「蓬莱2」に関する(またもや)いくつかの仮説(その2)

さて、仮説2つめです。
絶対的にややこしくなることは目に見えているのでやめようかなーなんて思いながらここまできましたが、まあでもややこしいことってのは大事です。っていう趣旨のことをだれかがいうたびにそうなんですよ!って我が意を得たり的なそんな感じで、いや違うなわかりやすくできないことの罪が軽減されるような気になるんです。
、、、なんの話だ?

仮説2_舞台上の時空は歪んでいる(特殊相対性理論的な)

仮説1_琉舞とはプログラミングである(真っ白な腕と片足立ち)
仮説3_琉球舞踊とは、濃縮還元である

琉球舞踊公演『蓬莱2』の第2部は、6名のうち3名が、ひとりずつ古典女踊を披露し、他の3名が一緒に雑踊を踊る、という構成。
普段琉球舞踊を見慣れない私のような人間(あえて一般化してみる)にとっては、「女踊」が一番の鬼門なのである。

どういうことか。
……眠くなるのである。
なぜか。
……動かないからである。

誤解があってはいけないから言うが、つまらないのではない。
踊り手の纏う衣装は色彩鮮やかで美しく、それとは逆向きのベクトルというか、俯き気味の顔から醸し出されるアンニュイというか陰というか、そういうのが「色気」たっぷりである。
それと、動かないといっても、突っ立っているわけではない。ちゃんと動いている。むしろ、動き続けている。

でも、なんで「動かない」なんて書いたかと言うと、極限までスローかつミニマルな動きを突き詰めた、過剰なまでの抑制こそが女踊の本質(だと思っているんだがいい?)だからである。
以前の記事に書いた(コチラ)ように、女踊の形式には、琉球舞踊が発展した時代の女性観が反映されているのではないかと思っている。
その女性観というのが、つまり求められているのは「淑女性」なのではないか。

と、いくらここで長々と何かを語ったとしても、ウトウトしてしまう罪が軽減されるものではない。
「でもだって、音楽とかも心地良いんだもーん」と、いっそのこと開き直ってしまった方がむしろ清々しいんじゃなかろうか。
でも、それだと、ところどころ意識は飛んでいるけども精一杯瞼を押し広げていた自分の努力が誰にも伝わらない可能性が高い。
だから、という接続詞がふさわしいのかは疑問だが、だからわたしはこうしてテキストを書いているのである。(つまり罪滅ぼし?!)
でも、でもちゃんと言っときますけど、寝てません!
ウトウトしたのは、意識が度々飛んだのは認めますが、断じて寝てません!

さて、わたしは誰に向かって許しを請うているのでしょうか。

女踊の動きが遅いのは、先述したように「淑女性」を求められているから、というのが前記事での仮説であった。
今回は、そこから発展して、劇場に流れる時間について考えていくことになる。「淑女」から出発してアインシュタインの特殊相対性理論に行き着くことになる。

でははじめます。

えっと。

舞台上の「女性」(踊り手)は、淑女なわけであります。上品で、落ち着いていて、慎ましい。
艶やかな着物に身を包みながらも、表情や仕草、あらゆる所作は控えめで奥ゆかしい。
そんなレディな彼女は、でも、心の中に、秘めたる想いがあるわけです。
それはたとえば、淑女であるがゆえに自ら言い出すことのできない悲しき恋心。
あるいは、結婚の契りを交わしながら、遠く離れていってしまったあの殿方への燻った感情。
古典女踊の歴史性とか、型や振りの意味などはとんとわからぬのですが、女性(踊り手)の動きはそういったことを表現しているのではないかと思うのです。

これについては完全なる私観であり、そこを仮説の出発点にするというのはどうでしょう?なんてモヤモヤもないことはないですが、どうせこれは研究論文でもなんでもないのです。
どーせ無責任な論だからいいのです。

