『君は新生活』・解説風エッセイ

解説するとは別の仕方で、あるいは解説することの彼方へ

二〇歳になって、選挙権を貰った。それは「もうあなたは大人ですよ」という権利と責任である。そして「ちゃんと考えなさいよ」という半ば命令じみたものでもある。
それを、時折僕は放棄していた。選挙のことなんて、政治のことなんて、考えるのが面倒臭かった。「どうせ俺には関係ねえや」と思っていた。
政治を考えることというより、そもそも大人になることを面倒臭がっていたのかもしれない。

そもそも、「政治」ってなんでしょう。広辞苑を引いてみると、こう書いてあった。

【政治】
① まつりごと。
② 人間集団における秩序の形成と解体をめぐって、人が他者に対して、また他者と共に行う営み。権力・政策・支配・自治にかかわる現象。主として国家の統治作用を指すが、それ以外の社会集団及び集団間にもこの概念は適用できる。(後略)

だそうです。あ、そうですか、これが「政治」ですか。なんか、面倒臭そうですね。

はて。でもなぜか最近、政治のことを考えるようになった。でもそれは別に政治が面倒臭くなくなったというわけではない。相変わらず面倒臭い。
そうではなく、日常生活でのあらゆる面が面倒臭くなり、相対的に政治の「面倒臭い濃度」が薄まったように感じたからだ。

仕事をするのも面倒臭い。人付き合いも面倒臭い。休みの日に出掛けるのも面倒臭い。というより起き上がるのが面倒臭い。ぜーんぶぜーーんぶ面倒臭い。

そうなのだ。生活は面倒臭いのだ。なぜだろう。たぶん「選択」しなきゃいけないからだ。何を食べるか、何を着るか、誰と遊びに行くか、どのテレビを見るか、どんな写真を投稿するか。
生活の中で、それぞれの場面でいちいち立ち止まり、その度にどっちにしようか迷っていたら、たぶんヒトの寿命はいまより二〇〜三〇年くらい短くなるんじゃないでしょうか。わかんないけど。

だから僕らは、そういったことが面倒臭くなくなるように、よくできた解決策を実践している。それは「身体に染み付く」ってことだ。「習慣」とか、あるいは「クセ」とかっても呼ばれたりする。
こういう場合はこれを選ぶ、というのがパターンとして蓄積されていけば、だんだんと、立ち止まることなく瞬時にそれを選べる。なんと効率的。なんてエレガント。

と。ここで一度立ち止まる。というか、立ち戻る。【政治】を辞書で引いて出てきた「①まつりごと」について。なんだ、「まつりごと」って? ってことで広辞苑。

【まつりごと】
① 祭祀権者が祭祀を行うこと。
② 主権者が領土・人民を統治すること。政治。

うむ。こっちのほうが、言葉が、こう、シュッとしてる。
それから言っておくが、①には言及しない。印刷費のためにも、少しは紙面を節約せねばらならない。
そして、「まつりごと」への立ち戻りは終わり。さっきの「選択」の話に再び戻る。

僕らが何かを選択することは、それは同時に、何かを選択しなかった、ということでもある。
そしてその「選択しなかった何か」を、もしかしたら誰かが選択しているかもしれない。
複数の人間がなにかを選んだり選ばなかったりしているその現場で、いったい何が起こっているのか。
それは「政治」ではないか。

複数の人間が異なるものを選択したその瞬間、両者の間に境界ができる。
その境界を軸にした対立関係が自然発生し、その「秩序の形成と解体」をめぐったバトルの勝者が「領土・人民を統治する」、そんな感じのアレが、アレをアレしてるんじゃないでしょうか。

いろんなものからどれかを選択した途端、その選択は「政治」性を帯びる。
グリーンスムージーを愛飲する人と、A&Wのオレンジジュースを愛飲する人では、そのライフスタイルもそこから派生する思想も違ってくる。そのなかでも極端な人たちは、その対極にいる種類の人間を、ひどく罵倒したりもする。
そんなこんなな人たちがごっちゃになって社会を形成しているのだから、その中で生活をすることは面倒臭くないわけがないのだ。

あー、面倒臭い面倒臭い。ついついそう呟いてしまう。
この文章をここまで読んだ読者がもしいるのなら、あなたは既に「おめぇーの文章が面倒臭ぇよ」となっているかもしれない。そう思いながらも読み進めてくれたことに感謝する(もちろん「面倒臭い」とは思っていない人にも)。

