『2 君は向こう側』・解説風エッセイ

引き裂かれ系のちスクラップアンドビルダー

 僕らはいろいろと引き裂かれている。結論、そういうことだと思う。「何の話だ?」とお思いですか? さあ。何の話でしょうか。僕にもいまいちはっきりしません。すでに引き裂かれています。

 例えば一本の線を地面に引いて、「あっち側」と「こっち側」に分けてしまう。「あっち側」にいる人と「こっち側」にいる人の交流は絶たれ、僕らは「こっち側」だけで生活をするようになった。
 そうすると……。僕ら「こっち側」の人間同士は、次第に互いの人となりや性格を知り、趣味趣向や得意不得意を知り、理解や共感を深めていきます。一方で、「あっち側」の人間たちに対して「自分たちとは違う」という見方が生まれ、「あいつらはどこかおかしい」という感覚が生まれ、「あいつらは嫌な奴だ」という敵意が生まれる。こんな現象が、もしかしたら、起きてくるかと思います。それは「あっち側」でも同じようなことになって(「あっち側」の人にとっては、「あっち側」のほうが「こっち側」になる)、「あっち側」と「こっち側」の間にはっきりとした分断が敷かれてしまう。

 人と人の、組織と組織の、民族と民族の、対立を生むのは、政治信条や宗教思想や社会階級そのものではなく、それらの差異を因に引かれた境界線なのかもしれない。というか、境界線を引いてできたものを、イデオロギーや階級などと呼ぶのか、そっか。その境界線が身体へとフィードバックし、個人の思想や意識が輪郭を持ちはじめる。ごちゃごちゃとなってしまったのでまとめると、思想や立場の差異が境界線を生み出したのではなく、境界線を引くことで差異が明確になった、あるいは差異が発生したということです。

 あまりデリケートな話はしたくないが、おそらくだいぶ立ち入ったことになるように思う。

 今年の四月にうるま市で起きた忌まわしい事件。それによって基地問題が改めてクローズアップされ、地位協定の改善や基地撤去の世論が湧き上がった。それに伴って、

『米兵ではなく、「軍属」であり「民間人」なんだから、基地うんぬんとかの話じゃないよ』
『この事件を、自分たちの政治イデオロギーのために利用するな!』
『県民の犯罪率に比べたら米軍関係者の犯罪率は低いんだから、大袈裟にし過ぎだろ』

 みたいな声も、いくつか聞いた。「いや、でも、」と僕は思った。いや、でも、どうやったって「政治利用」になっちゃうよ、って。この状況で声を上げることは別におかしなことではないと思うし、だから声を上げること自体を非難するのはやめようよ、って。

 かといって僕は、「基地撤去だー!」とか「米軍は出て行けー!」みたいに声を上げることはできなかった。心からそういう気持ちになることはできなかった。

 僕はどちらかというと、「基地反対派」だ。沖縄の基地負担はやっぱり大きすぎると思うし、辺野古への移設に関しても基本的には反対の立場をとる。でも、じゃあ基地がなくなるよとなって、すぐに「やったー!」とは言えないだろう。それは、だいぶ浅薄だと捉えられると思うが、経済がどうこうとかそういう話ではない。とても個人的なことに起因している。

 簡単にいうと、友人(と大括りにしておきます)がいるからだ。在沖のアメリカ人の友人も、アメリカ人と結婚した日本人の友人も、基地内で働く日本人の友人もいる。基地は、それがなければ生まれなかったであろう関係をつくってくれたし、それがなければできなかったであろう経験をもたらしてくれた。それを考えると、「いますぐ基地撤去だー!」とはやっぱりやれない。

 もしかしたらぼくは、「ぬるい」のかもしれない。いや、「ぬるい」。どっちつかずである。基地について、「賛成」と「反対」の両陣地に片足ずつを突っ込んでいる。お前はどっちなんだと問われたら、「うーん」と口ごもることしか、僕にはできない。先ほど辺野古移設に関して「〝基本的に〟反対」と書いたのも、どっちつかずな意見が反映されている。反対だが、スーパーや遊ぶ場所がないとか、下水道すら不十分であるとか、それによって地域経済が停滞しているとか、そういった辺野古地区の状況を改善するまちづくり計画としての側面が基地移設にあるのなら、条件次第で受入れを容認するという声にも、そっかそうだよなと頷いてしまうのです。

 こういう、ぬるくてどっちつかずの意見は、議論の場ではなかなか「意見」として認められにくい、もしかしたら、そういう空気がどこかにあるのかもしれない。そのような声は「何も言っていない」こととイコールとされてしまう、そういう風潮が、うすく広く漂っているのかもしれない。どっちつかずで、どちらにも片足ずつを突っ込んでいる人たちは、両者の間に敷かれた境界線に引き裂かれ、声を出すことができなくなっているのかもしれない。

 でも僕は、これからもできるだけ「ぬるく」ありたいと思っている。線の「こっち側」に立って「あっち側」を睨み付けるのではなく、体の内部に引かれた線の両側をちゃんと見たいと思う。複数の理想や思想や現実や妥協や無念や情念や願望や固執や偏見や立場や関係に引き裂かれ、複雑に入り組んだ身体で、複雑なままに世界に身を置きたいと思う。そうやって、ぬるく、どっちつかずのまま暮らしていきたいと思う。そんな暮らしが悠々とできるくらいには、沖縄は自由で平和な場所だと、僕はまだ思っている。