そう、だから、舞台で踊っている女性(踊り手)は、恋しい相手への果たせぬ想いを静かに、でもはっきりと表現しているわけであります。
淑女は、その想いがいつか実ることを祈りながら、ただひたすら待ち続けているわけです。
淑女は、自らアクションを起こすことはせず、殿方の到来を待ち焦がれているのです。

でも、もうすでに、彼女の心は張り裂けんばかりに想いが膨らんでしまっています。
彼女は淑女だからそれを表には出しませんが、でも、彼女の魂はそうではありません。
そしてついに、彼女の内なる叫びが、音のない咆哮が、世界に向かって炸裂したのです。殿方の元へ向かって、「光」の速さで飛び出したのです。

さて、「光」が、やっと出てまいりました。
正直これまで書いていたのは、「光」を引っ張り出すためのこじつけのようなものであります。
光の速さで発射された彼女の魂は、実は、彼女が立つその地ごと運んでいたわけであります。
つまり、舞台上は光速で移動していたというわけです。

ここで、「特殊相対性理論」が登場します。
その理論によれば、高速で動くものの内部は時間がゆっくりと進行します(◆1)
何年も宇宙旅行に行って地球に帰ってきたら時代が変わっていた、みたいなSFの話とかをイメージしたらいいですかね。
え、じゃあ、浦島太郎の話とか、ドラゴンボールの精神と時の部屋とかもそういう原理なんですかね。
ということは、亀は太郎を拉致した工作員で竜宮城は超高速で動く宇宙船だったのですかね。
ということは、精神と時の部屋も、異常な速さで部屋自体が運動していたというわけですね。

そんな話はいいので、舞台上の時間の話でした。
舞台上は、彼女の、彼のもとへと向かって疾走する魂に引きずられて、光速に近い速度で移動しているのでした。
彼女の果たされぬ想いがその地にこびりついて、やがてそれは地面ごと引きずりながら加速し、光に近づいた。その結果、彼女の魂が、時代を超えて今観客の前に現れてきている。
そういうふうにこの古典舞踊を見ることはできないだろうか。

だとすると、舞台の上で展開されているのは、古の女性の姿の「再現」ではない。その時代の淑女の魂を、踊り手という肉体に投影しているのである。
淑女のその魂は、今この時代にまで流入し、わたしたちの目に映っている。

彼女にとって、そして彼女が立つ場(=舞台上)においては、時間はとどまることなく、何の違和感を感じることもなく流れている。
でもその場自体は、乗り物として、光速に限りなく近い速さで動いているので、アインシュタインの理論を信じるなら、舞台上と客席との間で、時間の歪みが発生している。
こちら側(客席)とくらべて、向こう側(舞台)に流れる時間は、相当に遅れてしまっている。
だからこそ、彼女の動き(踊り)は、ゆっくりとしているのである。

その歪みが、舞台に立つ踊り手のすべての所作を遅延させ、女踊の芸術性を際立たせている重要なファクターなのではないか。
そしてそれこそが、わたしを眠気に誘う犯人なのではないか。
だって、こっち(客席)の時間は早く進んでいるのだから、上演の途中で寝る時間になってしまうじゃん。

特殊相対性理論でおもしろいのは、動いている物体の時間は遅れている(ゆっくりに見える)のだが、動いている物体から止まっているものを見たときも、同じように感じるということだ。
たとえば、Aくんが歩道に立っていて、すると目の前を自動車が猛スピードで過ぎ去っていった。そのときは、当たり前だが車が動いている。
でも、その自動車の中から見たとき、動いているように見えるのはAくんの方である。

客席から舞台上(踊り手)を見たとき、向こう側の時間はゆっくり進行している。
翻って、舞台上から客席を見たとき、光の速さで動いている(ように見える)のはわたしたちがいる客席の方である。
ということは、向こう側からは、こちら側の時間の方が遅延して感じられているということである。眠っている観客を見て、「まだ寝てるよ」なんて思っているということである。

