『1 君は痴女』・解説風エッセイ

この国には「痴女」が足りない。

「痴女」という言葉に、僕は強い憧憬を抱いている。こんなことを言うといろいろとザワつくかもしれないし、だからとても後ろめたいのだけれど、でも、それでも言わなければいけないって思う。この国には、「痴女」が足りない!

 輝く女性を応援する、みたいなムーブメントがあった。いまもある。ちょっと前から、内閣府主導で「輝く女性の活躍を加速する男性リーダーの会」という運動(?)もやってる。

 僕はこのネーミングにまず「ん?」ってなる。いや、取り組み自体は良いと思うんです。長時間労働の削減とか子育て支援だとかをちゃんと目指そう、それを企業の社長とかもちゃんと考えていこう、っていう方針のもとに賛同した人たちが参加しているものだと思うので、それは良いんです。

 でも、この「輝く女性の活躍を加速する男性リーダーの会」って名前だと、結局、「男性にとって都合の良い女性」みたいなニュアンス含んじゃいません? 女性は男性の掌の上で飛んだり跳ねたりして、それをコントロールできるのは男性です、みたいな無意識が反映されてるような気がしてならない。

 考えすぎだろうか。考えすぎかもしれない。でも、あるいは、現実的にそうだから仕方ないでしょ? ってな声もあるかもしれない。
 妊娠・出産は女性にしかできないことだし、身体や心理的な負担を考えると、その期間は仕事を休むしかない。そうなると企業の側も、継続的にその業務にコミットできる可能性の高い男性の方が女性よりも登用させやすくなることは、まあ仕方がないのかもしれない。

 っていう現状があるのだとすると、子育てもそのまま女性が担った方が合理的なのかもしれない。だからそれがフォーマットとして社会の中で設定されているのかもしれない。そしてそれはいまでは(昔からだが)子育ては女性がやるもの、という不文律として共有されている。
 なるほど。そういうわけで、社会の中で男性が優位となるのですかね。

 でも僕はよく思うことがあるんです。先ほど、「妊娠・出産は女性にしかできない」って書いたけど、ってことは、生物学的には女性つまり「メス」のほうが、子孫を残すという視点で見るとより重要である、ってことじゃないの、と。
 逆に、男性は、女性が妊娠・出産で負担が大きいときにしっかりと生活を維持しなくちゃならないし、だからバランスを取る意味でも、社会的な意味づけを男性に施す必要があったんじゃないか。

 これは別の言い方をすると、男性に施された意味づけ(「肩書き」や「出世」など)は、能力や資質とかへの報奨というよりも、ちゃんとしてもらうための「エサ」みたいなものなんじゃないか。つまり男性は、優れているから地位が高いんじゃなくて、地位を上げなきゃアンタちゃんとやんないでしょ、ってケツを叩かれてるってことなんじゃなかろうか。

 だから、ここで、あえて言い切ってしまおう。男性の立つその社会的地位は、ほとんど「おだて」であると。「男性優位」とは幻想であり、その幻想の条件設定を皆が甘んじて受け入れて、この社会は成り立っているのだ。

 社会的な部分だけで見ると男性が「上」に見えても、実は生物学的なこともトータルで見ると意外とバランスが取れてるかもしれない。いやむしろ、女性の方がなんだか「偉かった」りして。というか、そのほうが平和な気がする。「俺たちは偉ぶってるけど、実は女性には頭が上がらないんだよな……」って男性全員が自覚しているような社会って、なんだかとっても、ナイスな社会なんじゃないだろうか。僕は半ば本気でそう思っている。

 そんな理想的な社会が実現するためには、「痴女」が必要だ。なぜなら、劇中でも登場人物が述べているが、「痴女は男性のものじゃない」からだ。どういうことだろうか。

『痴女の誕生』(安田理央)という書籍がある。アダルトメディア(AVなど)が描く「性」のカタチを、時代の変遷と絡めて語る本で、僕はこの本に異様に興奮し(性的にではなく)、でもタイトルがタイトルだけにあまり他人にお勧めすることもできずにいた。
 でも、溜めに溜めてそろそろガマンが出来なくなってきたので、ついに、ここで発射することになる。

