現象。それは、伝統芸能が現代(現代人)に対してひらかれたものであろうとする証ではないだろうか。

一般的なイメージとして、いわゆる「伝統芸能」や「古典芸能」などというものは、「カタイ」という感じを抱く。「伝統」とか「古典」とかいうものを扱うときの所作で最優先されるのは、ふつう「保存」だからだ。それがどんなに難解であろうとも、観客の解像度レベルとつまみを調整することよりも、その作品自体が持つ本来的な要素を守り抜くことの方を重視する。

そのことがダメだとは思わない。芸術や芸能というものの機能が、わたしたちをその日常性から強制的に引き剥がしてしまうことにあるのだと捉えるなら、その作品の源流の最も高濃度な部分を「保存」することには大いに価値がある。

ただ、その純化が進みすぎると、伝統芸能は「絶対的」なものとなってしまう。それが何を意味するかというと、世界が閉じていく、ということだ。
せっかく豊穣な芸術的価値をもっていても、「絶対的」な存在は排他性を帯びていくという宿命を持つゆえ、その「絶対性」はいくらか解されなければならない。

そこで、「相対化」されたもの、すなわち作品がビューアブルなものであることに重要な価値が生まれる。それはまるでトロイの木馬のように、一見なめらかな手触りで観客のうちに入り込み、そのシステムの内側でパニックを引き起こす。
「娯楽的」で「わかりやすい」から、見る者はストレスを感じる間もなく作品世界に熱中できるが、時折、いつのまにか観客自身が作品世界に絡め取られてしまう、という現象も引き起こす。つまり、「気になって仕方なくなる」。

楽しかったねーとか泣ける……とかとはどこか感覚が違っていて、でも確実に自分の知的リソースの一部分がその作品に流入し凝固させられてしまっている。そこから、作品のみならずジャンルそのものへと興味がうつり、気付けばよりコアなものを求めるようになっていく。
文化や芸術にさらわれてしまった者は、ほとんどこのような道中を経ているはずだ。

今回の作品は、ドタバタコメディという「トロイの木馬」を観客に送りつけ、わたしたち観客は油断してその木馬で遊んでいる。つまり劇の内容に笑っている。
そうやってガハガハやっているうちに、不意に、劇中劇の形で舞踊がはじまる。ドタバタの部分と演舞パートがそのようにはっきりと区分けされた分だけコントラストが強く浮き出て、踊っている立方の所作や鳴っている音楽がとても美しく際立ってくる。
その美しさにうっとりしているとき、わたしたちは木馬に隠れていた侵入者たちに乗っ取られはじめている。

そして、舞台を観終わったわたしたちは(少なくともわたしは)、組踊や舞踊などの「伝統芸能」に、とりさらわれている。その証拠に、このような長文を書いてしまっている。もっと歴史とか型の示す意味とか昔のことについての教養とか勉強したらもっと楽しめそうだ、なーんて思ってしまっている。木馬に潜んでやってきた不法侵入者たちに、あっさりとその場を明け渡そうとしている。
はぁ、この忙しい時期に。。。
困ったものだ。

2種のメタ構造がもたらす緊張と緩和と緊張

劇を観に行った。『日付変更線』という公演で、全部で60本ほどの短編作品を、1公演10本程度ずつオムニバス形式で上演していく、というスタイルだった。
だから、日によって上演される作品も出演する役者も異なるらしい。なんてメンドーなことを!と感心というか尊敬というか身体に気を付けてという想いを抱くほどの、まあそんな感じの「クレイジー」な企画なのです。3週間くらいの期間上演しているらしい。
ウチ(チョコ泥棒)の公演は基本2日間で、それだけでも集客に四苦八苦しているというのに、そんな長期間ロングランできるなんて、ジェラシーを禁じ得ない。

