カテゴリー別アーカイブ: ハダ色の日々

「お祭り空間」において要求されるふるまいについて

僕はお祭りが苦手だった。
お祭りに行って、まっすぐに歩くこともできないほどの人混みに表情を硬直させ、屋台の前を横切りながら異様に利益率の高そうな商品に向かって「高い」と独り言ち、肌にまとわりつく湿った熱気からの脱出を望んで近くのコンビニを検索する。そのようにして僕は、僕をお祭りに連行した人間に「我の絶望」を表現してみせるのである(僕から誘うことなど皆無なのである)。

僕はお祭りが苦手だった。というより、「お祭り」で浮かれている大人が苦手だった。
大きな声で元気よく、羽目を外してはしゃいでいる「大人」を見るたび、どんより鬱屈の塊が胸に巣食ってしまうのだった。
祭りに行くたびに、「楽しむとは、こういうことさ」という「上から目線」(一方的な被害妄想であることはわかっています)なふるまいを見せつけられたら、だいたい、「うるせー!」と敵対的な態度をとるか、「はいはい、ご自由にお楽しみくださいな」と「逆上から目線」でマウントを(自分の中だけで)奪い返すか、どちらかの応答しかできないのである。
だから、祝祭空間の中心から発せられるポジティブでアクティブなエネルギーから逃れるように暗がりで不機嫌そうにタバコを吸っているおとうさんに、こちらは勝手なシンパシーを抱くのであった。

おそらく、僕と同じように「お祭り」に苦手意識を持っている方は意外といるんじゃないだろうか。
そうだろう、そうだろう。君も苦手だろう。僕と同じで、君も「お祭り」に対して「フンッ」なんて思ってるんだろう。
だが申し訳ない。僕はもう、そんな僕じゃないんだ。もう、いまの僕は、あなたとは違うのです。
先日やっと、「お祭り」の空間に要請されるふるまい方を把握することできた。これは大変なことである。これがわかれば、もう「お祭り」に対して不穏な感情を持つ必要がない。

では、「お祭り」での適切なふるまい方とはどのようなものか。結論から言おう。それは「別に楽しまなくていい」ということである。
もっとも、ベストなソリューションは「お祭りには行かない」というものであることは言うまでもないのだが、大人になるとは「お祭りに誘われたら渋々でも足を運ぶ」ことであるので、その選択肢を採用することは社会とのコミュニケーション拒否を表明することになるのです。それでもいいならそうしたらいいと思いますが、それだとお祭りうんぬんの前に社会人としてどうなのってことになるので、あれです。

僕が上に提示した「別に楽しまなくてもいい」というソリューションは、「お祭り楽しい」と「早く帰りてぇ」の間に位置する。
基本的にお祭りを楽しめない人間は、はやくこの場を去りたいと考える人間である。無論、お祭り空間を牛耳るのは「お祭り楽しい人間」であるので、彼らは、自分たちのテンション・モチベーションに追随してこようとしない「早く帰りてぇ人間」にムッとする。そうなると、楽しめるやつだけ楽しめばいいという思想を拡散させ、「お祭り楽しい人間」と「早く帰りてぇ人間」のあいだにはっきりとした断絶が生まれてしまう。そうして終いには、互いが互いを敵対するようになる。その後続々とお祭り空間に入ってくる人々は無意識のうちに、この2つのうちのどちらかに自らをカテゴライズし、そうしてその境界線はよりくっきりと浮かび上がってくる。

「別に楽しまなくていい」というのは、そこに第3のカテゴリーを形成することを目的とはしていない。そうではなくて、第1カテゴリー(お祭り楽しい)と第2カテゴリー(早く帰りてぇ)あいだでの対立から、もう一つ次数を上げた視点への乗り換えを両者に求めるのである。
そう考えるときに重要な切り口となるのは、なぜ「早く帰りてぇ人間」がお祭り空間の中に存在しているのか、ということです。
彼らはその空間の中に、隅っことはいえ、はっきりと居場所を獲得できています。これは、彼らの存在がお祭り空間に必要とされているということを意味しています。「お祭り楽しい」カテゴリーからは排他されても、「お祭り空間」からはその存在を保証される。これが意味しているのは、お祭り空間の適切な運営においては多様性の確保が決定的に重要である、ということであります。