でも、「面倒臭い」はたぶん、大人になるために必要なんだろう。「面倒臭い」を引き受けることで、人は「大人」になるのだ。
「大人」になるためには、「自分のやりたいようにやる」という戦略ひとつだけでは周囲との軋轢が生じるだろうし、理想や計画も途中で妥協したり先延ばししたりといった判断も必要になってくる。

「夢ややりたいことを諦めるのが大人なら、俺は大人になんてならない!」なんて人もいるかもしれない。というかいる。
そんな人たちが集うクリエイティブな空間の前を横切りながら、「無理だよ、夢なんか叶わねえよ」と吐き捨てていく人もいる。

この対極に位置する両者はでも、実は、お互いが否定している対極の思想(夢を諦めない—-夢なんてくだらねえ)をその内部に寄生させている。
「夢を諦める人生なんてつまらない!」という人の心には「叶わないかもしれないけど……」という不安があり、「夢で飯なんか食えねえよ」という人は「本当は俺だってあれやりてえな……」という羨望があるように思う。

その両者に共通するのは「そう思わなきゃ、やっていけない」ということではないか。

「夢を諦めない!」という言葉には「思っていたのと違う現在」を覆い隠してしまう力があり、「夢なんかくだらねえ」という言葉には「思うようにいかないかもしれない未来」への不安感情を先取りして慰める作用がある。
両者を分解していった先に核として残るのは、キラキラしたマインドや諦観した姿勢ではなく、もっと切実とした「焦燥」のようなものなのではないだろうか。

実は「キラキラマインド」も「冷めた諦観」も、同じ「焦燥」を発生源にしている。彼らは、それぞれが語る言葉(夢を諦めない—-夢なんてくだらねえ)によって、自らの立場の危うさを隠蔽している。両者の間に横たわるのは、思想の違いというよりも、方法の差異なのではないだろうか。

そしてもうひとつ言えるのは、それぞれの思想を強化(硬化)させるために、敵対する思想が有用であるということだ。
自分と正反対の立場を取る者がいることで、「いや、でも、俺たちはこうなんだ!」と強硬な姿勢を取るモチベーションとなる。
その意味で言えば、実は両者は、共依存の関係を形成している。

複数の思想や思惑が交差する点には、いやでも政治は発生する。その時、それぞれの思想や思惑は互いに睨み合っているように見えて、実はアイコンタクトによってそれぞれに安定的な地盤を形成し合っている。
そのような共犯的コミュニケーションの成立が可能であるという点が、政治をより混沌とさせるものとなっている。

うーむ、実に面倒臭い。

いつのまにか訳のわからない話を書いてしまっていた。
とにかく。なにかを選択するとき、なにを選ぶのかが結構いろいろアレみたいですよ、というのが一つ。
それから選択の方針(クセ・習慣)が、思想、行動、そして人生を裏側で操っている。そのスタンスは身体に染み付いているからなかなかに変えられず、それが厄介で面倒臭い。

「身体」というワードが出てきたので続けると、生活には「身体」が必要である。
人間は身体をもって世界と対峙し、そしてそのなかで生活を営むのであり、「身体」のない世界あるいは生活というのは、もはや世界でも生活でもない。

生活は選択を伴う。選択は政治を伴う。つまり、政治とは生活のことである。
そして繰り返すが、生活には「身体」が必要である。ということは、政治思想は身体を離脱しては存在できない。

でも、僕らはいつのまにか、政治が身体を伴うということを忘れてしまっているのではないか。

政治が身体を伴うとはどういうことか。
それは、「限界がある」ということだ。一〇〇メートルを二秒で走れてしまう人間は(いまのところ)いない。肉体の限界を超えている。腕がゴムのように伸び縮みする、なんて人もいない。それは漫画の世界だ。

でも、政治を考えるとき、身体に限界があることは勘定に入れない。
政治も生活もこの生身の身体を差し出して行うものである以上、その限界を遥かに超えた概念ばかりが飛び交う政策では、その達成は困難なものとなるだろう。

つまり、政治による理想の実現や、そのための具体的行動指針といったものは、それを行う人間の身体という限界値が存在することを自覚した上で思慮・設計されなければならないのである。

でもそれは、「限界はここだ」と決めてしまうことではない。そうではなく、「どうやらどこかに限界があるぞ」と脳内の部屋の片隅で考えておく、ということだ。これは政局的な話だけではなく、政治とは生活である以上、日常的な判断・行動においても適用されなければならないのである。

