「経験なき記憶」を引き受ける(第1部『これからの話』について)

「経験なき記憶」を引き受ける
(第1部『これからの話』について)

わたしたちは、経験したできごとを、記憶としていつまでも抱え続けることができる。嫌な感じの言い方をすれば、いつまでも抱え続けるはめになる。
「経験」が「記憶」となるときとは、それがいつでも再起できるものとしての「普遍性」を獲得するということである。それは逆に、「経験」から「時間」を抜き取ったものが「記憶」であると言える。だって「記憶」は、時系列から解放されたものであるから。
「経験」から「記憶」へと凝縮されるとき、「時間」は消失していく。
そしてその「記憶」が再生されるとき、「時間」は再構成され、当時経験したものよりも密度の高い「経験」へと還元される(しかも当人はそのことには無意識である)。

「宮森小ジェット機墜落事故」についていえば、この事故を「経験」した者はごく限られている。だからこの事故に関しては、誰かが何かを残さなければ、簡単に忘れ去られてしまう。なかったことになってしまう。でも、その伝承はとても難しい。なぜなら、いま述べたように、「経験」者が限られているから。「経験」自体を伝えることはできないから。だから人は、何か悲劇性やインパクトの強いことがあったとき、「記憶」として刻みつけて後世に伝えていく。
ジェット機事故の「経験」を、たとえば事故によって想起された感情(悲しみ・怒り・悔しさ・やりきれなさなど)、基地と沖縄という関係性、沖縄人の人権についての問題、などなどの「経験」を風化させないために、被害者・当事者の方、遺族・家族の方、そして「宮森630会」の方が必死な思いで「記憶」の伝承に取り組んできた。

でも・・・。それを受け継いでいく立場の私たちは、その「記憶」をどう扱えばいいのだろうか。
「怖い」とか「いやだ」とか「平和を願う」とか、そういった感想をその都度思い浮かべればいいのだろうか。
たしかにそれは必要だ。絶対的に必要だ。
でも・・・。

わたしたちがいま再生しようとしている「記憶」について、つまりジェット機事故について、私たちは「経験」を持っていない。
「経験なき記憶」を基にした舞台作品を、どう作っていくべきなのか。
おそらく、資料として保存された「記憶」をその通りに記述していくだけでは、舞台作品として価値を生み出すことはできない。
資料を踏襲したカタチではなくて、つまり「記憶」の参照ではなくて、いますぐにでも我が身に起こり得る「経験」として、「現実」として、提示することはできないだろうか。
先にわたしは、「経験」から「時間」を取り除いたものが「記憶」だと書いた。であるなら、「記憶」に「時間」を流し込めば、「経験」が立ち上がってくるのではないか。それは当時の時系列を全く違わずに構成するという意味ではなく、いままさにわたしたちのいるこの世界に流れている「時間」を介在させるということだ。
当時と今とでは流れている時間は全く違う。だから、今という「時間」を挿入したら、事故の当事者たちがした「経験」とはまったく違うものが現れてくるはずだ。でももうそのようにしてでないと、わたしたちがあの事故について何かを「経験」することはできないのではないかと思う。

だからわたしは、この劇の第1部を『これからの話』というタイトルにした。これからいつでも起こり得るかもしれない「現実」。わたしたちにいつ降りかかってくるかわからない「経験」。そういった意味でこう名づけた。
そのことを強く表現するためには、「記憶」を、その当時の形をそのまま再現するようにして舞台化するのではなく、いま現在私たちが住むこの世界に流れている「時間」を注入したうえで作品として立ち上げねばならない。その具体的な策としてメタ構造を一部に採用している。
この劇では冒頭から、登場人物の女の子たちが「これからこの舞台の上に、飛行機が落ちてきて、私たちは死にます」などということを観客に向かって話す。
でもその女の子たちは、お互いに会話をしているとき、飛行機が落ちてくることを知らない。あるいは、知らないようにふるまっている。
これはある意味ネタバレだけど、べつにそんなことはどうだっていい。この構造の意図を分かった上で観劇してほしい。
日常的な会話で盛り上がっている少女たちの場面をフィクションのフェーズとして捉えつつ、そこに現実的な時間(観客の時間)を挿入することで、つまり舞台と観客の間にある「第四の壁」を取り去ることで、舞台上に現在の「時間」が流れ込んでくる。
本来メタフィクショナルな構図というのは、観客への直接的な効果を狙っていることが多いと思う。でもこの作品に関しては、観客への効果(観客席に作品世界の時間を流し込むこと)ももちろん狙ってはいるけど、それよりも舞台上に現実世界の「時間」を注入させる意図の方が圧倒的に強い。
「経験なき記憶」に「時間」を注入することで、「経験」としてジェット機事故がリアリティを持って還元されてくる。
もしかしたらそうなるかもしれなかった「現実」として、あるいはこれから起こるかもしれない「現実」として。
その「現実」を提示することそれ自体が、この劇の目的だ。これを観てどう感じてもらうか、というのももちろん大事なことだけど、でもそれよりも、「記憶」を「現実」として、「経験」として、自分のこととして、作ったわたしたちや演じる子どもたち自身がそういったふうに捉えるということが目指されるべきだと思った。
なぜなら、この劇を演じるわたしたち「石川ひまわりキッズシアター」は、事故についての「記憶」の伝承をこれから担っていく立場であるから。
そのためにはあの事故の悲しい「記憶」から、わたしたち自身の「経験」として何かを引き出さなければならない。その「経験」を持ってしか、事故の「記憶」を自らが「経験」したかもしれない痛みとして引き受けることでしか、「記憶」を伝承していくことはできないのではないかと思う。
つまりこの劇は、この劇を作ったわたしたち自身に向けて作られたものである。あの事故の痛みや傷を、なまなましい「経験」として自身の肉体に刻み付ける行為である。

演じる子どもたちは、実はあまりそのことに自覚的ではない(と思う)。でも今回この劇を演じるという「経験」が、彼女たちの「記憶」として凝縮されるだろう。この「経験」を伴った「記憶」が、伝承することへの切迫的な使命感を芽生えさせることになるのではないかと思っている。
子どもたちには申し訳ないけれど、彼女達は傷を負う運命にある。「記憶」を「経験」へと還元させ、その「経験」を「記憶」として持ち続けるという運命を背負っている。でもその運命を背負った者こそ、基地問題や平和を考える際の重要な存在になっていくだろう。傷や痛みを知る信頼に足る存在として、これからの沖縄社会を前に進めていく役割を担っていくことになるだろう。
もちろん、わたし自身もその役割を請け負っていかないといけない立場にいるが、それよりずっと若い彼女達にも、同じような役割を担ってもらいたいと思っている。
子どもたちよ、すまない。だが、よろしく頼む。

各短編についてのエッセイ

● 『経験なき記憶』を引き受ける(第1部『これからの話』)

● 手作りの星条旗(第2部『デイドリーム』)

● 随時公開いたします(第3部『私たちの命』)



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公演の詳細はコチラ
日時 2017年1月29日(日)
開演 15:00 (開場 14:30)
場所 宮森小学校体育館(うるま市石川一丁目46番1号)
料金 ・大人:500円
・中高生:300円
・小学生以下:無料
チケット購入について
● 公演特設ページからご予約ください。 【公演特設ページ】

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