なぜ子どもたちは、(イヌではなく)ネコの真似をするのか。

どうも。兼島と申します。
公演が終わって1ヶ月以上過ぎ、チョコ泥棒の活動は落ち着いていますが、今度は小学生と一緒に劇を作ったりしていて、いろいろと忙しくなっております、、、
こんな忙しい時ほど、なんらかのかたちで現実から逃亡したいと思うのが人間の性ですので(わかりませんが)、朝から日記感覚で文章を書くことをしております。
んで、最近ちょっと考えて面白かった話を。

わたくし、こんなことをする傍で保育園の園長をしておるのですが(しっかりせい!!)、年少クラスの先生が、デイケアで残った子どもたちが遊んでいるのを見ながら、ふと「なんで子どもたちって、イヌじゃなくてネコの真似で遊ぶんですかね?」とつぶやきました。
はっ!となる。
たしかに。
子どもたち同士で遊んでいる様子を見ると、ネコの真似をして「ミャーミャーミャーミャー」やっていることが多い気がする。「ワンワン」などと吠えながら遊んでいるのを見ることは少ない。
はて。これはどこの園でもこのような傾向になるのでしょうか?

「ワンワン」という記号表現に男性的な意味内容を付設し、「ミャー」には女性性を記号内容のうちに加えている、という仮説も考えられます。
うちの園は男女比でいうと女の子の方が多いから、だからネコが多い、と仮定することもできないことはない。でもそれじゃ、私自身は腑に落ちないのであります。
なぜかって、男の子もネコになって遊んでいるから。

じゃあなんでしょうか。
それはたぶんですね、ネコとイヌの違いってのは、コミュニケーションのあり方の違いなんじゃないかとパッとひらめいたのです。
犬の鳴き声は「ワンワン」(アメリカでは「バウワウ」です。とかそんなのはいいので)ですが、でもイヌは、「鳴く」ってより「吠える」というふうに表現されます。「イヌが『ワンワン』と鳴く」より「イヌが『ワンワン』と吠える」の方が、ふつう文章としてしっくりくるかと思います。
「吠える」の発信者から受信者への要請、つまり吠えた側から吠えられた側へ求められる応答は、なんらかの「行為」である場合がほとんどかと思うのです。
たとえば、番犬としての務めを果たすべく吠えまくっている犬が、その「吠える」べき対象に発しているのは「早くここから出てけ!」というメッセージです。あるいは、「お願いだから帰ってください」という懇願です。ほかにも、「飯をくれ!」という「ワンワン」や、「暇だ!付き合え!」という「ワンワン」などもありますが、いずれの「ワンワン」も、受信側に「行動」を要求しているのです。

一方猫が「ミャー」と鳴くとき、そのときに発信しているメッセージはほとんどない、と考えていいんじゃないか。
まあたまに「ニャギャーッ!」みたいな威嚇をしているところをアニメなどで見たことはありますが、基本的にネコって、知らん人の前で鳴くことって少ないんじゃないか、っていう印象を私は持っています。
じゃあ鳴いたときは、ネコは何を要請しているのか。それは単に「返事」じゃないか。「ミャー」という鳴き声に含まれるコンテンツよりも、受信側に同じように「ミャー」と返信してもらうという、その交信自体に大きな意味があるんじゃないか。そういうふうに思えるのです。
「ねえ、聞こえてる?」「あぁ、聞こえてる聞こえてる」というやりとりのうちに、双方は互いの接続を確認でき、安心感を得ることができます。
遠く離れた恋人同士が、中身のない話を延々と繰り返すような長電話をするのには、「つながっている」ことを確かめ合い安心感を得る、という大きな意味・効用がある。そのことを双方が直感できている場合は、遠距離でも関係性を維持することは可能でしょう。でも、どちらかが「で、何が言いたいの?」とか「そんな意味のない話なら電話切るよ?」とかってコンテンツを重視しだした途端、その関係性は終焉へと向かって駆動し始めます。
これは恋人関係に限った話ではありません。
例えば、私たちの社会では、「おはよう」という言葉には「おはよう」と応答しなければならない。それは朝に限らず、例えば午後から業務がはじまる職場などは、たとえ深夜だとしても、「おはよう」と言われたら「おはよう」と返さなければならない。「おいおい、もう深夜だぞ。こんばんわだろ」という言葉は野暮である。そんなこというやつは嫌われます。
なぜなら、「おはよう」の重要性はコンテンツにはないから。「朝早くからご苦労様です」というような意味内容を伝えたいのではなく、「おはよう」という返信をもらいたいのです。それは「あなたとわたしは同じ場所にいる」「あなたとわたしはつながっている」という確認作業であり、どんなに意見が合わない相手でも「とりあえずこの場においてはなんとかやっていこう」というようなメタメッセージを「おはよう」は含んでいるのです。
だから挨拶を軽視したり返事をしない人というのは、「場の共有」や「つながり」を拒否した人間として、そのコミュニティから自ら退散していったものとして認知されることになります。

イヌ的な「効率的」で「ビジネスライク」なコミュニケーションは、集団内でなにか一つの目標をすでに共有している時にはビシッと機能するでしょう。新企画のプロジェクトチームみたいな、そういったイメージでしょうか。
それからしたらネコ的なコミュニケーションは、地元の仲間との飲み会、みたいなイメージに近いかもしれません。ほとんど意味のない会話、何度も聞いた会話、そういった会話を延々積み上げていくような場。とりあえずワーワーやって、後になって何を話したかほとんど覚えていないような場。でもその、「無意味な時間」それ自体が、周囲とのつながりを確かめ合うには決定的に重要なのです。

子どもたちは遊びの場において、なぜイヌではなくネコの真似をするのか。
子どもたちは遊びの中で、「つながり」を確かめ合っているのです。「同じ場所にあなたとわたしがいる」という事実に包まれることで、安心して遊びの場に入っていくことができる。そのことを本能的に知っているからこそ、子どもたちは「ミャーミャー」と鳴きながらじゃれ合っているのです。


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