会場の『わが街の小劇場』は、那覇のどこか(地名はわかりません)にある、観客が40名ほど入ればいっぱいになるような小さなハコだ。小さいハコは必然的に、舞台と客席、つまり役者と観客の距離が近くなる。
僕らチョコ泥棒が普段使っている『パライソ』というバーも、バーとしてはとても広々とした店内だが、劇場としては小さい(劇場ではないのだから当たり前だが)。
でも『わが街』はそれ以上に小さい。しかも、すぐ近くは那覇の繁華街であり、かつ住宅街のど真ん中にあるので、「生活感」というか「生活臭」というか、そういう類のものが劇場空間内にプンプンしている。時折かすかにだけど、外を通るバイクの音とか聞こえてくるし。

でもその空間としての小ささ、近さ、生活臭、というものは、必ずしもマイナス要素となるわけではない。それらはある種の「効果」として、劇作・演出のアイデアの一部として利用することもできる。
この『日付変更線』も、『わが街』のロケーションを活かした魅力的な空間形成がなされていたと思う。
たとえば、このオムニバス作品の多くがコント作品であった、ということである。それは1公演10本という事情から、それぞれの短編作品には練りこんだストーリーよりもインパクトのある展開というのが優先的に要請された、ということかもしれないが、でもそれが良かったと思う。
なぜなら、コントは「メタ構造」への耐用強度が高いから。

ふつう演劇では、「役者」は「役」を演じる。「役」として舞台に立っている。そのときの役者はあくまでも「役」としてふるまっており、「役者」自身としての存在は隠蔽される/しようとする。そうしないと、物語を駆動していくことにブレーキがかかってしまうからだ。
でもコントでは(お笑い芸人のそれを思い浮かべて欲しい)、けっこうカジュアルな形で「役」よりも「役者(芸人)」が前に出てきたりする。演じている「役」の奥に「役者(芸人)」がいることを自明のこととして、観客はその世界に没頭することができる。
今回の上演作品群でも、その「メタ構造」が多用されていた。はじめは「役」として舞台に立っていた人たち同士が、この人は「役者」である、と暴露することによって、「役者」同士の関係が現前に表われてくる。
その関係性の暴露じたいが笑いを引き起こしているのだが、それによって副次的に発生するのは、観客の巻き込みだ。つまり、「あなたたちのことも見えてますよ」と観客に訴えかけることによって、無理やり劇世界に引きずりこむことができるのである。

これは、舞台と客席、役者と観客の物理的な距離が近いほうがその効果があがる。
舞台と客席の距離を取ること、高さを変えること、それらは舞台空間と客席とが「隔たれたもの」であることを示唆するためになされる。舞台上の世界は別の世界ですよ、という宣言によって、観客は安心して座席にもたれることができる。
でも、その距離や高さが取り除かれた空間では、そうはいかない。だって実際に、手を伸ばせば触れられてしまうのだから。それは空間内部に微妙なサスペンスを生じさせる。それによって弛緩しようとする観客の背筋は伸ばされ、劇世界を間主観的なものとしてともに想像(捏造)することができる。

とまあ、ワーワー言うとりますが、一言でいうと、楽しめた、ということですわ(雑や!)。
なかでも、今回の公演のトリとして上演された『TRUE STORIES』という作品が個人的に特に面白かった。

この話は放送作家のキャンヒロユキさんが作・演出をされていて、キャンさんにはいつもいろいろとお世話になっていまして、なんて言っても取り立ててそんなに関わり自体はないんですが、まだ学生の頃とかにいろいろお話を聞かせてもらったり台本を読ませてもらったり、そういったことをしてもらった人です。

でも実は、キャンさんの書いた劇作品を観劇するのは、よく考えたらはじめてだった。キャンさんが構成したバラエティやコントはテレビでよく観ているのだが、なぜかいままで舞台は観る機会がなかった。

面白かった。さすがキャンさん。

なのでここでは、公演全体というよりも、『TRUE STORIES』の感想を書こうかと思う。
(公演はまだ続くし、ネタバレになるかもしれないから書かないほうがいいかな、とも思ったけど、どうせこの文章を読む人なんて5名くらいしかいないだろうし、そのうち4名は身内だろうから、そのあたりは気にしないで書くことにする)。

