『3 君はオーガニック』・解説風エッセイ

強権化するオーガニックと、ラーメン二郎の静粛な反逆

気付けばいつも、夕食はチェーン店ばかりだった。
つい半年ほど前まで、週八で『すき家』に通っていた。注文するのは決まっていて、『高菜明太マヨ牛丼並盛(四二〇円)』。
店内に入り席に着くや否や(アズスーンアズ)呼び出しボタンを押す。店員が来て注文をして店員が去って、また来て丼が載ったトレイを置いて去っていく。そして食う。食い終わる。立ち上がってレシートを持ってレジへ行き四二〇円を払って店を出る。
この一連の流れは一〇分にも満たない。
これぞファーストフードだ。その他にも、『ココイチ(CoCo壱番屋)』にも週三で通っていた。もちろん、いつも同じメニュー。

今日も『高菜明太マヨ牛丼並盛(四二〇円)』にありつけた、というのが、僕のささやかな幸福であった。
小さいとお思いだろうか。確かに。そのことには反論しない。僕は小さい。

数年前、なんの間違いか、オシャレなカフェで食事をしたときのことだった。
具体的に何を注文していたのかは覚えていませんが(魚料理だったかな?)、ココイチのノーマルサイズよりもひと回り大きいくらいのお皿が運ばれてきて、その中心にチョコンと、メイン料理が。
日本国旗の真ん中の赤い丸よりも全然小さい比率のそれを見て、ギョエーっと思った。

少ねぇー!しかも色がきたねー!灰色じゃん!灰色のグチャグチャじゃん!

で、一応食ってみた。
まずは付け合わせのサラダから……まずっ!

おい、ちょっと待て!サラダで不味いってどういうことだ!!!!

とまぁ、思いましたが、僕も成人してますし、そんな声を荒げることなんて人前でできませんし、なのでグッと堪え、今度はとりあえずメイン料理を……。

オエッ!……

オォウウェエエエエーーーッ!

ってな感じになったのでした。

そんな僕と、同じテーブルを挟んで向かい合っている女性が(当時の恋人)、表情を強張らせて僕を睨んできていました。
その料理は一二〇〇円(も)して、だからその料金とこの不味さとの不釣合いというかほとんど詐欺に近いこの商売方法に苛立ったこともあり、女性からのその侮蔑の視線に抗するように「高菜明太マヨ牛丼三つ食えるよ!」(当時は値上前で三九九円だった)と、火に油をぶっかけてさらなる炎上を演出してしまうという、後にこの劇団を立ち上げることになる演出家としての片鱗を垣間見せてしまったのでした。

で余計怒らせたので、渋々、そのカフェのおすすめ料理(わざわざ店前のイーゼルにかかった黒板に書いてあったから、たぶんそうなのです)を、呼吸を止めながら食べたのでした(半分残したけど)。
そして当然のように、蔑むような視線と言葉を僕に投げかけたその女性には、まあフラれましたが。

でも僕がどうしても納得いかないのは、あの店に、お客さんがワンサカいたことです。
ほとんど女性の人でしたが、僕と同じものを注文している人もいました。
僕はその人たちの食べる仕草や表情を、女性からの説教を華麗に受け流しながら観察していたのですが、誰もオォウウェエエエエーーーッ! ってなる人がいなかったんです。
信じられませんでした。僕の味覚がおかしいのか? これは、不味くないのか?

でも、あれから数年。ようやく気付いたのです。
あれは、やっぱり不味かったのだ。そして、あの女性客たちもおそらく、あれを不味いと感じ、それでもあたかも不味くないようにふるまっていたのだと。
つまり、あれは「マナー」だったのです(当たり前です)。

フレンチにはフレンチの、和食には和食の「マナー」があるように、「不味いもの」を食べた時の「マナー」というのが、あの店に集っていたお客さんたちには共有されていたということです。

そういった「マナー」が、食のほとんどに(暗黙のうちに)要求され、そして共有されている。
だからそれはもちろん、「スローフード」とか「オーガニック」とかいう食のジャンルというかコンセプトというかスタイルというかブームみたいなものに向き合うときにも、それ相応の「マナー」が要求されるのです。

「スローフード」とか「オーガニック」とかいう食のジャンルにおいて求められる「マナー」とは。
それはたぶん「ありがたがる」じゃないか。
「健康にも地球にも優しい」であるとか、「地元で採れた食材」であるとか、そういった料理や食べ方やマインドを「ありがたがって」いることを表現する必要があります。

だからそこでは、すき家でやるように料理を一心不乱に口に流し込むような食べ方ではダメなのです。それでは「ありがたがる」を実践できていない、「マナー」の悪い人物としての外部評価を受けてしまいます。

「ありがたがる」とは例えば、ゆっくりと味わう、食べながらその表情に微笑を含ませる、「おいしいね?」と食事を共にする相手と確認し合う、とまあ、こういったところだろうか。

読んでみて気づくと思いますけど、言ってしまえば「当たり前」のことだ。
外食という行為は多くの場合コミュニケーションの機会でもあり、そのような場合には、イタリアンであれ中華料理であれ、創作料理であれ家庭料理であれ、その「ありがたがる」を表現するための種々のふるまいは、ほぼすべての食のジャンルへの適用を義務づけられている。



この間東京で、「ラーメン二郎」に行きました。
沖縄にはない店なので、味もボリュームもメディアを通した情報としてしか知らないし、注文システムや客として求められるふるまいも知らない。
で、はじめての「二郎」は、いろいろとビックリだった。