* * *

 先日東京に行った際、「三鷹天命反転住宅」なる場所でとあるワークショップに参加してきた。そのワークショップは「建築する身体」というタイトルが付き、そこでの約1時間半の体験がいままでの「住居」に関するものの見方をガラッと変えてしまった。といっても、それまで住宅(建築物)の設計が何を基になされているのかなんて考えないまま生きてきたわけで、べつに住宅(建築物)に対しての定まった「見方」を所持していたわけではない。でも、「これは明らかに違うぞ!」ということだけはわかった、ということである。

 まず「三鷹天命反転住宅」において特徴的なのものひとつが、床だ。たくさんの突起があって全体的に凸凹している。普通床って平坦でしょう? 床の素材は様々な種類の石や砂や土が混ぜられたコンクリートで、歩いたり手で触れたりするとザラザラとした感触を得る。そしてその床には傾斜があって、部屋の片隅からその反対側に向かって、目測で四〇〜五〇センチほどの勾配があるように見えた。

 そういった特徴のある床を、「歩いてみましょう」というスタッフの声にワークショップ参加者が従う。まあ、普通に歩きづらい。普通の平坦な床なら、なんの意識もせずに足を前に横に運ぶことができるが、ここではそうじゃない。深く考えているわけではないが、足裏や足先が着地させる場所を探している。そうしないとうまく歩けなかったり転んでしまいそうになったりするから。

 そして、歩きながらふと気付く。床の「凸」の部分に、無意識のうちに土踏まずを合わせるにようにして歩いている。建築物によって身体運用の方法が塗り替えられている事実を、自らの身体でもって証明させられていた。

 直線の組み合わせでデザインされた、洗練された居住空間。僕らが普段過ごしているのは、そういった場所だ。その空間内で生活動作を行っていくうえでは、僕らは自分の身体というものをあまり意識せずにいられる。というか、そういう空間に慣れきっている。身体運用が外部環境に規定されているという事実に不感症的になってしまっている。

 でも、考えてみたら僕らは、身体運用がその置かれた環境に規定されるというその「原理」を、無意識のうちに利用してもいる。たとえば、いっぱいになったゴミ袋を、回収日の前夜、玄関脇のワザワザ邪魔になる場所に置いたりする。あれは、「環境」の方に手を加えることで、翌朝の自分の「身体運用(生活動作)」を規定することになる。玄関に来てゴミ袋を視界にとらえた途端、無意識にトリガーが引かれ、せっせと回収場所までゴミ袋を運んでいく。細々しているが、そういったことだ。

 空間内の環境を変更すること、言い換えると部屋を模様替えすることは、生活者の身体運用をソフトにシフトチェンジする。そしてその運用法を継続させるということは「生活習慣」を変えるということであり、それは「ライフスタイル」を変化させることである。ライフスタイルの変化とはつまり、生活者の人生を変えてしまうということであり、部屋の模様替えをするという行いは、それほどの(良くも悪くも)魔力を潜在的に備えているのではないかと思う。
 だから、例えばファッション雑誌やインテリア雑誌で特集されるような「おしゃれな部屋」「こだわりの部屋」などで、誌内にあるいずれかの部屋をブックマークして参考にしようと目論んでいる読者がいるとしたら、彼(あるいは彼女)はその部屋に憧れていると同時にそのライフスタイルにも憧れている。

 その「おしゃれ」や「こだわり」を自らの部屋に引用して空間をつくっていく読者は、二つの分岐点を通って、最終的に一つの地点へとたどり着く。

 分岐点の一つは、完全にそのスタイルを獲得するという地平だ。提唱者(雑誌に載っている部屋の主)に忠誠なかたちで家具・インテリアの選択とその配置をしていくことで、その空間での身体運用所作を導き出し、それによってそのライフスタイルを構築する。一言で表すなら「成功パターン」である。

 二つ目は、先ほどの逆で「失敗パターン」である。つまり、空間と身体運用(生活動作)との擦り合わせがうまくできず、結局は「部屋が荒れる」。そして模様替えあるいは片付けに対して、負のイメージを抱くことになる。

 そして、この二つが合流する地点においては、「成功」とか「失敗」という区別もなくなる。というのも、完璧な模倣でデザインされた空間も、荒んでカオスとなった空間も、結局はその生活が「馴染んで」しまうからだ。その空間内で求められる運用方法を、身体が確立していく。だから「成功」・「失敗」とか、「良い」・「悪い」とかいう区別自体が意味をなさなくなってくるのである。つまり、身体(生活)と呼応した空間であればいいのだ。

 ここまでつらつら書き綴ってきたこのテキストで何を狙っていたのかというと、つまり、俺の部屋は中途半端に汚いけどまあいいや、という自己肯定である。こんまり先生とみうらじゅんの思想が、よく言えば折衷したかたちで(逆に言えば中途半端に)入り混じった自分の空間。この在り方を認め、「これでいいのだ」と宣言することで、僕は部屋の掃除を回避しようと思っている。

 部屋の掃除をしなくても、別に誰かに怒られるわけでもないし、誰かに迷惑をかけるわけでもない。でもなんだか社会人としてどうなの?と真面目な僕は考えてしまう。それは、人間ができているから。そして、人間ができているからこそ苦しんでいるのである。その苦しみから自分自身を解き放ってあげる必要があった。そのための理由が欲しかった。

「だから僕は掃除をしなくても良いのだ」と、自分で自分に言い聞かせてみる。

 すると、その声を聞いたもう一人の僕は、鼻をほじりながらこう応えた。

「言われなくても、やらねえよ」

各作品(および全体として)の解説(風エッセイ)