ここで、淑女の恋心の話に戻ります。
彼女は、焦がれるような想いを胸に秘め、誰かを待ち続けていたのでした。
でも、その待ち人はいつやって来るのかわからない。もしかしたら、やって来ないかもしれない。
でも彼女は淑女であるから、自らアクションを起こすことはできない。恋の成就に向けてスタートを切ることができない。
だから、彼女は、孤独に、佇んでいる。

それを見ている周りの人は、その姿を不憫に感じながらも、ムズムズしてたりする。なんなら、若干イラってしてたりもする。そんなに好きならそれを表現したらいいじゃないか、とか、あるいは、どうにもならないんなら切り替えるしかないじゃん、とかって思う。そんなんじゃ何にもはじまらないじゃないか、って。
つまり、彼女の時間は、人生は、停滞している、遅延している。
否応無しに進んでいく、流れていく周りの世界に、彼女は取り残されている。

でも、淑女から世界を見たとき、むしろ停滞(遅延)しているのは、世界の側である
なぜなら、待ち人がやってこないから。
彼女の気持ちのほうが先を行き過ぎてしまい、それに追いつこうとしない、つまり愛しい殿方を連れてくることのないこの世界は、動きを止めてしまったも同然なのである。

いつまでも待ち人を待ち続ける淑女を見つめる周囲の視線と、ゆっくりと動く女踊の踊り手を見つめる観客の視線は、相似を為している。
また、淑女から見た色の褪せた世界と、踊り手から見た客席の風景もまた、同様である。

客席から見た舞台上は遅延している。
舞台上から見た客席は遅延している。
世界から見た淑女は遅延している。
淑女から見た世界は遅延している。

このような仮説が、特殊相対性理論を用いることで浮かび上がってきた。
だからなんだ? って感じかもしれない。
それがなんになるんだ? って感じかもしれない。
でも、ここまで書いてきて、個人的に、なんかちょっとだけ救われたような気分になっている。
なぜか。

淑女のいる世界の住人たち、そして劇場内にいる人たちはみな、この仮説を了承しているからだ。
ムズムズしてたり、ウトウトしてたりするが、それでもまあわかったって、関係者がみんなこの状況を受け入れている。

すこしわかりづらいかもしれない。
こう書き換えたらどうだろうか?

世界から見た「私」は遅延している。
「私」から見た世界は遅延している。
その遅延を、世界も私も了承している。

これって、遅延や停滞を、非難や中傷の対象にすることがデフォルトになってしまったようなドライな現代社会を逆照射しているようにも受け取れるし、遅延や停滞を、肯定まではいかなくても受容してくれるような、そんな社会の姿を見せてくれているようにも感じた。

ということはつまり、公演中にウトウトしてしまうわたしを、みんなが了承してくれているのだと、そういうことなんだと思うわけです。ええ、たぶん、きっと、そうなのです。そういうことなのです。ええ。

(◆1)
まず、「光速度不変の原理」というのがあって、光の速さは、観測者の運動状態によって変化したりすることはありません。
止まっていようが動いていようが、どんな状態であろうが、光の速度は変わらないのです。

超高速で動く宇宙船の中で、天井と床にそれぞれ鏡を設置して、その間を光は1秒で動くということにします(これを「光時計」といいます)。
宇宙船の中でそれを観測している人から見ると、光は床や天井と垂直な方向で上下に行ったり来たりして、その時計は確実に1秒ずつ刻んでいます。

でも、それを、地上(宇宙船の外)から観察している人がいるとします。
するとその人から見える光の運動は、地面と垂直の方向からは、進行方向に向かってやや斜めに傾いているように見えます。
となると、光が運動した距離は、宇宙船内の床と天井の距離よりも長くなっていることになります。
(これは、物体を乗り物の中で落下させる運動を外から観察するのと同じようなことです)

そのとき、地上にも光時計を設置して、宇宙船のなかのそれと比べた場合、光の速さは変わらないので、地上の光の方がはやく1秒を刻むことになります。言い換えると、宇宙船内は時間がゆっくり進んでいることになるのです。

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