まず、圧倒的な人気店であり人が溢れているのに、異様に静かなのだ。
開店一五分前にお店の前に行くと、既に三〇名近くの行列があった。そこでは、誰もが無口だ。おしゃべりをする者がいない。おそらく、全員が「おひとり客」だったと思う。だから静かなのは自然なことかもしれない。(「すき家」にもひとり客は多いが、でもカップルや友人同士や家族連れなどの客層も多いし、だから店内は声に溢れている)

さらにビックリだったのは、あまりにも効率化された、店員と客たちの動きだった。
注意してほしいのだが、店員だけでなく、客たちもがその効率化されたフォーメーションのなかでそれぞれの役割を全うしているのである。

《待機→食券の購入(客)→トッピングの確認(店員・客)→給水・着席(客)→調理(店員)→食す(客)→食器返却・卓上清拭(客)→退席・退店(客)→食器片付(店員)→着席(客 ※既に食券購入・トッピング確認・給水は済んでいる)》

の流れを、それぞれの顔も素性も知りっこない複数の他人たちが、言葉や視線すら交わすこともないままに滞りなく運行していく。

その効率的システムのなかでは、誰一人、ゆっくり味わう人間はいない、笑顔の人間もいない、おしゃべりする人間もいない。
店内に響くのは、トッピングを確認する際の非常に簡略化された言葉のやり取り以外は、調理器具や食器が鳴る音と、麺がすすられる音のみである。
それらは、豊かなコミュニケーションとしての食事現場では「ノイズ」としてしか存在しえないものだろう。
でも「二郎」において「ノイズ」は、その効率的システムが機能しているかどうかを判断するパラメータとしての本質的な機能を有しているのである。

面白いのは、どのような業界・ジャンルにおいても、本来、効率的なシステムというものは「ノイズ」を嫌うものであり、たしかに「二郎」はそのシステム内部においては「ノイズ」の発生を抑えるようなつくりだが、その「効率性・洗練性」を評価する基準が本来的な意味でのノイズ(雑音)である、ということだ。


「ありがたがる」タイプの食ジャンルについての「マナー」や、東京での「二郎」でギョッとした経験を経て思ったのは、「食事」とはもはや「食べること」ではない、ということである。

「食べる」という行為で必然的に発生する、食器同士が触れる音、人が料理を咀嚼する音。
それらの音を発生させることは、現在の「食事」における「マナー」としては違反(つまり「ノイズ」)として隠されがちである。そのことに慣れきってしまっているために僕は、「二郎」のシステムにギョッとして、たじろいだのだ。

「二郎」がやろうとしているのは、それら「ノイズ」とカテゴライズされた《音》の復権である。
《音》を再びメインストリームに立脚させ、本当に純粋なカタチでの「食」を追求していくのだ、という革命的政治的宣言を、「ラーメン二郎」は行っているのではないか。

そんな「二郎式食の追求」の対立軸にあるのが、「ありがたがる」食事だ。
こちらもまた、「二郎」とは別の仕方で食のあり方を追求するものでもある(環境・人体へのまなざしや地産地消など)。

たとえば無農薬野菜・有機野菜などは、「ありがたがる」食においては重要なワードだ。
そうした農業の現場では、農薬や化学肥料など、つまり「不要なもの」を排して、自然に存するエネルギーを生かすことを志向します。またそれらが加工・調理される場においては、人口添加物等の「不要なもの」も省かれます。

ということは結局のところ、「二郎系」と「ありがたがる系」では、「何を『不要なもの(あるいはノイズ)』として設定して取り除くのか」という「対象」の違いしかそこにはなく、その運動(とあえて言ってみる)の根本というか原理みたいなのは同じ、ということなのか。

でもやっぱり、両者はちょっとだけ違う。
「不要なもの(ノイズ)」を排した「ありがたがる系」はしかし、その空いたスペースに新たな「不要なもの」を据え置いたのである。

「スローフード」とか「オーガニック」とかいう言葉には、「食べるもの」や「食べること」自体を「ありがたがる」ようなふるまいを請願する意が含まれている。
それに応えるために《ゆっくり・笑顔・「おいしいね」》という表現を、食べる側の人間が行う。
この《ゆっくり・笑顔・「おいしいね」》は、食べるという行為そのものにとっては「不要なもの」である。でもその「不要なもの」が、食の本質的なあり方を追求する「ありがたがる」食事においては甚だ重要であるのだ。

うむ、わかっている。僕はいま、ややこしいことを言っている。
その証拠に、僕も今なにを書いているのかほとんど理解していない。

でも、わかってほしい。「食事」とは、それほどややこしいことなのだと。

別にどっちが上でどっちが下かとか、そういったことを言いたいわけではないし、そんな上下みたいなものはないと思う。どっちを志向するか(好きか)くらいのものなので、どっちだっていいじゃんと思う。

僕の場合は、オォウウェエエエエーーーッ! ってなった例のカフェが、なんだかオーガニックっぽい感が強かったので、「ありがたがる系」に関しては少しトラウマみたいのものもありつつ、ちょっとだけ冷めた気持ちで見ていたように思う。

でも、「ラーメン二郎」での時間を過ごした後には、急激に、新鮮で健康的なもの(野菜とか)を食べたくなった。で、実際にそうした。(で、その傾向は今もちょっとだけ続いている)

いったい、どうしてそういうふうになったのだろうか。

「二郎システム」の徹底した効率性・純粋性が、理想主義の社会運動が内面に持つ恐怖や不安みたいなものを、どこか彷彿とさせるからだろうか。
それとも、ただ単に、そのラーメンがこってりし過ぎていて胃や腸が悲鳴をあげていたからだろうか。

おそらく、というか絶対に、後者であることは間違いない。

各作品(および全体として)の解説(風エッセイ)