 AVなどのジャンル(「美少女」「熟女」「素人」など)のうちほとんどは、ユーザーである男性のニーズ(欲望)を敏感に察知し、それが具現化されたものである。
 でも、「痴女」だけは違う(この主張こそのこの本の真髄である)。それ以外の「素人」や「美少女」などは、いわば男性の妄想であり、幻想だ。「あんなに普通な子がこんなこと……」とか「清純な女の子が俺の前では……」とか、っていうしょうもないけどどうしようもない妄想に、メーカーが律儀に応じていった結果、そのジャンルは市民権を得た。

 でも「痴女」は、ユーザー(男性)ではなく、女性によってつくりだされた。
 画面の中の「痴女」たちは、男性を弄ぶようにして、そのプロセスを楽しんでいる(ように見える)。その「責め」の姿勢は、男性に喜んでほしいからというより、自分が「責め」たいのだ。自分が「責め」ることで、男性がよがる。その姿を見て、彼女たちは楽しんでいるのである。

 女性誌などでも時々、「痴女」的なものが特集されることもある。でもそれは「彼氏が喜ぶセックス」とか「男に好かれるラブ・テクニック」みたいなタイトルで、そこにはどうしても「男性優位」のニュアンスが付きまとう。前提から「男性を喜ばせる、気持ち良くさせる」というスタンスであり、そこでは女性の「責め」は「奉仕」へと変換されている。

 でも、本来的な「痴女」はそうではない。そこに、男性に「おもねる」とか「へつらう」とか「媚びる」とかいった策略はない。「責め」たいから「責め」るのだ。
 そして、こういう「痴女」みたいな女性に憧れを抱く男性というのは、おそらく、「男の方が偉い」とか「男尊女卑」なんて考え方をうまく退けることができているんじゃないだろうか。あるいは「男性優位」は幻想であることを自覚できているんじゃないだろうか。

 性癖の芽吹きとは、おそらくほとんどは偶発的なものである。あるときふとした体験によって生み出されたそれが、その後の人生にずっと付きまとう。あるときふと「痴女」に出会い、心打たれ、女性観ひいては社会観が変わってしまう、そんなこともあるはずだ。であるなら、「痴女」がもっと増えれば、そのような偶発的なことも起こる可能性が増えるわけで、そうすると社会の中での男女間格差なども少しずつ解きほぐされていくのではないだろうか。僕はほぼほぼ本気でそう思っている。

 冒頭に書いた「輝く女性の活躍を加速する男性リーダーの会」について考えてみる。
 ある団体なり組織なりが主張する「実現したい未来のカタチ」というものは、すでにその組織自体が先駆的に実践できていなければならない。そうでなければ、その「実現したい未来のカタチ」はただの戯言になってしまう。たとえば、民主主義の獲得を目指す社会運動が、独裁的に組織されていたら、その念願であるはずの民主主義は達成されない。仮にその組織が主導権を握った時にあるのは、強権的な独裁制だ。

「輝く女性の活躍を加速する男性リーダーの会」はどうなのか。もし、そこに集う男性リーダーの中に「男性優位」な考え方があるのなら、「輝く女性の活躍」する上限が低いところで抑えられてしまうのではないか。
 であるなら、「輝く女性の活躍を加速する男性リーダーの会」に参加する条件として、「『痴女』が好き」という項目を入れたらどうだろうか。「『痴女』が好き」な男性リーダーは、女性活躍の上限を高めてくれる、あるいは取っ払ってくれる存在になるはずだ。会を組織する者たちが「もっと責められたい!」と本気で思っていたら、少なくとも「いやぁ、女性には頭あがんないよ」と思ってたら、この組織は素晴らしい実績を残せるはずなのだ。

 それなら、いっそのこと名称も「輝く女性の活躍にひれ伏す男性リーダーの会」くらいにしたらどうだろうか。とても素敵な社会になっていく様子が見えてこないだろうか。僕にはありありと見えている。

 うむ。いいじゃないか。「輝く女性の活躍にひれ伏す男性リーダーの会」。なんだかとっても、クールでナイスでエクセレントなジャパンになれそうじゃん。僕は完全に本気でそう思っている。

各作品(および全体として)の解説(風エッセイ)