この『TRUE STORIES』も、同じように「役」を演じている「役者」の存在が暴露されるというメタ構造(演劇的なメタ構造)を劇中で発動させる。しかもそれはたぶん役者のアドリブで、かといってそれは役者が自発的に行なっているのではなくて、台本上に「ここはアドリブ」などと記載されたような形だ(たぶん)。
「役(登場人物)」としての物語上の関係に、「役者」自身としての関係をレイヤーとして重ね合わせていて、それによって生じる、物語と現実での人物同士の関係性のねじれ構造が笑えた。役者の少し恥ずかしいプライベートが暴かれる件などは、役者も観客も全員でドキドキを共有していた。

ただ、この『TRUE STORIES』が他の9作品と違っていたのは、「演劇的なメタ構造」のほかにもう1種類の「メタ構造」(物語のメタ構造)を構築していたことだ。

具体的に説明する(出た、ネタバレ)。
設定として、小説家と女性編集者のやりとりがまずある。小説家は新しい短編を書き上げたが、それが実は女性編集者が酔っ払って語った物語を下敷きに書かれたものであった。だからちょっと2人でチョコチョコ直そうよ、というのが話の筋である。で、2人で書き直した小説世界のやりとりが、別の役者たちによって演じられる。

この2つの世界、小説家と女性編集者が書き直しをしている世界(現実世界)と、小説の登場人物たちが物語を生きている世界(小説内世界)、という層になっていて、それらを交互に見せながら劇は進んでいく。

この小説家が書いたのが、『TRUE STORIES』というミステリー小説だ(劇中では特に言及されないが、おそらくそうなっている)。小説の登場人物は新米刑事とエース刑事。それから事件の被害者(死んじゃった人)と周囲の人間たち。その人物たちのやりとりが、アドリブ、一発ギャグ、歌ネタ、暴露ネタ、などが詰め込まれ、腹から笑えるコント作品として成立している。
その人物たちを動かしながら、小説家と女性編集者があーでもないこーでもないとやっていくわけである。これだけでも優れたコメディとして仕上がっていると思った。でも、話はここで終わらない(要は大オチがある)。

でも、大オチを言うと「お前は、、、」なんてなりそうな気もするので核心は言いませんが、でも言ってしまいたいというこの気持ちはどうしたらいいのだろうと引き裂かれてしまいそうなので、ちょっとだけ言います。

さきほど、この劇は、「現実世界」と「小説内世界」の層になっている、と書いた。そしてそれは「現実世界」のやりとりが「小説内世界」の行方を決定している、という構造である。

でも実は、この「現実世界」での小説家と女性編集者のやりとりというのは、「小説内世界」で登場人物が読んでいたミステリー小説の物語内部の出来事だったのである。つまり、ずっと物語の外部に存在すると思われていた「現実世界」こそ、物語の内部(内部の内部)に押し込められたものだったのである。
ここで一気に逆転が起こる。すべてを客観的に「見ていた/コントロールしていた」はずの存在は、実は「見られていた/コントロールされていた」受動的な存在だった。外側の層(現実世界)と内側の層(小説内世界)という構造が、劇的にひっくり返される。

この強烈なインパクトとともに、劇は幕となる。でもこのインパクトは、単に劇作品の内部のみで働くのではない。現実(わたしたちが生きているこの世界、という意味での現実)にもフィードバックされる。

この作品がわたしたちに突きつけるのは、わたしたちは客観的に何かを「見ている/考えている/コントロールしている」という無批判な人間中心主義が、実ははじめから何かの構造の内部に、あるいは別の物語の内部に絡め取られている、という違った(もうひとつの)現実である。あるいは、違った現実の捉え方である。「いま見ている現実が、ほんとうに現実なのだろうか?」というラディカルな問いを、この作品は私たちの前に提出したのである。

この作品が、今回の公演においてトリとして上演されたことには、決定的な意味がある。それは「この世界をどう見る?」という困難な問題を観客に突きつけたままで劇場の外に放り出す、ということだ。ガハガハ笑って、あー楽しかった、って言いながら帰ろうとする観客を、最後にギョッとさせるような、ある意味イジワルでもある。

この公演を最後まで見てしまったわたしたちは、その問題に向き合わざるを得なくなった。いちいち考えなくてはならなくなってしまった。いったいなにが『TRUE STORY』なのか、と。