もし空間内に存在するすべての人間が「お祭り楽しい人間」であった場合、純粋な熱狂がそこでは発生するが、それは得てして「宗教的」なものである。純粋性を希求する「宗教的」なものはその過程で必然的に「排除」を要請するのであり、そうなると一見的なふらっとお祭りに行ってみようとする客層を取り込むことに失敗するだろう。そのためには、純粋な熱狂が生まれにくい状況を確保しなければならない。
ただ、熱狂のないお祭り空間というのは単純に「盛り上がっていない」というふうに捉えられる。そうなると、これまた動員に悪影響を及ぼしてしまう。

そこで「お祭り空間」が組織的に採用した解決策が、中心に「熱狂」を置き、周縁に「倦怠」を配置するということだった。
だからカテゴリー間の対立というのは、実はディストピア的な帰結ではない。適切な運営を図ろうとするお祭り空間から要請されたものだったのである。

そしてそのときに重要となるのは、中心と周縁、つまり「熱狂」と「倦怠」を行き交うことができる層を出現させることである。それこそが「別に楽しまなくてもいい」第3のカテゴリーなのである。「別に楽しまなくてもいい人間」たちの場当たり的で奔放な移動というのが、第1カテゴリーと第2カテゴリーの間に通路を開拓することになり、お祭り全体の流動性を確保することになる。それによって、誰でも気軽に立ち寄りやすい「お祭り空間」を立ち上げることができるのである。

僕はもともと、「早く帰りてぇ人間」であった。でも、そのカテゴリーに属している限り、空間内では不機嫌なふるまいをみせるという表現方法でしか自分を確立させることができなかった。だから僕は、「別に楽しまなくていい人間」への移籍を行おうと思う。
「別に楽しまなくていい人間」に求められるふるまいは、「とりあえずリアクションだけする」ということである。屋台の前を通ったら「あ、焼き鳥だ」「射的やってるな」「金魚すくい懐かしいな」などというコメントを反射的に発するだけでいいのである。そこでは必ずしも「楽しい」を表現する必要はない。ただ歩いてコメントをする、というだけの行為で、お祭り空間の適切な形成過程に一役買っているのである。そう思うと、なんだか悪い気はしない。お祭りに行ってやってもいいかな、って思う。
そう思うことができたら、これはもう「立派な大人になった」っていうことにしていいのである。


p.s.
本日は、県内でもわりと大きな規模のお祭り「読谷祭り」があるようです。
みなさま、楽しんできて下さい。

なぜ子どもたちは、(イヌではなく)ネコの真似をするのか。

どうも。兼島と申します。
公演が終わって1ヶ月以上過ぎ、チョコ泥棒の活動は落ち着いていますが、今度は小学生と一緒に劇を作ったりしていて、いろいろと忙しくなっております、、、
こんな忙しい時ほど、なんらかのかたちで現実から逃亡したいと思うのが人間の性ですので(わかりませんが)、朝から日記感覚で文章を書くことをしております。
んで、最近ちょっと考えて面白かった話を。

わたくし、こんなことをする傍で保育園の園長をしておるのですが(しっかりせい!!)、年少クラスの先生が、デイケアで残った子どもたちが遊んでいるのを見ながら、ふと「なんで子どもたちって、イヌじゃなくてネコの真似で遊ぶんですかね?」とつぶやきました。
はっ!となる。
たしかに。
子どもたち同士で遊んでいる様子を見ると、ネコの真似をして「ミャーミャーミャーミャー」やっていることが多い気がする。「ワンワン」などと吠えながら遊んでいるのを見ることは少ない。
はて。これはどこの園でもこのような傾向になるのでしょうか?