と、いくらか偉そうに語っていますが、こんなことを普段考えることなんてしない。
この解説(とは違う感じの何か)を書くにあたって、キーボードをタイプしながらほぼ無意識のうちに次の単語を選択し、そうやってこの文は形成されている。ある単語を打ち込むとそれに呼応して次の単語が出てくる、というような書き方であるので、どこかの段階で別の単語を選択していたら、ここに書いてあることと真っ向から対立するような文意のものを書いていたかもしれない。

そういったことは、このような解説(とは違う感じの何か)文であっても、あるいは「脚本」であっても、常々書きながら感じることだ。そしてその「書かれたもの」に、書いた僕自身が取り憑かれてしまう。そのような思想を「もともと持っていた」と思い込んでしまう。そこに「書く」という行為の恐ろしさを感じる。

さて、ようやく作品のことに触れようと思う。
今回の『君は新生活』をつくりはじめる上で、いくつかのセットアップをしておく必要があった。

ひとつは、こうして長々と書き連ねてきたことからもわかるように、僕は今回の公演で「政治」を扱おうと思った。そしてそれを、できるだけ「日常」に引き寄せて考えようと思った。だから今回のそれぞれの作品で、「衣」「食」「住」、それから「性」、「死」というものをテーマに用いた。

作品の上演順で観ていくと「1 君は痴女」が性について、つまり「生まれる前」についての話。それから「住むこと」(2 君は向こう側)、「食べること」(3 君はオーガニック)、「着ること」(4 君はラブリー)、そしてラストの「6 君はグッドバイ」が「死んだ後」の話、という流れになっている(「5」は喜久山の作品なのでシカト)。
「生まれる前」からはじまり、生活をし(衣食住)、「死んだ後」まで、政治は付きまとってくる。すなわち今回の上演の順番自体が、生活と政治の関係性について語ったものである。そういうまどろっこしいが仕方のない決まりに準じてみたのが今回の『君は新生活』である。

もうひとつは、「わかりやすく作る」というマインドセッティングだった。
というのも、この頃の公演では、観客の方からチラホラ「小難しい」という声をもらっていた。確かに観客への要求というものは増えたが、難しくしている気持ちは僕自身にはまったくない。でもそこに齟齬があるのなら、しっかり修正したいと思った。そのために今回は「わかりやすさ」を重視したつもりだ。
だから、今回の作品群は(ボコボコ喜久山のヤツは別として)、登場人物および物語の設定が、「男」と「女」が「食い違う(あるいは言い争う)」というシンプルな「二項対立」の構造になっていて、そこに三人目が入ってくることによって、その関係性が微妙に変化していく、という仕掛けが各作品にされている。
ほぼ同じ構造のため、だから言ってみれば、ぜんぶ「似たような話」とも言える。どうか、飽きずにずっと見ててね(ウフフ)。

ともかく、そのような装備だけをはじめにし、あとはフラフラ放浪するように脚本を書いたのだが、その放浪時間は意外に短くて済んだ。
はじめにいろいろ決めていたから、いちいち立ち止まる必要がなかったからだろうか。詳しいところは僕もわかっていない。

天邪鬼な人間はみんなきっとそうかと思うが、僕は「二項対立」が苦手だ。なんだか気持ち悪い。
でも時々、自分自身でもその穴に嵌ってしまうこともある。「自分」対「自分以外」なんて対立関係を勝手にでっち上げ、悦に入ってしまう。そんな自分もまた、なんか気持ち悪いな。

脚本を書きながら、この「二項対立」の境界線がボヤけたり、逆に溝が深まったり、またはイニシアティブが反転したり、そういったことがPC画面上で起きていくことを眺めて、愉快な気持ちになっていった。
ぜひ皆さんにも、そのような体験を提供する公演になればいいなと思っている。

脚本を書くのも、稽古をするのも、実に面倒臭い。
もっと言えば、会場を押さえて知り合いに連絡をしてチラシやチケットを作って客席が埋まるかどうか頭を抱えて、そんなことをするなんて、本当に本当に面倒臭い。
でも、その面倒臭いことをやりはじめて、もうまるまる三年になるのです(旗揚公演が二〇一三年八月)。

そんな面倒臭いモノをわざわざ観に来てくれる皆さんには、毎度、本当に感謝している。皆さん、本当に大人だなぁ。
僕らは、そんな大人な皆さんが大好きだ。本当に本当に大好きだ。好き好き大好き超愛してる。

どう? 嬉しい?

こうやって大人に媚びることが生活(政治)をする上でとても重要なことであるなんてことを考えて、この文章を結びにしようと思っているわけではないのである。

各作品(および全体として)の解説(風エッセイ)