「ワンワン」という記号表現に男性的な意味内容を付設し、「ミャー」には女性性を記号内容のうちに加えている、という仮説も考えられます。
うちの園は男女比でいうと女の子の方が多いから、だからネコが多い、と仮定することもできないことはない。でもそれじゃ、私自身は腑に落ちないのであります。
なぜかって、男の子もネコになって遊んでいるから。

じゃあなんでしょうか。
それはたぶんですね、ネコとイヌの違いってのは、コミュニケーションのあり方の違いなんじゃないかとパッとひらめいたのです。
犬の鳴き声は「ワンワン」(アメリカでは「バウワウ」です。とかそんなのはいいので)ですが、でもイヌは、「鳴く」ってより「吠える」というふうに表現されます。「イヌが『ワンワン』と鳴く」より「イヌが『ワンワン』と吠える」の方が、ふつう文章としてしっくりくるかと思います。
「吠える」の発信者から受信者への要請、つまり吠えた側から吠えられた側へ求められる応答は、なんらかの「行為」である場合がほとんどかと思うのです。
たとえば、番犬としての務めを果たすべく吠えまくっている犬が、その「吠える」べき対象に発しているのは「早くここから出てけ!」というメッセージです。あるいは、「お願いだから帰ってください」という懇願です。ほかにも、「飯をくれ!」という「ワンワン」や、「暇だ!付き合え!」という「ワンワン」などもありますが、いずれの「ワンワン」も、受信側に「行動」を要求しているのです。

一方猫が「ミャー」と鳴くとき、そのときに発信しているメッセージはほとんどない、と考えていいんじゃないか。
まあたまに「ニャギャーッ!」みたいな威嚇をしているところをアニメなどで見たことはありますが、基本的にネコって、知らん人の前で鳴くことって少ないんじゃないか、っていう印象を私は持っています。
じゃあ鳴いたときは、ネコは何を要請しているのか。それは単に「返事」じゃないか。「ミャー」という鳴き声に含まれるコンテンツよりも、受信側に同じように「ミャー」と返信してもらうという、その交信自体に大きな意味があるんじゃないか。そういうふうに思えるのです。
「ねえ、聞こえてる?」「あぁ、聞こえてる聞こえてる」というやりとりのうちに、双方は互いの接続を確認でき、安心感を得ることができます。
遠く離れた恋人同士が、中身のない話を延々と繰り返すような長電話をするのには、「つながっている」ことを確かめ合い安心感を得る、という大きな意味・効用がある。そのことを双方が直感できている場合は、遠距離でも関係性を維持することは可能でしょう。でも、どちらかが「で、何が言いたいの?」とか「そんな意味のない話なら電話切るよ?」とかってコンテンツを重視しだした途端、その関係性は終焉へと向かって駆動し始めます。
これは恋人関係に限った話ではありません。
例えば、私たちの社会では、「おはよう」という言葉には「おはよう」と応答しなければならない。それは朝に限らず、例えば午後から業務がはじまる職場などは、たとえ深夜だとしても、「おはよう」と言われたら「おはよう」と返さなければならない。「おいおい、もう深夜だぞ。こんばんわだろ」という言葉は野暮である。そんなこというやつは嫌われます。
なぜなら、「おはよう」の重要性はコンテンツにはないから。「朝早くからご苦労様です」というような意味内容を伝えたいのではなく、「おはよう」という返信をもらいたいのです。それは「あなたとわたしは同じ場所にいる」「あなたとわたしはつながっている」という確認作業であり、どんなに意見が合わない相手でも「とりあえずこの場においてはなんとかやっていこう」というようなメタメッセージを「おはよう」は含んでいるのです。
だから挨拶を軽視したり返事をしない人というのは、「場の共有」や「つながり」を拒否した人間として、そのコミュニティから自ら退散していったものとして認知されることになります。

イヌ的な「効率的」で「ビジネスライク」なコミュニケーションは、集団内でなにか一つの目標をすでに共有している時にはビシッと機能するでしょう。新企画のプロジェクトチームみたいな、そういったイメージでしょうか。
それからしたらネコ的なコミュニケーションは、地元の仲間との飲み会、みたいなイメージに近いかもしれません。ほとんど意味のない会話、何度も聞いた会話、そういった会話を延々積み上げていくような場。とりあえずワーワーやって、後になって何を話したかほとんど覚えていないような場。でもその、「無意味な時間」それ自体が、周囲とのつながりを確かめ合うには決定的に重要なのです。

子どもたちは遊びの場において、なぜイヌではなくネコの真似をするのか。
子どもたちは遊びの中で、「つながり」を確かめ合っているのです。「同じ場所にあなたとわたしがいる」という事実に包まれることで、安心して遊びの場に入っていくことができる。そのことを本能的に知っているからこそ、子どもたちは「ミャーミャー」と鳴きながらじゃれ合っているのです。